第19話 思いがけない邪悪
ひとまず検査が終わって、大丈夫でしょうと言うので紅倉たちは喜久蔵氏に面会した。
喜久蔵氏は紅倉に礼を言い、今度の日曜日の結婚式は是非予定通り行いたいと言った。これには家族と医者が「交通事故の後遺症は時間を置いて現れる場合がありますから、しばらくは安静にして様子を見てください」と今度の日曜日は見合わせるよう勧めた。喜久蔵氏は今度は意地になり、
「ええい、俺は大丈夫だ。俺のつまらん事故のせいで結婚にけちが付くなんて俺は嫌だ!」
と、それまでと反対のことを言った。
「何言ってんです! 結婚式で倒れたりしたら、それこそ一生後悔することになるでしょう!?」
と奥さんに叱られ、喜久蔵氏は仏頂面でいじけてしまった。
「美貴ちゃん、診てあげて」
紅倉に言われ、芙蓉は手をかざして喜久蔵氏のオーラを探った。
「傷は見当たりませんが」
「じゃ大丈夫でしょう。美貴ちゃんの見立ては下手なMRIよりずっと正確だから」
と、医者の前で紅倉は大威張りした。
「ほれ見い、先生もこうおっしゃっておられる」
と喜久蔵氏、調子のいいことを言って、
「ただし」
と注文を付けた。
「わたしのことは感謝しますがな、娘の結婚式は別ですぞ? あなたは…、今日はいつだ?」
「火曜日ですよ」
「うん、じゃあ、あさってか? 木曜の正午までに絶対に安全だという証拠を見せる、と、約束したんでしたよな?」
紅倉はコックリうなずいた。
「ではその証拠を見せていただきませんとな。俺は結婚は認めたが、結婚式を認めたわけではないからな」
と、元気が戻ってきたらまた強情もぶり返してきた。それを受けて紅倉も
「けっこうですよ。約束は約束です。絶対納得していただきますからね。ただ、今のあなたを何度も式場に来させるわけにはいきませんから……、ま、何か考えましょう。では、木曜、お昼に」
と、辞去することにした。
「ああ、先生。今度うちの蔵に寄ってください。うんとご馳走しますよ」
大きな笑顔で言う喜久蔵氏に、
「わたし小食で、お酒も飲めませんよ?」
紅倉は苦笑しながら、表情は楽しそうだった。
「そうですか、まったくどいつもこいつも…。いや、とにかく一度どうぞ。きちんとお礼をせにゃあ気が収まりません」
「はいはい。楽しみにしておきます。それじゃ」
笑顔で喜久蔵氏の病室を出た紅倉だったが、駐車場に戻る頃にはまたすっかり暗い顔になっていた。時刻は四時過ぎ。新潟まで普通に帰っても二時間掛かる距離だ。
「もうまっすぐ帰っていいですか?」
「そうね。帰りましょう。もうこっちに用はないわ」
「ゆっくりしていれば恋人岬で綺麗な夕日が見られそうですよ?」
「いい。興味なし」
「そうですか? では帰りましょうか」
紅倉はさっさと後部座席に乗り込んでしまった。相当しょげているようだ。芙蓉は連れのアベックに残念でしたと肩をすくめて見せた。二人はぎこちなく苦笑したが、やはり紅倉が視た物が気になって落ち着かないようだ。
来た道を反対に辿っていく。今度は海側の車線で、午後の日が海の上にあり、波の反射がギラギラと眩しい。紅倉はもう海なんて見たくもないようにブスッとした顔で反対を向いている。芙蓉はルームミラーでチラチラ覗きながら、運転がおろそかにならないよう気を付けた。
『恋人たちの岬』が見えてきた。芙蓉はつい考えてしまう、本当にここをそのままにしていていいのだろうか? ついでながら、メジャーな伊豆の恋人岬は旧名を「廻り崎」と言い、元から恋人たちが互いに鐘を鳴らして愛を確認し合った幸せな愛のモニュメントであり、グアムの恋人岬は、こちらも悲劇である。しかし。身分違いの恋人同士が、引き離されるのを拒否し、決して離れまいと互いの髪の毛を結び合って海へ飛び下り、永遠の愛をまっとうしたという、悲劇ではあるが、愛を貫いた肯定的な物語であり、二人の魂は恋人たちの守護神として尊敬されている。裏切りと悔恨の佐渡情話とはまったく性格が異なる。紅倉は神は力と割り切るが、陰惨なイメージは拭えない。自殺名所だった過去が明かされれば訪れる恋人たちは激減するだろう。などと思っている内に通り過ぎてしまった。バックミラーに遠ざかっていく、ギラギラした照り返しをバックに黒い影となった岩山を見ながら、人も、自然の美しさも、罪なものだなと思った。
バックミラーで後続のカローラを見る。帰りは芙蓉が先行している。運転する守口と助手席の綿引が何やら楽しそうにおしゃべりしている。まあ羨ましいことと思う。からかい半分にお似合いのアベックなんて思っていたが、本当にいい感じになっているようだ。まあ他人の恋など余計なお節介をするものじゃないが、本当におつき合いするようになったら面白いなと野次馬根性で思ってしまう。芙蓉は、どうせ自分は普通の恋とは縁のない女だ、と思う。別に羨ましくも思わないが。
運転に集中しようと思いながらどうもつらつら余計なことを考えてしまう。実は芙蓉も紅倉の考えていることが気になって仕方ないのだ。
「疲れた。休みたい」
「はい」
芙蓉はウインカーを点滅させ、柏崎の恋人岬向かって左折していった。
けっきょくまた昼と同じレストランで早めの夕食を取ることにした。せっかく新鮮なシーフード料理がご自慢だが、紅倉は生ものは駄目だ。すっかりお気に入りのパスタを注文し、芙蓉もおつき合いした。紅倉は一つ何か気に入るとそればかり食べたがる。偏食ぶりは困ったものだ。向かいに座ったアベックにはどうぞお好きなものをと促した。守口は鯛のコース料理を、綿引は海老フライセットを注文した。守口の腹ではここで粘って夕日を眺めていきたいようだ。芙蓉に異存はないが。
「親友夫婦が大変だっていうのに、どうも僕はのんきにかまえちゃっていけませんねえ」
守口は鯛のカルパッチョを賞味しながら笑った。
「なんだかねえ…、紅倉先生の話を聞くのが怖いのかなあ?」
守口は細いおしゃれなフレームの眼鏡の向こうから紅倉に視線を向けたが、胃の痛くなるような緊張が見えている。紅倉は海老とアサリのスパゲッティーと格闘している。芙蓉はクルクル麺を巻きながら、紅倉がしゃべる気になるのを待っている。紅倉は
「お食事中!」
と、跳んで逃げる海老に口を尖らせながら言った。芙蓉と守口は顔を見合わせ、仕方ない、と自分たちの料理を楽しんだ。
一通り食事が済んで、デザートのアイスクリームとコーヒーを注文した。ここは海の見えるロケーションではないが、緑の林が黒々した陰を濃くする向こうの空は、雲が蛍光ピンクに色づき始めている。
アイスクリームを食べながら、ようやく紅倉は話しだした。
「今回の事件でもっとも重要な原因が花嫁穂乃実さんの心の状態であるのは間違いないけれど、それは、どうも彼女が結婚目前のフィアンセを亡くしているという過去だけが原因ではない、らしい、というのは感じているわよね?」
三人はしっかり紅倉に注目しながらうなずいた。
「穂乃実さんと同じように花婿史哉さんも結婚目前のフィアンセを亡くしている。しかも彼女が真っ赤なウエディングドレスを着ようとしていたことが、穂乃実さんが倒れたのは彼女、瑤子さんの呪いなのではないか?、と史哉さんは悩み、苦しんでいる」
守口がうなずいた。
「ところが穂乃実さんは家庭にも問題がありそうだ。結婚に失敗して子連れで出戻った妹は姉をないがしろにし、自分の失敗は何でもかんでも姉のせいだと言うような態度。この妹がそんな困った我が儘ギャルに育ってしまったのは、どうやら母方の祖母の育て方が大いに影響しているようだ。この祖母は、相当嫌なクソババアみたいで、妹を甘やかし放題な一方、同じ孫の姉穂乃実さんには子どもの頃から辛く当たり、憎んでいるとしか思えない。そんな困った姉妹の状況を、しかし母親は何か自分の母親に遠慮して放置してしまっている……。いったいなんなのかしらね?」
紅倉は相当腹立たしそうだ。
「美貴ちゃんはその祖母の態度を、姉妹の父親の問題、すなわち、姉妹は別々の父親の子どもで、姉穂乃実さんの父親を祖母が憎んでいるせいではないか?、と推理したけれど……、そうよね、これは明日、本人に直接確かめましょう」
つまり、祖母、本図タツと会うということか? 紅倉は気が重いようにため息をついた。
「お母さんにもね、確かめなくちゃ。根が深いわねえー……」
気を取り直し。
「それとは別に自殺名所の『恋人たちの岬』なんて舞台が出てきて、これが穂乃実さんが結婚式場に引き寄せちゃった魔界の本体で、あの程度の霊団……霊の団体さんね、に異常なパワーを与えている……」
紅倉は難しい顔で考えた。
「わたしは昨日史哉さんの話を聞いて、『恋人たちの岬』が怪しいって睨んだとき、もっと単純に、せっかく二人で願掛けしたのに愛の成就しなかった恋人たちの恨みの念が溜まり溜まったものに海の舟幽霊やなんかがくっついたものだろうと想像したのね。ところが実際は、もっと直接的に、元々自殺の名所で、そこで死んだ人たちの恨みや無念の思いが渦巻いた、本格的な『魔界』だった。……それも今は改善されているけれどね」
後のはいかにも付け足しっぽい。
「教会の『魔界』はそこまで重いものじゃないのよね……。こっちはもっと軽い、あんたたちだけ幸せになるなんて許せない〜〜、っていう、嫉妬、よね? 結婚式に招待されている未婚の女性にはよくある思いじゃない?」
同意を求められて綿引は苦笑した。
「ま、その程度のものなわけよ。だからぜーんぜん、深刻に考えてなかったんだけど…………。
教会の『魔界』と、『恋人たちの岬』の『魔界』は、元々別々の物よ。
それを結びつけた物がいる。
不幸にも婚約者を亡くした穂乃実さんの思いもそうだけど、もっと、
邪悪で、
はっきりした目的を持った物がいるのよ!」
カッと怒りを表した紅倉が、すぐに暗く沈んだ顔になった。
「邪悪よ。許せない悪よ。……でも……………」
紅倉はひどく苦しそうに迷った。そして決心すると、綿引と守口に尋ねた。
「あなたたちは新郎新婦、それぞれの親友よね?」
二人はもちろんとうなずいた。
「これからも、二人の友人として、二人の味方でいつづけると、誓える?」
二人は困惑し、紅倉の真剣な目に、二人顔を見合わせ、
「はい」
とうなずいた。
「二人は運命的な出会いをした、運命の恋人たち、よね?
じゃあ、もし、
亡くなった光太郎さんと瑤子さんが、
運命の二人の運命のための、犠牲だったとしたら?
運命の二人が出会い、結ばれるために、運命に殺されたのだとしたら、どう?」
守口は目を大きく開き、目の周りを紅潮させ、ひどく怒った顔になった。
綿引は、ひどく怯えた。
「そんな…………」
「もちろん穂乃実さん史哉さんがそれを望んだんじゃない、二人は心から愛していた恋人を亡くして絶望的に悲しんだわ。
二人を是非とも結びつけたい者があった。
そして、二人は、生まれながらに結ばれるべき運命にあった」
芙蓉が努めて冷静に訊いた。
「それは、二人の前世の問題ですか? 前世で二人が恋人であったとか?」
紅倉は暗く首を振った。
「そんなロマンチックなものでもないわね。もっと、直接的に、それを望む者がいるのよ……」
紅倉の口振りは、まるでその相手が生きている者であるかのようだった。
「守口さん。あなたは、史哉さんの両親のことを知っているかしらね?」
「金森のお父さんお母さんですか? いやあ……、あいつとの付き合いは大学と自分たちのアパートが主だったから、家に遊びに行ったこともなかったし、会ったのは……、結婚式が大学の卒業式以来でしたよ」
「そう」
紅倉はほっとしたように軽くうなずき。
「ではこれも明日、史哉さん本人に聴きましょう。もっとも、本人も知っているかどうか分からないけれど」
そう言われると守口は気になってしょうがない。綿引も、相手の両親がどんな人だったか思い出してみる。父親は息子とよく似て背が高く、彫りの深い顔立ちの、スポーツマンタイプのかっこいいおじさまだった。母親は旦那さんとはずいぶん背の高さの違う小柄な人で、柔らかな輪郭で、色白の、とてもにこやかな人だった。凸凹ペアが微笑ましい、仲の良さそうな夫婦で、息子の結婚をニコニコと、とても喜んでいた。静かでいかめしい新婦の親族とは対照的で、羨ましく思ったのを思い出した。そういえば親族の人数が少ないかと思ったが、今どき田舎の方でもなければ伯父叔母従姉妹が何組もあるという方が珍しいか。
あの微笑ましく明るい夫婦に、家族に、いったいどんな悩ましい秘密があるのか想像もつかない。史哉は一人息子で、三人家族だ。
けっきょく、恋人岬で夕日の沈むのを見た。オレンジ色の空に雲が劇的なコントラストになって佐渡島の沖に沈んでいく黄色の夕日は感動的に美しかった。清浦崎ではどう見えるのだろう? こちらはロマンチックに酔いしれる恋人たちでにぎわい、楽しい雰囲気だ。
その中で紅倉一人だけ悲しそうだった。
芙蓉は寄り添い、肩を抱きしめた。事件はともかく、この景色を先生と二人で見られて良かった、と思った。二人の大切な思い出の一ページだ。
日が沈み、まだ空が赤くても、急激に夜の闇は濃くなっていく。振り返ってみると道路照明の向こうの林や建物はすっかり黒いシルエットになって夜空に溶け込もうとしている。
「さ、行きましょう」
まだ名残惜しそうな恋人たちを後目に、芙蓉は紅倉の手を握り歩き出した。
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