709号室 片平梨花
扉をノックする小さな音で、目を醒ました。どうやら少し、うとうとしてしまっていたらしい。
「はい」
姉のベッド脇から、ほんの数歩先。扉に嵌め込まれたデコボコのガラス窓から、ぼんやりと白衣が透けて見える。身長は自分と同じくらいで、髪に白いものが混じっている。扉を開ける前から、誰が来たのかわかっていた。
「院長先生。こんばんは」
「こんばんは、片平さん。お姉さんは今日もお元気かな?」
「ええ、変わりなく。今日も元気に眠ってます」
姉が目を醒さなくなって、もうじき10年になる。都市部の総合病院からここへ回されてからは、8年ほどだろうか。
初めの頃はもちろん様々な検査が行われたものだが、今では毎日の検温と脈拍のチェック、たまの血液検査ぐらいしかしていない。
姉は元々体が弱くはあったが、だからこそ健康には気を使っていた。風邪をひきやすかったり咳が出やすかったりするだけで、持病などはまるで無い。虫歯の一本さえも。
全くの健康体なのだ。目醒めない、ということ以外は。
静かにドアを閉め軽く点頭しながら、院長はベッドへ向かった。
「
眠っている姉に律儀に声をかけ、手首を取った。脈を確認し、額に手を当てる。
「うん。今日は特に顔色がいいみたいだね。マッサージ?」
「ええ。マッサージと、軽く運動をさせました。今日は、少し長めに」
ウンウンと頷きながら、亀山院長は点滴の様子を確認し、姉の手を布団の中へと戻した。
「よかったねえ、
「ありがとうございます。でも、今のところ大丈夫です。姉は軽いし、私は力持ちだから」
そう。この10年の間、私はよく食べよく動き、当たり前に成長した。もちろん、体重も増えた。元々体が大きかった私は、学生時代にはずっとバスケ部に所属し運動を欠かさなかったし、卒業後は花屋で仕事をしている。
花屋というのは実は、かなりの重労働だ。仕入れ時には切り花の詰まった大きなダンボールを抱え、店では水の入ったバケツを何度も上げ下ろし、花を満載した重たい花瓶やアレンジメントをいくつも配達し……だから、健康と体力には自信がある。
一方で、姉は。寝る子は育つ、なんてよく言うけれど、10年眠り続けた姉は……細く小さく、まるで枯れた花束みたいに軽い。
「そうそう、今日ね、うたちゃん無事に退院しましたよ。あなたに会えなくなるのを寂しがっていた。そうちゃんにもね。これ、預かってきました」
院長に手渡されたのは、ピンクのハート柄の封筒だった。ペタペタと貼られたシールに苦労しながら封を剥がすと、中には拙い字で「ロロちゃん」と書き添えられた、白い羽に紅色の嘴の鳥の絵が入っていた。
「ふふ。可愛い」
「ロロ、って名前ね、スケート選手のキャンデロロ? とかいう人から取って付けたらしいんですよ。僕は詳しくないんだけどね。元々お母さんが大ファンだったらしくて、うたちゃんも真似してロロ様ロロ様って」
「ええ、ロロ様。どこだったかな、確かフランスかどっかの方ですよね。かなりベテラン選手のはずですけど、今は動画サイトなんかで昔の映像もたくさん見られますし」
院長は意外そうに目を見開いた。
「詳しいんですね」
「母がフィギュアスケートファンだったんです。と言っても、専らテレビ観戦でしたけど。子供の頃、母が録画した昔の試合なんかを繰り返し見ていたので、私も古い選手は自然と覚えてしまって」
そういえば、姉がこうなってからは全く観ていない。大体、それどころじゃなかったし。お母さん、いつかアイスショーを観に行きたいって言ってたな。ロロ様、まだ滑ってるかどうかわからないけど、連れて行ってあげたかったな。
「
気遣うような院長の声。いけない、うっかり感傷に浸ってしまった。
「あ、ごめんなさい。ちょっと昔のことを思い出しちゃって……姉もフィギュアスケートが好きだったんです。人間の体が綺麗に動くのを見るのが好きなんだ、って。バレエやダンスもよく見てたけど、フィギュアスケートには加えてスピード感やアクロバット的な要素があるのが最高なんだ、って……母と二人ではしゃいで見ていたんです」
「
「ええ、私は自分で体を動かす方が好きだったから。姉と違って、元気は有り余っていたし」
ふふ、と桃香が小さく笑うと、院長も頬を緩めた。目尻に優しげな皺が浮かぶ。その表情に少し勇気を得た気がして、桃香は切り出した。
「あの、先生。私まだ、決心がつかないんです。姉のこと」
「ええ」
「父も母も、もう亡くなってしまったなんて知ったら、姉は……すごいショックを受けるだろうし、もしかしたら、自分を責めてしまうかもしれない。すべての元凶である私を憎んでくれるなら、まだいいんだけど」
「桃香さん。そういうのは駄目だと言ったでしょう? 何度も言うが、あなたは理由の一つではあれ元凶などではない。強いて言うなら、原因はお姉さんのあなたへの愛情です」
また、やってしまった。頭ではわかっているのだ。でも。何度そう言われても、何度その言葉を信じようとしても、事ある毎に、こうして浮かび上がってきては口をついて出てきてしまうのだ。
私の心の中にひっそりと染み付いた罪悪感が消えることはない。脳裏に焼きついた、あの場面の記憶と共に。
10年前のあの日、姉はいじめられていた私を助けようとして揉み合い、相手がはずみで階段を転げ落ちた。姉はその場に凍りつき、真っ白な顔でそれを見下ろしていた。石畳にじわじわと広がっていく血溜まりと、うつ伏せに倒れた『あいつ』を。
姉に駆け寄った私が彼女の腕を掴むと、それが合図だったかのように、姉は気を失った……
「すみません。そうですよね、うん。わかってます。わかってるんです」
「やはりもう少し、様子を見てみましょう。あの子の力についても、まだわからないことだらけだし、慎重に進めるべきかもしれないね。ただ、あの力がいつまで続くか。急に現れたものだから、また急に消えてしまうこともあり得るわけで」
「ええ、悠長に構えても居られませんね。でも……まだ不安なんです。あの子に姉を会わせるのは」
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