709号室 片平梨花


 ほとんど強引に押し付けられたクッキーの缶を手に、片平桃香は佐藤竹広にお茶をすすめた。


「ペットボトルのお茶で申し訳ないんですけど」

「いやいや、ありがとうございます。右手やっちゃって、自力じゃプルタブもペットボトルも開けづらいんでね。助かります」


 車椅子の上で頭を下げ、男は左手でぎこちなくグラスを掴んで冷えたお茶を飲み干す。テーブルにグラスを置くと、桃香がすぐさまお茶を注ぎ足した。


「あ、すみません。いただきます。なんだか無性に喉が乾くんですよね」


 桃香は曖昧に微笑むと、膝の上の缶に目を落とした。


「これ、有名ですよね。前に食べたことがあって、姉も私も大好きなの。こんなにたくさんいただいてしまって」

「いやぁ、なんもです。白い恋人なんて、ベタすぎてね。お恥ずかしいんですが。道産子のサガなんだか、うちの連中は内地に来る時には必ずお土産用に幾つか買ってしまうんですよ。条件反射みたいなもんでね。あ、俺はいいです。食い飽きてるんで。皆さんでどうぞ」


 包装を解こうとして手を止め、桃香は缶をソファの脇に置いた。


「それにしても、そうちゃんには驚きましたよ。お礼を言いたくて病室に行っても居ないか寝てるかで、あれ以来話せてないんですけど、元気ですか?」


 入院しているのだから、元気というのもおかしいけれど。確かに、体の方は回復してきている。


「ええ、順調みたいですね。自由時間のうち大抵は、どなたかとお話ししているらしいんです。あの、夢の中で。この病院って、療養型というんですか、長期入院の患者さんがほとんどでしょう。うちの姉みたいに、容態の安定した昏睡状態の方も多いみたいで」



 ここ、亀山医院は、関東某県の郊外に建っている。郊外と一口に言っても、山の麓と言い換えた方が近いぐらいの、辺鄙な場所だ。最寄り駅から車で15分ほどだろうか、交通の便はイマイチだが、その分静かではあるし空気も綺麗だ。


「じゃあ、そうちゃんはその患者さんたちを起こして回ってるんですね。僕にしたように」


 ええ、と桃香は頷いた。


「ご家族から頼まれた場合だけ、ということですが。それでも全ての方と話せるわけではないみたいです。夢に現れても、ずっと眠ったままの方も居るらしくて」


「へえ。あれ、なんか不思議なんですよねえ。見ず知らずの子供に、『ぼくの夢の中だよ』とか突然言われたら、思いっきり不審じゃないですか、普通。でも、夢の中だからかな、へえ、そうなんだーみたいな感じですんなり受け入れてしまって。あ、もしかしてお姉さまも?」


 いえ、と今度は首を振る。


「私たちが初めて会った時、あの子はベッドの脇に座って姉の手を握り、眠っていたんです。私、驚いてしまって。あの子を急いで起こしてしまったんです。だって驚くでしょう? 談話室でたまに見かけてはいましたけど、知らない子だもの」

「ですよねえ」


「で、目を覚ましたそうちゃんが言うんです。まだ眠ったばっかりだったから、お姉さん起きられなかった、って。ほんと意味不明で」


「それは確かに理解不能だ」




 それが起きたのは、あの子がこちらへ転院してきて間もなくだった。


 桃香は以前から、店が休みの日には病院の談話室で、入院中の子供達を相手に絵本の読み聞かせのボランティアをしていた。姉の見舞いついでの暇つぶしという側面もあったが、その入院患者の家族や見舞い客が、店に寄って売り上げに貢献してくれることもあるのだ。


 娯楽の少ない入院生活、子供達は桃香の読み聞かせを楽しみにしていて、ほとんどの子がお話を聞きにやって来る。

 そんな中、新顔さんがやってきた。いつも談話室の入り口に隠れて聞いていて、目が合うと壁の後ろに隠れてしまう。一度、手招きをしたら走って逃げてしまったので、それ以降は無理に誘わず、好きなようにさせていたのだった。


 その子が。ある日いきなり、姉のベッドに突っ伏して眠っていたのだ。驚くなという方が無理だろう。その後、院長から詳しく聞いた話は、にわかには信じ難いものだった。




「そうちゃん、貴女の声が好きみたいですよ。優しくて、お母さんの声に少し似てるって」

「あら。そんなことを? 私には自分のこと、あまり話してくれないのに」


 桃香はそう言って、柔らかに笑って見せた。あの子が自分のことを話したがらない理由を、本当は知っていたから。



「恥ずかしいんですかね。いっちょまえに」


 佐藤もつられるように笑ったが、それはとても朴訥とした温かい笑顔だった。桃香がほんの少し、後ろめたさを覚えるほどに。


 様子を見る、などと言い繕っても、実際のところ私は、あの子の力を利用すべきかどうか値踏みしているのだ。天涯孤独となって傷つきもがいている、小さな子供を。



「……郷里くにへ帰る前に、直接お礼を言いたかったんですけどね。無理かなぁ」

「退院は明日でしたっけ」


「ええ。同僚に横領の濡れ衣着せられた上に婚約者に逃げられて、自棄になって仕事も辞めて。挙げ句、死ぬのにも失敗して。情けないけど、東京はもう懲り懲りですわ。尻尾巻いて帰ります」


「そんな……」


 ははは、と佐藤は快活に笑った。


「冗談です。いや、みんな本当の事ですけどね。でも横領の件は、長年組んできた同僚に裏切られたショックはありましたけど、他の連中は大体俺の事信じてくれて嬉しかったし。会社の上司も後輩も、学生時代の友人もね、『竹広は人を騙すような人間じゃない』って証言してくれたらしいんです。親父なんて、『うちの自慢の馬鹿息子は、人を騙せるほど頭は良くない』だって。酷いでしょ。 婚約者は……まあ、しょうがないですね。疑った事を謝りに来てはくれたけど、気持ちがね、元には戻られねかったんだわ」


 再び声をあげて笑い、左手の袖口で鼻を擦う。


「せっかく東京弁に馴染んだのに、もったいないとは少し思うんですけどね。こっちは刺身も不味いし毛ガニは高いし、親父も帰って来いと言ってくれたんでね。向こうでまた、頑張ります」


 佐藤はお菓子の包みを指差した。


「その中に、名刺入れときました。携帯番号入ってるんで、よかったら片平さんも、うちの方へ遊びに来てください。どこへでも、案内しますから。そうちゃんにも、海に潜って魚の獲り方獲教えてやるって伝えてください。男たるもの、魚のひとつやふたつ捕まえらんねばね。手紙でも書ければ良かったんだけども、この手じゃ無理だから」


 三角巾で吊られた右手を示し、肩をすくめる。



「それじゃ俺、そろそろ部屋に戻ります。長居してしまってすみません。あ、お姉さんにも」


 電動車椅子を操作してわざわざ向き直り、深く頭を下げる。


「お邪魔しました。どうぞ、お元気で」



 部屋を出かけて男は、「あ」と呟き動きを止めた。車椅子を通すためドアを開けて待っている桃香を振り仰ぐ。


「あの、片平さん。あの絵本、なんてタイトルか教えてもらえませんか」

「絵本? どれかしら」


「猫の家族のお話で、母猫が子猫に、胸の中に宝物を持ってるって教える話……」

「ああ、それ。日良カガミと言う作家の、『たからもの』っていう本ですね。タイトルは平仮名で、表紙も挿絵もモノクロの線画なんです」


「そっか。探してみます。戒めに、買って帰ろうと思って。森の中で、そうちゃんが暗唱してくれたんですよ」



 軽く握った左の拳でトントンと胸を叩き、佐藤は自分の病室へ帰って行った。




 男を見送った桃香はベッドの側へ戻ると、いつものように眠っている姉に話しかけた。


「ねえ、お姉ちゃん。あの子、私が心の拠り所にしてるのと同じ本、読んでたんだって。暗唱出来るぐらい、何度も。私、あの子に酷いことしてると思ってたけど、少しは役に立ててたのかな」


 屈伸させていた脚を戻し、もう一方の脚を抱え上げる。ゆっくりと膝の曲げ伸ばしを繰り返す。パジャマ越しに伝わる感触には、未だに慣れない。細くて軽くて、不安になる。

 脚を下ろし、桃香は姉の胸にそっと手を置いた。薄い胸を通して、心臓の鼓動を確かめる。


『それが動き続けている限り、生きていかねばなりません』


 目が覚めたら、お姉ちゃんもそう思ってくれるかな……心の中だけでそう呟き、桃香は努めて明るい表情を作った。締め切ったカーテンの外は夜の空、部屋の中には眠ったままの姉だけで、誰も見る人は居なかったけれど。



「そういえばさ、さっきの人、佐藤竹広さん。東京弁に馴染んだって言ってたけど、ちょくちょく訛り出てたよね。そもそもこっちじゃ東京弁なんて言わないしね。可愛くて、ちょっと笑いそうになっちゃった。もちろん笑ったりしたら不謹慎だから耐えたけど。でもさ、あの口調でなんか少し和んじゃったよ。方言ってなんかいいよねえ。あったかくてさ」


 今度は腕の上げ下ろし。手首を優しくつかみ、肘と肩に手を添えて、ゆっくりと腕を回す。


「いつか一緒に行こうよ、北海道。雪まつり見てさ、毛ガニとトウモロコシとじゃがバター食べて。あ、ジンギスカンも。あとは、ラーメンも有名なんだっけ? お刺身も美味しいらしいし、スープカレー……は、別にいいか。他に何があったっけ?」


「雪まつり以外、食べ物ばっかじゃねーか」


「あ、江木くんいつの間に。喋ってて気づかなかった」


 病室の入り口に、江木亮介が呆れたような笑みを浮かべてもたれ掛かっている。亮介は静かにゆっくりと扉を閉めながら、姉の元へとやってきた。


「しかも酒の進みそうなもんばっか」

「いいでしょ、別に」


「北海道ったら、あれじゃない? 時計台とかラベンダー畑とかさ」

「ああ……あったね」

「興味なさそうにも程があるぞ。じゃあ、マルセイバターサンドとか、ルタオのフロマージュとか、ロイズのチョコとか」

「なんでスイーツばっかよ。あ、余市のウイスキーもいいな」

「おっさんか」

「そっちこそ女子か。ごつい髭面のくせに」



 肘を支え、腕を曲げては伸ばす。この運動、どれだけ効果があるんだろう。そう思うことも無いではないが、やはりやらずにはいられない。

 筋肉量が落ち、当時より明らかに小さくなってしまった姉の身体。もし目覚めたとして、自由に動けるまでに回復するのだろうか。

 せめて、食事さえ自力で飲み込めるようになれば。車椅子だろうが寝たままだろうが、絶対に連れて行ってあげるからね。一緒に行こうね。北海道。



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