702号室 里村うた

 少年はうつ伏せていたベッドから身を起こすと、もぞもぞと目を擦った。もう一方の手は、まだ小さな手を繋いだままだ。


「うた?! うた、起きなさい。ほら、目を開けて」


 少女が横たわるベッドを挟んで反対側に立っていた女性が、屈み込むようにして少女を髪を梳き、かと思うと忙しない動作で柔らかな頬を撫でる。


「起きない。起きないわ、この子。どうなってるの?」


 責めるような、すがるような視線で少年を問い詰めるその女性は、里村うたの母親だった。



 少年は繋いでいた手を離すと、少女の腕に巻かれた包帯の上に遠慮がちに触れ、そっとベッドから離れた。そして、ぶかぶかのハーフパンツのポケットについたタグを弄りながら、心細げに話し始める。


「うたちゃん、ロロさまを見つけないと帰れない、って言ってました。大事にするって約束してやっと飼ってもらったのに、逃がしてしまったからって。閉め忘れた窓から近所の猫が入ってきて、ロロさまは窓から逃げちゃったそうです。猫に食べられちゃうかもしれないから、早く見つけなきゃいけないって」


 母親は、ほとんど叫ぶような声を上げた。


「ロロなら、家に帰ってきたわ! もう大丈夫だから。近所の方が見つけて、保護してくださったの。怪我もなく元気にしてるわ。だから、お願い。もう一度」



 それまで部屋の隅で気配を消していた若い女性が、すっと立ち上がり、身体を強張らせた少年の側へ回った。労わるように、その細い肩に手をかける。


「里村さん、申し訳ありません。今日はもう……」


 その柔らかな声を、金属的な響きの混じる声が遮った。


「どうして! 連れて帰ってくれるって言ったじゃないの! もう何日も、この子は! 怪我は大したことないのに、こうしてずっと寝たきりなんですよ?! やっと、やっと戻れると思ったのに!! 声が、聞けると思ったのに」


「お母さん」

 柔らかな物腰で、女性は母親の悲痛な声を制した。すらりと背の高いその女性は、頰にかかる短い髪を耳にかけなおし、そのまま流れるような仕草で少年の頭をそっと撫でた。


「この子も入院患者なんです、お母さん。お気持ちはお察ししますが、あまり疲れさせるわけにはいかなくて」


 

 母親はハッとして口元に手をやり、恥じ入るように視線を落とした。


「ごめんなさい。そうだったわね。私、取り乱してしまって……そうちゃん? 責めるようなことを言って、ごめんなさいね。今日は本当に、ありがとう」

 

 いえ……と口の中で呟き、少年もひょこっと頭を下げ返した。


「あの、うたちゃん、元気そうでした。森の中では包帯も巻いてなくて、話し方もしっかりしてた。ちゃんとご挨拶も出来てました。もし良ければ、あしたにでも、また話してみます」




 少年が看護師に付き添われて部屋を出て行くと、母親は大きなため息をついて簡素な丸椅子に腰掛け、少女の眠るベッドの端に顔を伏せた。


「申し訳ありませんでした、片平さん。もう私、何て言ったら……焦りすぎているのかもしれません」


「無理もありませんよ。ご心配なのはよくわかります。うたちゃん、ご近所の塀に登っていて落ちたと伺いました。きっと、ロロちゃんを捕まえようとして」


 母親は、力なく頷いた。


「ええ。救急で運ばれた時にはたくさん出血していて、本当に驚いたわ。生きた心地がしなかった。この子は遅くに授かった一人娘で、それはもう……大切に育ててきましたから。実際には、頭を切ったのと手首の打撲。あとは少し擦りむいたぐらいで、大したことはなかったんですが。でも、こんなに小さいのに……ロロを、あ、十姉妹なんです。この子がずっと欲しがっていたのに、私が厳しく約束させたばっかりに……」


「ロロちゃんのことは、今度森に入った時にあの子が伝えてくれるでしょう。きっと、大丈夫。あの子が人と夢の中で話すのは、今回が初めてではありませんし。数回にわたってお話しするケースもあるので」



 突然身を起こすと、母親は両手で額を覆った。


「ああ、あの子。蒼一くん。大丈夫かしら。私、本当になんてことを。彼もまだ、あんなに小さくて。ご家族も亡くされたばかりだというのに」


 片平桃香は緩やかに首を振ると、薄く微笑んだ。


「それには触れないであげてください。あの子の前では、まだ」

「ええ。ええ、もちろん。ただ私、やっぱり混乱というか、興奮していて。気持ちが追いついてないみたい」


「それも仕方ないと思います。事情が特殊ですし。最初は私も同じでした」



 膝に視線を落とし、小さく息を吐く。病室で姉の手を握ったまま眠っているあの子を見つけた時、そしてその口から飛び出した言葉を聞いた時、どんなに驚いたことか。



「だって、普通は思いませんもの。昏睡状態の他人の意識を、自分の夢の中に招き入れることが出来る。そんな能力を持つ者が存在するなんて」


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