第18話 ハートとチェーンとキイ

 島田喜久蔵氏が事故を起こしたという場所は岩山をくり抜く長めのトンネルを抜けて、次の岩を避けるためにカーブした所で、道路を切り取った斜面を補強するコンクリートの壁に激突して斜めに滑る傷跡が生々しく付いていた。出てきたトンネルの入り口には「出口カーブ注意!」の警告プレートがあった。

 喜久蔵氏は上越市の病院に入院していた。エアバッグのおかげで鞭打ちが心配される程度だが、それだからなおさら意識の戻らないのが心配される。脳や神経に深刻なダメージを負っているのでは?と疑われるのだ。

 病室に颯爽と登場した紅倉は。

 病室にはちょうど奥さんと娘とそのフィアンセが集まって、喜久蔵氏の枕元で心配そうに目を覚ますのを待っていた。

 フィアンセはちょっと可愛い感じの楽しそうな青年だったが、娘さんの方は、花嫁と言うことで芙蓉が勝手にイメージしていたのとはちょっとキャラクターが違った。正直言うと、あまり美人とは言えない、小柄で、ちょっと堅太りした、父親譲りの頑固そうな顔つきの娘さんだった。カラオケの十八番は天童よしみだろう。お母さんもごく普通の婦人だった。酒造会社の専務を務めているということで、普段はもっと強い感じの人なのだろうが、今はさすがに夫の容態が心配で弱気になっている。芙蓉は穂乃実の母のように妙に棘のある被害妄想的な対応をしてくれなければよいのだがと心配した。

 病室に場違いな紅倉が、何者か分かっていない母親に挨拶を済ませると、結婚予定の若い二人に言った。

「あなたたち、結婚したいわよねえ?」

 芙蓉はまたあちゃー…と思ったが。

「紅倉美姫先生! 僕たちを助けてくれるんですか?」

 と、フィアンセの…、廣井周平が明るい笑顔で言った。あまりいい顔をしない婚約者とその母親には、

「いや、そういうことってね、本当にあるんですよ? ねえ?」

 と、芙蓉たちに笑顔を向けて取りなしてくれた。実家がラブホテルを経営しているから、もしかしたら実体験としてそういうことに出会っているのかも知れない。なんにしてもさすが客商売の家だけに如才ない。実家の職業に対する変なコンプレックスもないようだ。これならお酒は飲めなくても酒造会社に婿入りして十分やっていけるんじゃないかと思われるが。その周平君が今度は二人の懸念を代表してうんと顔を曇らせて尋ねた。

「お父さんは、やはり何か悪い物に憑かれているんでしょうか?」

 芙蓉は上手いなあと感心して。紅倉が任せなさい!と力強くうなずいて言った。

「わたしはその為に来たのです。お父さんはやっかいな悪霊に捕まってしまっているのですが、それというのが、お父さんは二人の結婚に反対しているんですね?」

 母親は今さらそんなことをと迷惑そうな顔をしたが、周平はうんと困って、

「お恥ずかしながら。僕がこんなんですからお父様のお気に召さなくて」

 と自分を悪者にして言った。

「そんなことじゃないわよ」

 と花嫁……沙希は怒ったように言うが、周平は苦笑しながらまあまあとなだめた。本当に気配りの固まりみたいな人だ。結婚後は奥さんの尻に敷かれるのを甘んじて受け入れそうだ。

「お父さんは自分が目を覚まさなければ娘さんの結婚式が流れると思っているんですね。ま、そういう風に悪霊にそそのかされているんです」

 紅倉はいかにも困ったものだとうんうんうなずき。

「そこで! 悪霊の誘惑を跳ね返すためにも!、お二人の愛する思いをお父さんに十分納得してもらわなければなりません! そこで!、はい、美貴ちゃん、あれ出して」

 促されて芙蓉が袋から取り出したのは売店で買ったハートのプレートとキイ付きのチェーンである。思わぬ早い出番だ。芙蓉は、

「油性のマジックは…、ないですよね。守口さん、ナースステーションで借りてきて」

 と、守口を使いっ走りさせた。待たずに紅倉は説明する。

「『恋人岬』には行ったことありますか?」

「いえ。沙希ちゃんがあんまりそういうの好きじゃなくって…」

「それは残念。なかなか良い御利益のあるところだから今度是非行ってごらんなさい」

 周平たちは当然鴎ヶ鼻の恋人岬を思い浮かべているだろうが、実は父親に取り憑く悪霊の本体の方である。

「これに取り出しましたるラブラブグッズで、あなたたち二人の思いと、恋人岬のラブパワーをリンクさせ、悪霊を退散させまーす!」

 周平は面白そうなイベントに目を輝かせているが、説明通りに受け取れば二人を悪霊の本体にリンクさせるわけで、いいのだろうか? 今ひとつ乗り気でない頑固者の沙希に、

「もちろん、安全なようにわたしと美貴ちゃんがバックアップしますから、ご安心を」

 と、勘違いした説明をした。どうやら芙蓉にも出番があって、沙希も周平に誘われて仕方なく付き合ってくれるようではあるが。

「お待たせしました」

 と、守口が黒の名前ペンを借りてきた。

「はい、じゃあ、ハートに二人の名前を書いてね?」

 芙蓉にプレートとペンを渡され、二人仲良く寄り添って名前を記入した。大抵の女子はこういうことは好きだろう。

 ところで、

 ハートはともかく、

 何故キイとチェーンなのだろう?

 どうやら、

「 二人の今の心にカギを掛け、聖地に鎖で結びつけて、永遠に心変わりしないように 」

 という意味らしい。考えようによっては一種の脅迫であり、呪いだが、まあ白魔術と思えばいいか。

 チェーンは二〇センチほど。一本のひも状で、輪にはなっていない。これを手すりの鎖に掛けて、南京錠でカギをするのだ。所詮おもちゃみたいなものだろうと思ったら、案外しっかりして、自転車の防犯チェーンくらいには利用できそうだ。

「はい、いいですね?」

 紅倉が二人が名前を書き込んだハートを受け取り、「ちょっと済みません」と母親を追いやり、芙蓉を呼ぶと、

「これをお父さんの心臓の上に」

 と言うのでハートのプレートを受け取り、薄い掛け布団をめくり、病院の甚平の上から大柄な喜久蔵氏の丸々山になった胸に載せた。

「お二人はそこに手を置いて、そうね、わたしたちの結婚を認めてください!って心の中で一生懸命お願いして」

 沙希と周平はハートの上に手を重ねて置き、二人くっつけるように顔を見合わせ、真剣な顔で一生懸命お願いを始めた。

「美貴ちゃん、チェーンをお父さんの手に巻いて、ロックして」

 芙蓉は自分たちのいる側、喜久蔵氏の左手を取り出し、チェーンを巻き、南京錠を掛け、カチッとロックした。

「鍵はどうします?」

 ひとまとめにカギと呼んでしまうが、錠前=ロックに対する鍵=キイだ。恋人岬の南京錠は一度掛けてしまえば解除するための鍵は必要ないが、二人の誓いの証明書みたいなもので、大抵女性の方が大事に持っているのではないだろうか?

「美貴ちゃんが持っていて」

 と、紅倉は母親の座っていた丸椅子に座り、右手で喜久蔵氏の手首の南京錠を掴み、左手を芙蓉に差し出してしっかり握らせた。

「ちょっと行って来るから、よろしく。」

 紅倉はニッと芙蓉に笑いかけ、真剣な顔になると目を閉じ、ふっと魂が、抜けて、体がぐらりと揺れた。芙蓉はさっと背中を支え、「あっ」「わっ」と沙希と周平が驚いた声を上げた。

「い、今、なんだか自分の体が外に広がったような気がして……」

「先生の意識がみんなの霊体を通じて悪霊の本体に侵入したんです。その瞬間に無意識の感覚が体を飛び越えて拡大したんです。何も害はありませんから安心してください」

 おそらく二人の思念を餌に喜久蔵氏の意識を引き寄せ、自分はその隙に取り憑く悪霊にアクセスしているのだろう。

「さ、お父さんを取り返すためにも、先生を守るためにも、一生懸命お願いを続けてください?」

「はい。」

 ちょっとした神秘体験をして興奮した様子の周平と沙希は、本気で真剣になって結婚のお願いを続けた。

 芙蓉も紅倉の背を支え、強く手を握り、無事の帰還を願った。万が一、この鍵を使わなければならない事態……リンクの強制解除など起きないように思いながら。

 眠る喜久蔵氏の大きな顔は、相変わらず意識は感じられず、肌と肉が弛緩したまま血色悪くゴムのように凝り固まっている。病気というのは嫌だなと正直芙蓉は思った。

 握る紅倉の手が熱くなってきた。大きなエネルギーの動きが感じられる。せわしなく、紅倉の真剣な戦いが感じられて、芙蓉は不安に思った。紅倉に直接自殺岬の神=魔界の本体と戦う気はないらしいが、その中にいる者を追跡すれば、やはり異物の侵入を快く思わない神の攻撃を受けるだろう。芙蓉はその奥へ意識を侵入させていく紅倉が帰り道を見失わないように、ここですよ、と光を放つイメージで強く呼びかけ続けた。わたしはここにいますよ。わたしは絶対に、灯りを消しませんからね。

 スウッと芙蓉もエネルギーを吸い取られるような感覚がして、ドクン!、と、逆に大きな揺り返しを受けた。

「先生」

 スー………、っと、慣れ親しんだオーラが力強く溢れ返ってきて、芙蓉は安心した。

 紅倉が目を開き、芙蓉に寄りかかっていた頭を起こした。

「お帰りなさい」

 芙蓉はニッコリ笑った。

 喜久蔵氏もまぶたの下で眼球を忙しく動かし、ギュッ、ギュッ、と目を中心に顔をしかめ、パチパチと、眩しそうに目を瞬かせた。

「あなた!」

「お父さん!」

「お義父さん!」

 喜久蔵氏は、

「君にお父さん呼ばわりされるいわれはない」

 と、満面の笑みを浮かべる周平を仏頂面で睨み、

「もうっ!、お父さん!」

 娘に叱られて蝦蟇みたいな顔をした。

「あなた、大丈夫? ちゃんと見える? 言葉、分かる?」

 心配で堪らず詰問する奥さんに、

「ああ、大丈夫。頭はしっかりしているよ」

 と、多少うるさそうに、安心させるように言った。

「ああ、悪かったな、心配させて。俺は…、事故を起こしたんだよなあ? いや、びっくりした」

「びっくりしたのはこっちですよお、もう!」

 奥さんは呆れたように睨んで、笑って、目に涙をにじませた。

「先生呼んできますね」

 守口が気を利かせてさっきマジックを借りたナースセンターに知らせに行った。

 奥さんにすまなそうに苦笑した喜久蔵氏は、ばつの悪さを引っ込めて、真剣な顔で娘と婚約者を見て、言った。

「ばちが当たったんだなあ。おまえたちの結婚を邪魔するようなことばかりして。なんだか夢の中で女神様に叱られた気がする」

 その女神様はきっと銀色の髪をした妖精のような美女に違いないとみんな思った。喜久蔵氏も不思議そうに紅倉と芙蓉を見て、なんとなく分かるようで、神妙な面持ちをしてうなずいた。再び娘と婚約者と奥さんを見て。

「結婚をお祝いするよ。まあ、多少、いろいろ、不満もあるが……、まあ、それは後々、可愛い孫の顔を拝ませてもらって挽回してもらおうかなあ?」

「ありがとうお父さん!」

「ありがとうございます」

 感極まったように泣き笑いする沙希と周平と、それを眺めて笑みをこぼす奥さん。いやあ、めでたしめでたし、といういい場面に医者と看護士が慌てて駆けつけた。


 しばらく面倒な検査になりそうなので紅倉たちはいったん退室した。

「先生。ご苦労様でした」

 芙蓉が笑顔でねぎらったが、紅倉はずうっと浮かない顔をしている。

「どうしました? 敵に逃げられちゃったんですか?」

「まさか」

 紅倉はつんと威張って肩をすくめた。

「見つけたわよ、首謀者を。・・・・・」

 いつもならえっへんと大威張りの紅倉が、どうも、暗い。

「何者だったんですか?」

 紅倉の元気のなさは……、その正体が関係者にとって嫌な、…………知っている相手ではないだろうか?

 果たして紅倉は、暗いため息混じりに、言った。

「この事件、二人にとっては重い、嫌な終わり方しか出来ないかも知れないわ」

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