第9話 複雑な家庭環境
階段から、薔薇と噴水の庭と、お向かいの樹木と芝生の公園と、その向こうに鳥里乃湖が広がっているのが望めるが、紅倉の赤い目にはこの景色は見えない。
「あの『魔界』は穂乃実さんが呼び寄せた物なんですか? 元からこの教会に巣くっていたのではなく?」
「残念ながら、穂乃実さんが呼び寄せちゃったのね。ま、本人とは限らないけれど、穂乃実さん絡みであるのは間違いないわね」
「ここで、何か視えますか?」
「うーーん……」
紅倉は開いた左手で宙を探るようにしたが、
「駄目」
諦めて腕を下ろした。
「もうみんな後ろに行っちゃってる」
紅倉の目でも見通せない『魔界』の中に秘密は隠されてしまったようだ。
「そうですか。では庭に下りてみましょう?」
いつまでも階段の途中に立っているのも危ないと思い、芙蓉は紅倉の腕を取って階段を下りていった。
噴水は経費削減のためか残念ながら水は出ていなかったが、赤白黄色の薔薇がいっぱい咲いたアーチのトンネルは見事だった。ベタだがやっぱりブライダルにはゴージャスな薔薇の花が欠かせない。
芙蓉はあまり縁のない華やかさを楽しみつつ、真面目な質問をした。
「さっきの魔界の中に穂乃実さんはいましたか?」
紅倉は屈辱を感じるように顔をしかめて答えた。
「居た、はずなんだけど、どの影が穂乃実さんか分からなかったわ。と言うより、あの人影もあくまで全体のイメージであって、どの影が誰、とはっきり決まったものでもないのね。みんな好き勝手に『あたし』と思っているだけで、穂乃実さんの意識も、全体の中ではっきりした輪郭を持っていないわ」
「思念のネットワークの中に取り込まれて、一体化している、ということですか?」
「そうなりつつあるわね。微妙なところだけれど」
どうやら穂乃実は自分から現実世界から逃げ出したらしい。一方で愛する花婿への思いもあるから、愛と逃避の間をさまよっている、という不安定な状態なのだろう。穂乃実にどういう事情があるのか、まだ明かされていない謎があるように思えるが、穂乃実自身が現実世界での幸せを諦めてしまったら、完全に形を無くしてあの黒くて暗い『魔界』の一部になってしまうのだろう。
芙蓉は、フウッとため息をつき、気持ちを切り替えて明るい声で訊いた。
「ところで先生。なんだか俄然やる気が出てきたみたいですね? どうしました?」
「んー?」
そう?とお茶目に目を動かしながら、なんだか調子が良くて楽しそうだ。
「そうですよお、先生、ちゃっかり商売にしちゃって」
綿引と守口もやってきて、綿引は笑い混じりに非難するように言った。
「事件解決を引き受けたのはわたしへの借りを返すためでしょう?」
「いいじゃない、こんな田舎まで出張してきてやってるんだから」
憎まれ口を言いながら紅倉はう〜〜〜ん…、と気持ちよさそうに伸びをした。よほどここの空気が肌に合ったようだ。芙蓉はべたべたして苦手だ。
「えーと、ここですよ、僕がビデオを撮っていたのは」
守口が正面から階段全体を見渡せる、少し後ろの方に立って教えた。守口は先ほど綿引から改めて自分の撮影したビデオに『呪いだ』と気味の悪い声が入っていたと脅されていた。
紅倉は守口が避けた所に立って、大階段を眺めた。
「あっ、なーるほど」
今度は何かキャッチしたようで、芙蓉たちを避けて反対側を向いて、
「やっぱりババアね」
と口悪く言った。
「視えましたか?」
「うん。嫌な意地悪婆あ。このクソババアがそもそもの元凶なんじゃないかしら?」
と、よほどお気に召さないのか、どんどん口が悪くなっていく。
「お婆さんって、やっぱり穂乃実の?」
綿引は大事な友人の身内なのであまり悪く思いたくはないのだが、やっぱり自分もいい印象を持っていない。
「お化けの声じゃなかったの?」
綿引に脅された守口は綿引を睨んだが綿引は知らんぷりして紅倉の答えを待った。紅倉はムッとした顔で腕を組み。
「そう。花嫁さんのお祖母さん。呆けが回っちゃってなんかめちゃくちゃだけど、相当偏屈で、自分の孫に対してろくでもない気持ちを抱いているわね…………、うん?」
紅倉は何かを、視て、顔をしかめた。そしてそのまま首をかしげる。何か釈然としないように
「いやあーーーーー……。ねえ、」
綿引に問う。
「花嫁さん、妹がいる?」
綿引はうなずく。
「ええ。います。昨日車の中で家族構成は説明しましたよ?」
「あっそ。忘れた」
聞いてなかった、でしょうが。と綿引は呆れた。
「
綿引は困ったものだと眉を寄せながら説明した。
「結婚して、子供を産んで、すぐに離婚しちゃったんですよね。男の子で、確か三歳になったはずですね。昨日の式には連れてきてなかったですけれど」
守口も印象深かったようで言った。
「あの金髪パーマの派手な子? 子どもがいたんだ?」
へえー、と驚いた顔をして、綿引は自分が恥ずかしそうに苦笑いした。芙蓉が口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。その子が三歳ってことは、結婚はいつ?」
「それが……」
綿引は今度は苦笑いもなく気まずく沈んだ調子で言った。
「光太郎さんが事故で亡くなって、三ヶ月後に。実はその、いわゆる出来ちゃった婚だったらしくて………」
「そうなの?」
守口が綿引に同調して苦々しい顔で言った。
「そりゃあ……、お姉さんの穂乃実さんが可哀相すぎないかい?」
綿引は不満たっぷりの顔で答えなかった。答えたくもないようだ。芙蓉が確認する。
「それで、子供が生まれてすぐ離婚?」
「ええ。旦那さんが会社をリストラされたそうで、ケンカして、あっさり離婚しちゃったらしいです。こう言ってはなんですけど、結婚自体どこまで本気だったのやら……」
「今何歳?」
守口が訊き。
「わたしたちより三つ下だから、二十六歳ですね」
「あれで…」
守口が呆れたように言ったのは年齢のわりに、幼い、ということだろうか? いわゆる「ギャルママ」を芙蓉は想像した。ため息混じりに、
「なんだかそっちの方も怪しいですね?」
紅倉に訊くと、紅倉はまだ、う〜〜〜〜ん………、と首をかしげていた。
「どうしました?」
「う〜〜〜〜〜ん…………。……うん。そう。困った妹さんね」
紅倉はうなずきながら、なんだかまだ釈然としない顔つきだった。芙蓉は怪しみながら、まあその内とっちめてやろうと思って今は深く追求するのはやめておいた。代わりに綿引に尋ねた。
「妹さんと穂乃実さんの仲は?」
「えーーと……、姉妹っていうのは、どういうものなんでしょう?」
綿引はよく分からないように苦笑しながら考えた。
「わたしの場合、兄が二人おりまして、おかげですっかり甘えん坊の妹でしたけれど」
甘苦く恥ずかしそうに笑い、
「美也子ちゃんの場合は…………、甘えん坊というより、ひどく我が儘な子だったですねえー…」
と言うのは高校時代の印象だろう。また気まずい顔になっている。三歳違いなら中高の在学時期は重ならないだろうが。
「高校は同じだったんですか?」
「いえ。別です。あの、穂乃実の家がわたしたちの高校の近所だったんです。それで、学校帰り、よく中学生の美也子ちゃんが友だちといっしょに待ち伏せしていて、穂乃実にお小遣いをねだっていたんです」
「なにそれ? 姉をカツアゲ?」
「カツアゲって、まあ、なんというか……。穂乃実が今月はもうお金がないって言うと、美也子ちゃん、ひどく怒って、役立たずとか馬鹿とか邪魔者とかってヒステリー起こしたみたいにわめいちゃって、穂乃実はずいぶん困っていました」
綿引は思いだして切ないため息をつき、芙蓉は、
「我が儘で、思い通りにならないとすぐに切れるって、困った現代っ子の典型ね」
と、自分より年上の子連れ女性を評した。守口は、
「そうかあ、穂乃実さんって、思っていた以上に複雑な環境にあったんだなあ」
と同情した。
「紅倉先生。どうか穂乃実さんの魂を救い出して、金森と穂乃実さんを幸せにしてあげてください!」
感極まったように力強くお願いし、紅倉は多少迷惑そうに視線を泳がせ、
「う〜〜〜〜ん、めんどくさ」
と、聞こえる声でこっそり言った。困った先生だが、芙蓉も、なるほど、予想外に面倒な事件みたいね、と思った。紅倉は「無駄に複雑」と事態を評していたが、では、何が本当に大切なことなのか?
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