第21話 母の恋

 病院に着いた。

 穂乃実の病室には母親と史哉と綿引と守口がいた。父親は、こちらのお父さんもどうしても仕事が外せないということでいなかった。穂乃実の父は勤めていた大手建築会社を定年退職してから下請けの会社を興し、今現在社長さんなのであった。小さな会社で社員に給料を払ってやるためにやっているようなものだが、不況で失業率の高い昨今なかなかの仁徳者だ。

 紅倉は穂乃実の母親に今日は美也子に留守番をさせてお祖母さんを見舞いに来させるよう電話で依頼していた。もちろん電話したのは芙蓉だが、その祖母は、久子おばさんという父親の妹が連れてくることになっているがまだ来ていなかった。

 守口は紅倉と芙蓉が抜け駆けして既に金森の実家で話を聞いてきたことに不満そうだったが、親友とは言え家族外にべらべらしゃべるようなことではなかった。

 穂乃実の目覚めない病室は、殺伐とした空気が漂っていた。

 紅倉はその空気を切り裂くように入室し、じろっと母親を睨むようにして、

「今度はあなたにお話を聴かなくてはなりません。待合室に来ていただけますか?」

 と命じた。母親はギスギスした目で睨み返し、

「何をお聴きになりたいんです? わたし、別に後ろめたいようなことはありませんが?」

 と挑むように言った。

「そうですか? そうおっしゃるんなら、ここにいるのはみんな穂乃実さんの味方ばかりですから、わたしはかまいませんが………、かまわないんですね?」

 念を押す紅倉に母親はヒクリと額の青筋をうごめかせた。

「何を……」

「聴きますよ?」

「・・・・・・」

 母親の緊張が痛々しいほど伝わってくる。紅倉はさっさと済ませようと判断し、訊いた。

「穂乃実さんの父親は、誰ですか?」

 母親はギクリと目を張りつめ、場はえっ?という驚きに支配され、遠慮がちの疑念が母親を責めた。

「穂乃実の父親は夫に決まっているでしょう」

「違うでしょう?」

「何を馬鹿なことを言っているんです。何を根拠にそんな侮辱をするんです?」

「お嬢さん、穂乃実さんは、知っていますよ?」

 母親の驚きと恐れは大きく広がり、まなじりが裂けて血がにじみ出しそうだ。

「う、嘘よ……。この、ペテン師」

「あらあら、わたしを嘘つき呼ばわりですか? なんなら、今すぐ穂乃実さんを目覚めさせて本人の口から聞きましょうか?」

「ほ・・・・、穂乃実が知っている・・・・・・・」

 母親は真っ青な顔面を痙攣させ、ガタガタと震える視線をベッドに眠る娘に向けた。

「ち、違う……、穂乃実は夫の子よ、ううう、嘘じゃないわ・・・・・・」

「強情な人ねえ」

 紅倉は呆れたように言って、冷たい顔になった。

「じゃあやっぱり本人に話してもらいましょうか」

 眠る花嫁は、目覚めるのか?

 母親は、悲鳴を飲み込むような恐怖の表情で、娘を凝視した。

 紅倉は左手を肩の上辺りまで上げ、人差し指で宙を差し、しばらくじいっと何か待つようにし、皆の注目を浴びながら、おもむろにその指で穂乃実を差した。

 ぱちっと穂乃実の目が開いた。

「ヒッ・・・・」

 母親は慌てて悲鳴を手で押さえた。あれほど待ちわびた娘の目覚めを、何故これほど恐れる?

「穂乃実!」

 史哉が小さく呼びかけた。

「穂乃実。大丈夫か? 僕が分かるかい?」

 穂乃実の目が動き、史哉を見た。

「・・・・・」

 口を動かし、なかなか言葉が出てこないようにつばを飲み込み、言った。

「史哉さん」

「うん!そうだ、僕だよ」

 史哉は涙も溢れんばかりに笑みをこぼし、掛け布団の中の穂乃実の手を探り、握った。穂乃実は夫に小さく笑いかけ、目を、反対側の母親に向けた。じいっと見つめる。


「お母さん」


 母親は卒倒しそうに震え上がったが、思い直し、

「穂乃実」

 と呼びかけた。

「・・・・・・・・・・・・・」

 穂乃実はじいっと母親を見つめ続けた。母親の喉がゴクリと鳴った。

「目が覚めたところで、いいかしら?」

 紅倉の声に、母親は慌てて振り返り、怯えた目で凝視した。穂乃実も、じっと紅倉を見つめた。

「話せる?」

「・・・・」

 穂乃実は肩を動かし、起き上がろうとした。ほぼ三日間寝たきりで、体が凝ってしまっているのだろう。史哉が背に手を差し入れて起こしてやろうとすると、母親が慌てて止めた。

「待って! ……無理はいけないわ。そうよ、まずはお医者様を呼んで診ていただかなくては。お話はその後で。ね、史哉さん、そうしましょう」

「何を慌てているんです?」

 紅倉の声に母親はゾッと冷水を浴びせられたように震えた。

「勝手はしないでください。目覚めさせたのはわたしなんですから。いいわよね?」

 穂乃実は史哉の手で上半身を起こしてもらい、紅倉にうなずいた。

「ま、白湯くらいどうぞ」

 紅倉に促され史哉は穂乃実が目覚めたときのために用意していた吸いのみで白湯を飲ませてやった。

「美味しい? じゃあ質問に答えてね? あなたは自分が誰の子か、知ってる?」

「やめてえっ!!」

 母親は悲鳴を上げた、

「もう遅い」

 紅倉が冷たく突き放し、穂乃実もじっと表情のない顔で母親を見つめた。口を開き、言う。

「わたしは、駄目な三文小説家の子ども」

 母親は娘が知っていた真実に恐ろしい絶望を表し、一気に気が抜けてしまった。

「あなた…………、どうして、それを……………」

「わたしも知りたいわね。どうしてそれを? 誰から聞いたの?」

「水原の伯父さん」

「あああ………………………」

 母親は納得し、嘆くように声を絞り出した。

「なるほどね」

 長くしゃべるのはおっくうそうな穂乃実の思考にリンクして、紅倉が代わりに話した。

「お祖母さんのお兄さんの息子さんね? お父さん譲りに威張りん坊で、酒が入ると更にそれがひどくなるのね? さすがにそのことは身内の恥として秘密にしていたけれど、お祖父さん…お母さんのお父さんの法要の時?お酒が回って、ついべらべらと、穂乃実さんに「いいか、おまえの本当の親父はな」と言わなくていいことをしゃべっちゃったのね。えーと、穂乃実さんが中学三年生の時?」

 穂乃実がうなずいた。

「だそうですよ、お母さん?」

「ええ。分かりました。あの人なら父親に聞いて知っていたんでしょうよ。親子揃って……殺してやりたいわ!………。穂乃実。あなたが中学三年生の時?」

 うなずく穂乃実。

「そう……。その頃だったかしらねえ、あなたがやけにふさぎ込むようになったのは。受験のせいかと思っていたけれど……」

 紅倉。

「白々しい。穂乃実さんが落ち込んでいたのは子どもの頃からでしょうが? それが意地悪なお祖母さんのせいだと分かっていたのでしょう? あなたは母親の言葉に従ってそれを躾だと無理やり思い込んでいただけよ」

「……………ごめんなさい…………………………」

「フン。」

 紅倉は自分の腹立ちを吐き出して、続けた。

「穂乃実さんは、美也子さんが産まれてからずっと悩んでいた。どうしてお祖母ちゃんはあんなに厳しくて、お母さんは自分に冷たいのだろう?と。お行儀良くしなさい!と厳しくされて、それが躾というものだと子供心に納得しようとしていたけれど、みんな妹の美也子さんはニコニコと甘やかして可愛がる。相変わらず自分にだけ冷たく厳しいのは、やっぱり自分が嫌いなだけなんじゃないか? そう言えば自分一人だけ家族の誰とも似ていない。テレビのドラマを見て、ああそうか、自分は病院で他の赤ちゃんと間違えて取り替えられちゃった子なんだ、この家の本当の子どもじゃないんだ、と、思い悩んで、一人ぽろぽろ涙をこぼしていたのよね?」

「穂乃実、あなたそんなことを……」

 母親は疲れ切った顔で精一杯娘をいたわるように言ったが、穂乃実はじっと無表情に見つめるばかりだった。穂乃実はこの母親とは全体の顔立ちがよく似ていると思える。それなのにそのように思い悩んでいたのは、それだけ疎外感が激しく、心が傷ついていたのだろう。

 紅倉がようやく母親を許すいたわりの声で言った。

「お母さん。穂乃実さんが知っているのはそれだけです。心ない伯父の言葉で、自分の本当の父親はろくでもない社会のゴミだ、と思わせられているんです。あなたも、そう思っていますか?」

 母親は、せっかくの紅倉の優しい言葉にも関わらず、眉間に深いしわを刻み、思い悩んだ。

「……………あの人は……、悪い人ではありませんでした……。志のある、立派な人でした。でも………、世の中できちんと生きて、闘っていこうという強さはありませんでした……」

「つまり、夢を追うばかりで、生活力はゼロだった、と」

「…そういうことです……。一流の小説家を目指して頑張っていましたが、なかなか芽が出ず、焦りばかり大きくなって……、あの人は、小説を書くことにのみ捕らわれて、現実の世界から遊離していきました。小説が全てで、わたしのことも、お腹の中の子も、すっかり眼中になく……。それで仕方なく、わたしは彼を見限ったんです」

「その彼はその後?」

「けっきょくずっと狙っていた文学賞を取れず、生活に困窮して、やせ衰え、病気になり、最後は、海に身を投げて自ら命を絶ってしまいました……………」

 母親は苦悩し、穂乃実より自分に言い聞かせるように言った。

「あの人は、弱い人だったんです。きちんと生きる力がなかったんです。他人を当てにして、その保護なしでは生きていけない、ひ弱な人だったんです。わたしは恋人よりも、あの人の保護者のようなものでした。わたしが見捨てたから、あの人は死んだのかも知れません。でも、自分でちゃんと生きなくちゃあ、世の中、生きていけないでしょう?」

 かつての恋人を死なせてしまった悔恨の訴えにも聞こえる。弱い彼が自ら死んでしまったのは、彼女のせいではないように思われる。彼女の罪ではない。しかし。

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