最終章

梨花のヒーロー


「やあやあ、桃香さん。お久しぶり…って、ムーグゥで何かありましたか?」


「え?」


 院長室の開け放した窓から濃い緑の匂いと共に熱風が入ってきて、桃香の前髪を揺らした。乱れた前髪を軽く整えるついでに、桃香は目元のあたりを指先でそっと撫でた。

 窓の外からは、待ちに待った梅雨明けと、一気に夏めいた日差しを祝うような蝉の声が聞こえる。


「今日はまた、やけに暑いな」

 院長は手元のリモコンを操作すると、席を立って窓を閉めた。蝉の声が遠くなり、その代わりに冷房の微かな動作音が聞こえる。


「梨花さんに聞いたんです。今日はムーグゥへ行ってから、こちらへ迎えに来ると」


 そう言いながらソファへ移動し、院長は首を巡らせて時計を見遣った。

「今日のリハビリが終わるまで、あと1時間くらいですかね。梨花さん、頑張ってますよ。このままいくと、予定より早く退院できるかもしれない」



 ソファへ腰掛けた院長に促され、桃香も向かい側に座った。


「本当に、リハビリ担当が驚くほどの回復ぶりです。もちろん本人の頑張りもありますが、桃香さんやお母様が長年続けてこられた運動やマッサージの効果だと思います」


 急に息が詰まったようになり、桃香は目を閉じて胸に手を当てた。静かに深く息を吸い、細く長く吐き出してから、ゆっくりと頷く。


「あれって、ちゃんと意味があったんですね。半信半疑になってしまうこともあったけど……良かった。ずっと続けてきて、良かった」



 亀山院長はソファの背もたれに寄りかかり、大きく背伸びした。患者の家族とはいえ長い付き合いなので、桃香と居るときは普段よりいくらかくつろいでしまう。ゴリゴリと音を立てて首を回しながら、可笑しそうに目を細めた。


「リハビリ仲間の間でも、すっかり人気者ですよ。なんせうち一番の古株がいきなり目覚めたかと思ったら、あっという間にメキメキと元気になっていくんですから。他の患者さんも『負けられん!』って張り切っちゃってね」


 ふふ、と微笑む桃香に、院長は姿勢を正して座り直した。


「桃香さんたちのおかげです。みなさん、これまでよく頑張られましたね」


「先生、駄目です。そんなこと言われたら私、泣いてしまいます」


 そうい言った桃香は、既に両手で顔を覆っていた。ついさっきまで散々泣いていて、ようやく泣き止んだところなのに、まだ涙は枯れないらしい。


「いいじゃないですか」

「でも、碧ちゃんだってしっかり頑張ってるのに、私なんて泣いてばっかり」


「いいんです。好きなだけ泣くといい。何でも話せばいい。相談ごとでも、ただの世間話でも。梨花さんが退院した後だって、遠慮せず好きな時にいらっしゃい。いつでも友人として歓迎しますよ」



 淡々と言いながらテーブルの下からボックスティシューを取り出して桃香の前に置き、院長はふらりとソファを離れた。「えっと、タオルはどこだったかな…」と呟きながらデスクの前をうろうろし始める。


 桃香は素早くテッシュを数枚掴み取ると、まぶたの上からぎゅっと押し付けた。そのままの格好で「キャビネットの一番左、上から3段目です」と冷静に指摘した後に、思わず笑ってしまう。


「先生、タオルの場所憶える気ないでしょ」


 院長は苦笑いしながら作り付けのキャビネットの左端の扉を開けた。艶のあるダークブラウンの扉がキィと小さな音を立てる。


「いやぁ、参ったなぁ。僕は整理整頓が本当に駄目でね。患者さんの手前、見えるところだけは綺麗にしてるんだけども…」


 ぶつぶつ言いながらもタオルを取り出すと桃香にそれを手渡し、のんびりとした動作でテーブルを回り込んでソファに座り直した。「婦長にいつも怒られちゃうんだよね」とぼやきながら腰を落ち着ける頃には、桃香は濡れたティッシュの代わりにタオルで顔を覆っていた。

 桃香のハンカチはとっくに湿っていて、使い物にならない。ふかふかのタオルがありがたかった。



「もう点滴も外れたし、流動食も卒業間近ですしね。今日の半日外泊も問題ないでしょう。ただし、くれぐれも無理はさせないように。梨花さん張り切っちゃって、車椅子なんて要らないーって突っ張ってましたから」


 院長は楽しそうに声を上げて笑った。桃香もタオルの下で苦笑する。


「お姉ちゃんって、ほんと、いっつもそう。強がって、私は大丈夫だから、って人の世話ばっかり焼いて……あの時も、そうだったんです。弱いくせに、私より小さいくせに、腕立て伏せなんて3回ぐらいしかできないくせに、石段の上で、私を助けに走ってきて……」


 院長には今までに何度も話してきたのに、また感情がこみ上げてきて、喉の奥を詰まらせた。止まりかけた涙がまた滲む。

 でも、最後の自分の言葉が、迷いを取り払ってくれた。どう話そうか、そもそも話すのはやめようかという迷いを。それにさっきだって先生は、私を友人として扱ってくれると言ってくれた。



「先生。今日ね、ムーグゥで……」

「はい」


 その穏やかな相槌に、院長は桃香がこの部屋に入ってきた時にした問いかけに答えるのを、今まで静かに待っていてくれたのがわかった。雑談を楽しんでいるふりで、桃香がそれを話せるようになるまで。


「ムーグゥで、私も患者さんの夢の中へ入ったんです。体験入隊みたいな感じで」


 まだタオルを顔に押し付けていたので見えはしないけれど、院長が優しく頷く気配がした。


「その中では、自分が思うヒーローの姿に変身するんですけど……私、わたし………お姉ちゃんの姿だった。あの頃の、お姉ちゃんの……」


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