第23話 昔の恋
穂乃実の祖母、本図タツが叔母の久子に連れられて来た。
病室は母親の嗚咽が続き、とても応対できる状態ではないので待合室に行ってもらった。
本図タツは七十八歳。小さなお婆さんだ。三男一女をなし、穂乃実の母淑子は末っ子だ。額が広く、上品な箱形の顔をしている。髪を真っ黒に染めてきれいに結い、顔立ちも理知的にしっかりして、一見呆けているようには見えないが、猜疑心の強すぎる目つきが心の状態の病的なところを思わせて、あまり印象はよろしくない。
入室した紅倉は、
「わたしたちだけで話させてくれますか?」
と、芙蓉以外の退室を求めた。久子おばさんは難色を示したが、年寄りのお守りもうんざりしていたようで、病室を見舞うことにした。久子おばさんは史哉が案内していき、綿引と守口は廊下で待たされた。
「こんにちは」
「あんたは、誰だね?」
「ふうん…、ま、昔のことをいろいろ知っている者です。あなたを裁くために呼びつけました」
「何を言ってるのか分からんね。年寄りに難しいこと言っても駄目じゃよ」
「呆けているんですってねえ? ま、その方が昔のことを思い出しやすくていいでしょう。
ではさっそく思い出してもらいましょう。
そうねえー、コイバナなんてどうですか?」
「はああ?」
「恋の話ですよ。最近の女の子はそう言うんですって。お婆ちゃんにもそういう青春時代があったでしょう?」
「そんなもんねえよ。昔の女はね、今みたいに、ハレンチに男といちゃいちゃくっついたりなんざしなかったんだよ」
「お婆ちゃんの若い頃って、大正?」
「ふざけんじゃないよ」
「あらごめんなさい。もう戦後ですよね? だったら、自由恋愛も解禁になっていたんじゃないですか?」
「フン。そんなのは東京もんのことだろう? わたしは田舎者なんでね」
「あらご謙遜。おしゃれな都会のモダンガールだったんじゃありません?」
「じょうだんじゃないよ、そんなもん」
「そんな顔なさってえ。素敵な若者と恋に落ちてときめいたりって思い出ないんですかあ?」
「ありゃあしないよ、そんな破廉恥」
「恋が、破廉恥ですか?」
老婆はギロリと紅倉を睨んだ。
「くだらね。今の若いのなんかみんなふしだらだよ。簡単にくっついて、簡単に離れちまう。恋なんてものはねえ、流行病といっしょさあ。熱に浮かされたと思ったら、けろっと退いちまう。病気の時は頭がおかしくなっちまってるのさあ。それを恋だの愛だの大騒ぎして、芸能人なんて馬鹿みたいに派手な披露宴テレビでさらして、簡単に離婚しちまうじゃないか? ああ、みっともない、恥ずかしいったらないねえ」
紅倉は笑った。
「テレビはお好きなんですね? ワイドショーの芸能ネタがお好き? わたしも一応芸能人なんですけれどねえ?」
「知らないねえ。どうせグラビアアイドル崩れのバカタレントじゃろうが?」
「口の悪いババアだこと。男性に恋したことはない?」
「ああ、ないねえ。わたしは見合い結婚だよ。女はそうした方がいいのさあ、身元のしっかりしたちゃんとした男の人を紹介してもらってねえ。自由恋愛だなんて、くだらねえ男と結婚して、熱が冷めていがみ合って、子どもがかわいそうだろうに」
「本当に、好きな男性はいなかったんですかあ?」
「しつこい女だねえ。おまえさん本当の外人さんかい? ここは日本だよ?、外国の習慣を無理強いするんじゃないよ」
「そんな敗戦国の被害妄想、あなたの親の世代でしょう? わたしは若い人たちの早い結婚と子育ては賛成ですよ? 若くて体力のある内の方がいいに決まってるじゃないですか? まあ、周りのサポートをもっと充実させないといけませんでしょうけれどねえ。その点昔の方が良かったですよねえ?」
「ああそうだよ。わたしが長男産んだのは十九の時だよ。ちゃんと旦那の家に大事にしてもらって、立派に育てさせてもらったよお」
「ふうん、なるほどねえ。でも末っ子の淑子さんは失敗だった?」
老婆はチッと舌打ちした。
「あの子がしゃべったかい? まったく、みっともねえ。ああそうだよ、失敗だったさ。だから自由恋愛なんてろくなもんじゃないんだよ。どうにもならなくなって親に泣きついてきて。わたしがきちんとしてやったから、今は立派な亭主を持ってきちんと暮らしてられるんじゃあないか?」
「きちんとした後始末ですか。淑子さんの恋人だった彼が自殺したのも、自業自得と思いますか?」
「いい年して、ちゃんと生きねえからさ。その通りだろう?」
「彼が自殺した場所をご存じですか?」
「知らないねえ」
「嘘おっしゃい、知ってるくせに。閂(かんぬき)岩ですよ、清浦崎の。ギョッとしたでしょう?そのことを聞いて」
「知らないねえ」
「知らないわけないでしょう? あなたの愛しい若旦那、清一郎さんが飛び込んだ所じゃないですか?」
「知らないねえ。誰のことだい?」
「下流庶民のあなたが結婚を許してもらえなかった、大店の跡取り息子さんですよ。あなた、大好きで、燃え上がる恋をして、二人で将来を誓い合ったんでしょう?」
「知らないったら知らないよ」
「周囲の大反対で、泣く泣く引き離されてしまったんですものねえ?、忘れたくなる気持ちも分からないでもないですが。
あなたは親や親戚の勧める、家柄の釣り合う、立派な男性と見合い結婚して、清一郎さんも良家のお嬢さんをお嫁さんに迎え入れた。
あなたは子どもも産んで、幸せな家庭生活を築き、ところが一方清一郎さんは、妻を迎えたにも関わらず女遊びにはまってしまって、挙げ句商売女を妊娠させて、とうとう家を放逐されてしまった。家を追い出された清一郎さんは女の家を転々として、すっかり金が無くなると、惨めに、断崖から海に身を投げて果てた、と。
どうして、清一郎さんはそこまで転落してしまったんでしょうねえ?」
「わたしの知ったことではないよ」
「転落した清一郎さんを、みっともないと思う?」
「どうでもいいよ。知らない男だ」
「まだ言いますか? あなたじゃありませんか?清一郎さんを転落させてしまったのは。
恋人時代、周囲に引き離されようとした二人は、心中を決心したんじゃありませんか? ところが約束の時、約束の場所に、あなたは来なかった。あなたは清一郎さんを裏切ったんです。一生を誓い合ったあなたの心変わりに清一郎さんは深く傷つき、すっかり女性不信になってしまったんです。妻を愛さず、女を男の欲望のはけ口としか見なさず、自暴自棄に不幸をまき散らし、みんなを傷つけた。褒められたものじゃない清一郎さんの罪ですが、清一郎さんは、
もう一度あなたに振り向いてほしかったんじゃないでしょうか?
あの日あの時約束の場所に現れなかったのは、周囲の者にばれて、無理やり引き止められたからじゃなかったのか? そう思い直したんじゃありませんか?
清一郎さんがそれだけ未練を引きずるほど、あなた方は深く激しく愛し合っていたんじゃありませんか?」
「勝手に見て来たような作り話してるんじゃないよ」
「あなた、家を追い出された清一郎さんから手紙をもらったでしょう? でもあなたはそれを読みもしないで燃やしてしまった。まああなたは既に長男を産んで二人目を妊娠中でしたから、今さら清一郎さんの思いになんか応えられるわけもなかったんですが。手紙、なんて書いてあったと思います? もう一度あの場所で待っている、と書かれていたんですよ? 馬鹿ですよねえ? どうして男っていうのはこう現実に目が雲って夢ばかり追いたがるんでしょうねえ? あははははは」
「なんなんだね、あんた?」
「それで死んだんですよ、清一郎さんは、あなたとの過去の夢を抱いて、一人、惨めに」
「・・・・・・・・」
「清一郎さんの家から恨み言を言われたでしょう?あなたのせいだって。冗談じゃない、そんな嫌味を言われる筋合いないですよねえ? あなたは求められたとおり清一郎さんと別れて、他の男性と結婚して、立派に自分の家庭を築いているんですから。全部一方的な清一郎さんの思い込みです。そうですよねえ? 悪いのは清一郎さんです。あなたはなんにも悪くありません。はい、失礼しました、そうです、あなたは何も悪くありません」
「嫌味な女だねえ。なんだい?何が言いたいんだい?」
「べ〜つ〜にい〜〜。あなたの賢い選択、生き方を肯定しているだけです。…………ふむ、
あなたは若者の自由恋愛を否定しましたが、では、
結婚したご主人への愛はどうです?
それも、愛なんて、どうでもいいと否定しますか?」
「人を冷血女みたいに決め付けるんじゃないよ。そんなの恥ずかしくて言えんがね、愛情は大切さあ。決まってんじゃないか」
「けっこう。では、どうして今になって迷います? どうして今になって清一郎さんの亡霊を呼び出すようなことをします?」
「はあ? まったく訳の分からないことを言う女だねえ? わたしはいったいいつまであんたの訳の分からないおしゃべりに付き合っていなくちゃならないのかね?」
「わたしがあなたを完全に言い負かすまでです。我慢して付き合ってください」
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