第16話 恋人たちの岬
柏崎は魚市場などあって賑やかな港の観光街だったが、目的の清浦崎は、いかにも道の途中のちょっとした集落で、道なりに古ぼけたドライブインがあるきりで、わざわざここを目的に来る客もいないように思われるが、磯釣りの釣り客には隠れた穴場として密かな人気スポットらしい。
ここも海までゴツゴツした岩が張り出し、辿り着く手前でいくつもこうした岩をくり抜いたトンネルをくぐってきた。島田喜久蔵氏が自損事故を起こしたのもこの少し先のそうしたトンネルを抜けた先のカーブらしい。
車が十台置ける駐車場に止め、素通りも悪いので軽食喫茶に入ってアイスティーを注文した。注文品が運ばれてきて、気のよさそうなパートらしき婦人に「恋人たちの岬」について訊いた。
「ええ。なんだか若い人たちの間で、インターネットで?、恋の成就するラブ・パワースポットって言うの?、噂になってね、訪れる若い人たちが増えてね、これはチャンスだ!と言って町の若い人たちが中心になって整備してね、もう十年経ったかしらねえ?今はすごくきれいになっているわよ? おかげでここも、釣り客のおじさんたちばかりじゃなくね、お若い綺麗なお嬢さんたちにも来てもらえるようになって、ありがたいわあ」
と、ニコニコと、嬉しそうにおしゃべりしてくれた。芙蓉が質問した。
「恋が成就するって、何かいわれがあるんですか? インターネットで調べたら神話の女神様とか平安時代のお姫様とかの伝説があるって載っていましたけど?」
芙蓉が気にしているのはこれが「神がらみ」の事件ではないか?ということだ。紅倉は神様を相手にするのは嫌う。ところが今回は成りゆきでムキになってしまっている。特に水が大の苦手のくせに。
銀のお盆を抱えたパート婦人は「ええとねえ?」と考え、
「あるみたいねえ。あちこちにある古い伝説だから、あんまりはっきりしないけれど。丘の上にね、古い神社があるのよ。そこに奉られているのがその女神様かしらねえ? 静御前のお墓が栃尾にあるけれど……ちょっと離れているわね?」
誤魔化すように笑った。ちなみに栃尾はもっと内陸、山の中で、ちなみに静御前終焉の地と伝えられるのは北は北海道姫川から、岩手県鈴ヶ神社、福島県美女池、長野県大塩、新潟県栃尾、と、まあ、あちこちにある。夫源義経と共に源平合戦における全国区の人気ヒロインということだろう。
芙蓉は結局、あやふやだなあ、と思った。気になるのはその古い神社だが。肝心の紅倉は熱い中のドライブに疲れたように冷たいアイスティーをストローですすっている。芙蓉がこれから岬に行って来ると言うと、パート婦人は、
「すぐそこに見えるから。道もきれいになってるけど、前の国道を渡るのだけ気を付けてね?」
と注意し、笑顔で挨拶してカウンターに戻っていった。岬の方をガラス窓から見ると、国道から少し掘り下げた形で駐車場とお店があるので、残念ながら岬と海を眺めることは出来なかった。せっかくのロケーションなのに設計ミスだなあと芙蓉は思ったが、古い建物なので昔はそれこそ釣り客か運送の長距離ドライバーくらいしかお客はいなかったのだろう。
紅倉と綿引がアイスティーを飲み終わるのを待って「恋人たちの岬」に向かって出発することにした。出入り口付近にある売店ではこちらもしっかりハートのプレートとチェーンとキイが売られていた。
平日昼間で交通量は少ないものの、代わりにみんなスピードを出しているので、のんびり渡っていてうっかり轢かれたりしないように芙蓉と守口がそれぞれ紅倉と綿引をエスコートして国道を横断した。
「恋人たちの岬」は、陸から渡り廊下を渡るような細いくびれの先に、大中小、岩島が連なる、なかなか怖い所だった。
銀色のポールが立てられ、鎖でつながれ、パート婦人は安全なような口振りだったが、道は細く斜めで、すぐ外に深い海面があるので身がすくんでしまう。冬期間や風の強い日は間違いなく閉鎖だろう。冬の荒波に浸食されたのか屋根付きの回廊のように外側がえぐれ、先の中島へ進む道になっている。ここももちろん内側は壁にリングが打ち込まれ鎖が渡され、外はポールが立てられて鎖の柵があるが、その向こうには遠くの海しか見えず、やはり怖い。中島は真ん中がくり抜かれてトンネルになり、先の小島は上部がすっかり削られ、波が白く弾けている。小島へは渡れず、中島のトンネルを抜けたところが「恋人たちの岬」の先端だ。ここは広く、扇状に開いて、大きなイカリが突き刺さり、周りのポールと三段の鎖でつながれている。マンガでイカリといえばこれ、というお馴染みの古い形の錨だ。ここも喫茶店の売店で売られていたハートのプレートやキイ付きチェーンが鈴なりにぶら下げられている。
海に突き出して、思わずセリーヌ・ディオンの歌声に乗ってデカプリオとケイト・ウィンスレットを演じたくなってしまうが、かなり迫力満点のロケーションだ。小島の右手に佐渡島も長々と見え、沖に沈む夕日はさぞや美しいだろうと思われたが、芙蓉はふと疑問を感じた。
振り返ってみる。中島のトンネルの向こうに、大島の回廊は半分しか見えない。首をかしげる。国道に高い道路灯が並んでいるが、岩場自体に照明の類は見当たらない。確か史哉の話だと恋人たちは二人で沈む夕日を見ながら愛を誓い合うとその愛は成就するのだとか。夕日が沈んでも空は赤が残り、いきなり真っ暗になることもないだろうが……、それでもこんな岩場、真っ黒な影になって、危なくて仕方ない。そのスリルがお熱い恋人たちには刺激になってまた格別なのかも知れないが……、観光スポットとして安全面はどうなのだろう? 大いに問題があるように思われるが……
芙蓉の疑問を察して紅倉が言った。安全のため芙蓉がしっかり腕を掴んでいる。
「規制したって、どうせ愛にのぼせ上がっている恋人たちなんて聞きやしないわよ」
「はあ。そうかもしれませんけれどねえ」
「ここから」
紅倉が前に出たがって、芙蓉はグッと腕を握り締めた。
「夕日を見たら、そりゃあもう、ものすごく、美しいんでしょうねえ」
残念ながら紅倉はそれを見ることは出来ないが、紅倉の横顔はそれを悲しんでいる風ではなく、緊張に引き締まり、瞳を夕日のように赤く燃え上がらせていた。日本海の荒波を浴びせられた岩肌に潮の臭いがむせ返るように濃くなった。
「人は、あまりに美しい物を見ると、悲しくなるものよね?」
「ええ。そうですね」
芙蓉は紅倉の横顔を見つめて、その通りだと思った。
「では、最初からそれを望んでここに来る人は沈む夕日を眺めて、どう思うかしら? あまりの美しさに心の悲しみが晴れるかしら? それとも、沈んでしまった夕日があまりに悲しく、もはやこの世への思いも消えて、海に沈んでしまおうと思うかしら?」
芙蓉は胸が痛くなるほど緊張する。紅倉の視線が芙蓉に帰ってきて、紅倉は言う。
「ここは元々自殺の名所だったのよ。恋人たちの思いが成就するなんてとんでもない。きっと、たまたま休憩に立ち寄ったなんにも知らない若い観光客が、美しい夕日を褒めそやしてロマンチックな気分に浸っているのを見た地元の人が、そうだ、柏崎の鴎ヶ鼻みたいにここも『恋人たちの岬』にして観光地にしてしまえば自殺者が寄って来られなくなるんじゃないか?、と思いついたんでしょうね。そういう風に考えるほど、実はここは、自殺者が多かったということよ。しかもそれだけ夕日の美しいロケーションだから、自殺者の中には心中者が多かったのでしょうね。
『恋人たちの岬』、その実体は、
『心中者たちの岬』だったわけよ」
守口が思わず、
「なんてこった……」
とうめくように言った。綿引が守口の肩に隠れるようにし、守口は後ろに手を伸ばし、綿引の手とぎゅっと握り合わせた。紅倉が、
「美貴ちゃん、下の海を見させて」
と頼み、芙蓉は気が進まないながらもしっかり手を握り、安全バーとして紅倉の前に腕を出し、錨の隣の手すりへ近づいた。紅倉はポールに掴まり、芙蓉の腕に寄りかかって、断崖の下を覗いた。岩肌が丸く膨らんで、底で白い波がグルグル空気を巻き込む音をさせながら弾けている。
「ここ」
と紅倉は言った。紅倉とシンクロした芙蓉の目にも見える。底どころか、先の小島を中心に真っ黒なブラックホールが大口を開け、辺りの海を冷やしながら、シュルシュルと、娑婆(しゃば)の空気を吸い込んでいる。芙蓉はヒクリと眉を動かし、紅倉を下がらせた。紅倉も大人しく従い、肩をすくめた。
「ここはパス。残念だけど、どうにか出来るレベルの物じゃないわね」
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