いつもの居酒屋 桃香と涼介


「だからさ、江木えぎくん。気持ちはありがたいんだけど、花屋へのお見舞いに花束持ってくるってどうなのよ」



 背の高い桃香でも見上げるほどの身長と、頑丈そうな肩から伸びるごつい二の腕を有するその男に、その可憐な花束はいささか滑稽に見える。文句を言いつつも、桃香は小さな花束を受け取った。


 ピンク色の紫陽花に、アキレアか。お花屋さん、このチョイスを上手にブーケにまとめてくれたな。桃香は香りを嗅ぐふりをして、花束に隠れて小さく笑った。



「だってさぁ。お菓子とか持って来ても、梨花りんかは食えないじゃん。花ならいい匂いするから、梨花りんかにもわかるかなと思って。っていうか、桃香自身は確かに花屋だけど、梨花りんかは違うじゃん」

「まぁ、正確にはそうだけど」



 花瓶に水を満たし、ラッピングを外した小さな花束を活ける。ピンクと白、そして初夏らしい爽やかなグリーンの組み合わせ。


……江木えぎくん、頑張って選んでくれたんだね。いつもありがとう。


 言葉にすると、江木えぎはいつも気の毒なくらい恐縮してしまうので、敢えて礼は述べなかった。代わりに、桃香はサイドテーブルに花瓶を置き、眠ったままの姉へ声をかける。


「ほら、お姉ちゃん。とっても素敵な花束だよ」


 江木えぎがこそばゆそうに巨体をもぞもぞさせ、腰掛けたソファを軋ませた。



 ◇◇◇



 四人掛けのテーブル席が4つと、カウンターが8席。日焼けした小柄な店長が一人で切り盛りしている小さな居酒屋には、時間が少し早いこともあり、片手で数えられるほどの客しか居なかった。


 桃香はほとんど空になったレモンハイを一気に空けると、すぐさま鶏の軟骨揚げを口に放り込み、同時に店長に目配せして空のグラスを掲げて、レモンハイのおかわりを要求した。


「はーい、ただいま。レモンハイお酒多めね」


 常連の居酒屋だけあって、すこぶる察しが良い。


「お前さあ、そのオッサンみたいな飲み方やめろって。嫁にいけねーぞ」

「うるさいな。そっちこそほんとのオッサンじゃん。しかも口うるさい」

「オッサンて。お前のねーちゃんと同い年だぞ。おまけにお前ともたったの3コ違いな」


 『あいつ』こと江木亮介えぎ りょうすけは、手にしていたウーロン茶のグラスを置いた。


 彼は学年にして2つ上、姉の高校の同級生だった男だ。あの事故の後なんやかんやあって、今では桃香の家に同居している。いわゆるシェアハウスというやつだ。


 

「それにしてもさ。眠っている患者と夢の中で話せるとか……漫画みたいな話だけど。実際、そのおかげで目を醒ます患者もいるわけだから、すごいよな。なんで梨花に会わせないの?」


 運ばれてきたレモンハイを睨みながら、桃香は口を噤んだ。どこまで、そしてどうやって説明しよう。姉が眠り続けるようになった一因でもある、この男に。

 軟骨揚げをもう一つ頬張り、時間を稼ぐ。よく噛んで食べなきゃね。うん。



「……会わせないって決めたわけじゃないの。でも、梨花のことはともかく、その子がね。突然家族を亡くしてほとんど天涯孤独になったばかりなうえに、その子自身もまだ療養中の身で色々不安定なのよ。それにあの力を使うと、体の方は妙な疲れ方をするみたいだし」


「体の方は、って?」

「うん。森から出た後、あ、夢から醒めた後ってことね」

「眠りの森」

「そう。その後は気分的にはいくらか落ち着いて、というか安らいでるようにさえ見えるんだけど、ぐったりしてその後こんこんと眠るのよ。眠りの森とは別の、あの子自身の睡眠ね」


 江木は、ウーロン茶のグラスを少しずらすと、テーブルに出来た輪っか状の水たまりをおしぼりで拭き取りながら、唸った。


「んー。イマイチよくわからんが、要は梨花の回復より、今はその子の回復が優先なんだな」

「そうなるね。様子見ながらだけどね」

「相手は子供で、軽症とはいえ怪我人だしな。そりゃそうだよな」



 肝心なところは上手くぼかして説明出来たかもしれない。桃香は心の中でだけ、ため息をついた。


 10年前。姉が気絶したまま眠り続けて一週間後のことだ。包帯でぐるぐる巻きにした頭で自宅を訪れ、怪我したその頭を擦り付けるように土下座してきたこの男に、もう余計な気苦労はかけたくなかった。

 悪かったのは自分なのだと周囲に訴え続け、そのせいで自分の両親とも大喧嘩して、親戚や友人たちからも遠巻きにされながら、ただひたすらに私たち家族に償おうとしてきたあの時、彼もまだ姉と同じ高校1年生だったのだ。

 それから10年、彼はまだ私たちの力になろうと、変わらずに支え続けてくれている。



 長い眠りから醒める時、姉は失ったものの大きさを知ることになる。実家の豆腐屋も廃業し、どころか両親とも亡くなっていて。何より青春期の10年間を無にしてしまったことを、姉は果たして受け止めきれるだろうか。

 どれだけ悲しみ、怒り、悩み、嘆くだろう。憎みさえ、するだろう。

 目の前で一見呑気そうなアホ面晒してメンチカツを頬張っているこの男は、姉の憎しみを一身に受けようと覚悟している。罵倒され、蔑まれ、罰せられることを望んでいるのだ。


 もちろん姉には目覚めて欲しい。でも、この男がそこまで憎まれるのを、そして姉がこの男をとことん罰するのを、私は見ていられるだろうか。私は江木くんを庇ってしまうかもしれない。それが、姉への裏切りになったとしても。

 10年というのは、それだけ長い時間だ。それが、私があの子に姉を任せるのを躊躇する、大きな理由の一つだった。


 私は、慣れてしまったのだろうか。この状況に。


 姉が眠ってから、10年。その間に様々なことが変わった。住み慣れた土地を離れ、私は学業を終えて社会人となった。父が亡くなり、次いで母も逝った。


 遺されたたった一人の肉親、梨花は、ずっと眠っている。家族の嘆きも願いも、憂いも祈りも届かない場所で、穏やかに眠り続けている。うんと耳を澄まさなければ聞き取れないほど静かに、静かに、呼吸を繰り返して。



 もしかしたら、私は……



 桃香はお通しの小鉢の中に残っていたタケノコを噛み砕くと、半分以上残っていたレモンハイを一息に煽った。頭の中を洗い流すかのように。



「お、今日は飲むねえ。おかわり頼むか?」


「ううん。もういい。綺麗サッパリ、ごちそうさまでした」




 迷ってるんじゃない。ちょっと、弱気になっただけ。ほんの一瞬、おかしな考えが掠めただけだから。



 少しだけ苦くなってしまった後味を消し去ろうと、桃香は唾を飲み込んだ。



 怖くない。私は怯えてなんかいない。何がどう変わっても、ちゃんと受け止める。今までだって、そうしてきた。色んなこと、ここまでなんとか乗り越えてきたんだもん。




 会計を済ませて戻ってきた江木涼介が、ミントのガムをくれた。レジの横に置いてあって、帰り際にいつも貰えるガムだ。


 店長に挨拶をして店を出ると、空は既に暮れていた。梅雨の合間の貴重な初夏の風を髪に通しながら、桃香はガムを噛んだ。たちまちミントの爽やかな香りが広がる。口の中で薄く引き伸ばし、息を吹き入れようとする。



「それ、膨らむやつじゃないよ」


 言いながら、隣を歩く涼介もガムを口に放り込んだ。

 桃香の口元で、プスッと小さな音を立ててガムが弾けた。ガムは膨らまなかったけれど、苦い後味は跡形もなく消え去っていた。


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