第8話 聖域の魔界
下澤は程なく戻ってきた。
「島田様は今お車の運転中らしく電話にお出になられません。こちらにご連絡くださいますようメッセージを入れさせていただきました」
ちょうどお茶を飲み終わった紅倉は、
「じゃあ、魔界、見たいでしょ?」
と、下澤と、他の者たちを見回した。
「わたしたちにも見えるんですか?」
芙蓉が代表して訊くと、
「さあ? でもまあ、きっと、イエス様のお力で見えるでしょう」
と、神に仇する黒魔女のくせに白々しくもっともらしい顔で言った。
「さ、行きましょう」
紅倉が立ち上がり、
「それではこちらへ」
下澤が奥の廊下へ案内しようとすると、
「あの…」
と、池嶋が怖じ気づいたか細い声で尋ねた。
「魔界、って、危険じゃないんですか?……」
フム、と紅倉は考え、池嶋を見て訊いた。
「あなた、今おつき合いしている彼氏は?」
「え、あの……」
池嶋は同僚の手前躊躇したが、ここは恥ずかしがって誤魔化したら大変なことになりそうだなと思い切って、
「います!」
と宣言した。守口には残念でした、だ。
「じゃ、あなたは来ない方が身のためね。別に一般人に危害は加えないでしょうけれど、幸せな恋人たちにはねえー、なにしろ醜い嫉妬の固まりだから」
紅倉はアハハと笑い、「では池嶋君はここで」と下澤が案内しようとした。
「下澤さんと寺沢さんはいいんですか?」
芙蓉が一応訊いてやると、
「わたしは結婚してますから…。寺沢さんは、いいんですか?」
下澤が訊いた。すると寺沢は独身のようだ。寺沢は、
「わたしは見ます」
ときっぱり言い切った。さすがチーフプランナー、仕事に対する責任感が違う。すると今度は、
「あの〜…、わたしたちは?……」
綿引が守口とペアで心細い顔で尋ねた。紅倉は呆れた顔で、
「いいでしょ?あなたたちなんか?」
とにべもなく言い放ち、綿引は
「えーえー、どうせわたしなんか」
といじけ、守口も
「僕もまあ言われても仕方ありませんが」
と苦笑いした。
喫茶店=ティーサロンから渡り廊下でチャーチの一階へ向かう。
「チャーチの一階は準備室になっておりまして、中央に待合室、前後に花嫁花婿のお支度室、式を行っていただきます神父様の控え室がございます。参列のお客様方はこちらはご遠慮いただきまして、特にひどい雨の場合などを除いては表の大階段で二階の聖堂へお上がりいただきます。こちらにも階段がございますが、どちらから参りましょう?」
短い渡り廊下の中央で、庭側に外の赤煉瓦の道に出るドアが開き、反対奥側に二つのゲストハウスとスタッフハウスへ向かう廊下が続いている。
「花嫁さんの順路を行きましょう」
「ではこちらへ」
今度はチーフプランナーの寺沢が先に立って案内した。
中央の待合室が建物の前後を仕切って広い廊下のようにあり、椅子が壁際に並べられていた。奥側、礼拝堂の祭壇側が花婿の支度室、神父の控え室になっていて、大階段側、礼拝堂の参列席側が花嫁の準備室になっている。当然花嫁側がたっぷり大きく取ってある。それぞれに礼拝堂の前後から登場する階段室があるが、ドアが閉められ、神の御前で会うまで花嫁花婿がお互い姿を見ないようになっている。
「お二人様のご希望によっては二人揃って大階段側のドアから入場する演出もございます。最近はお生まれになった赤ちゃんとご一緒に式をお挙げになるカップルの方もいらっしゃいますので」
寺沢の説明に紅倉は
「出来ちゃった婚ね」
と身も蓋もない言い方をして苦笑させた。
花嫁の支度室に入ると、ついたてがあってダイレクトには中が見えないようになっていた。横へ回って進むと、ゴージャスな段々の付いたレースのカーテンが垂れる大窓に柔らかく全体が照らされ、白壁赤絨毯の部屋が現れた。背丈の一.五倍ある大鏡があり、花嫁がくるくる回って自分の一生一度?の晴れ姿を入念にチェックしている姿が目に見えるようだ。ここはこうして完成した姿をチェックし、身内の招待客と会う場所で、隣に本当のお支度部屋がある。芙蓉はテーブルや椅子があるので紅倉の手を取ってそちらへ案内し、こちらも豪華な鏡台のある、ドレスを準備しておく広い衣装室の様子を眺めた。
「異常なし」
紅倉のお墨付きで、では二階へ上がる階段室へ向かおうとしたが、芙蓉は「ちょっと」と紅倉を連れて大鏡の前へ行き、隣に並んで立った。
「ねえ先生。先生も綺麗なウエディングドレス着てみたくありませんか?」
芙蓉は浮き浮きして言ったが、紅倉は、ん〜〜、と鏡にしかめっ面し、
「どうせ見えないからつまんない」
と相手にしないで寺沢の待っているドアに向かった。
「残念。ふられちゃった」
芙蓉は鏡の中の自分に『残念でした』と眉を動かして見せ、紅倉の後を追った。
建物のスペースが限られているので階段は狭めだった。花嫁側の階段を上がると、礼拝堂の後ろの、大扉の横の箱部屋に出た。柱に壁は下半分だけで、振り返った花婿と列席者たちがエスコートに手を取られて花嫁が登場するのを見られるようになっている。
「まあ」
と、紅倉をエスコートして礼拝堂に出た芙蓉は思わず感嘆の声を上げた。高い山型の天井にアーチの浮き出た真っ白な壁、ヨーロピアンな天使と女神の彫刻。
「まるでケーキみたいに美味しそうですよ?」
祭壇とそれに向かって並ぶ長椅子はチョコレートみたいだ。祭壇の上には大きな釣り鐘型の、マリア様に抱かれた幼いイエス様とひざまずく聖ヨハネだかパウロだかの聖人が描かれた華麗なステンドグラスの窓。振り返れば大扉の上にも丸い虹色のステンドグラスが空いている。
後続の一般人たちは「魔界」を恐れてこわごわ階段から天井を覗くようにしていたが、芙蓉の目にも美味しそうなケーキに見えるだけで、それらしい怪しい現象は見られない。おっかなびっくり出てきた下澤たちは、
「魔界……と言うのは……、どこら辺に?……」
と、今さらながら(本当にそんな物があるんだろうか?)と怪しんで紅倉に訊いた。
紅倉は慌てず騒がずいつもの人を食った調子で、パン、パンッ、と柏手を打ち、
「アーメン」
と言った。すると、
ざわっと、薄曇りの日が更に暗くなり、金の十字架の置かれた祭壇の背後がことさら影が濃くなり、もやもやと揺らめくように広がっていき、壁を伝い、天井まで広がり、空間にまで黒い霧のように立ちこめてきて、ビリッ、ビリッ、と、目の錯覚を疑うような赤い筋が見えるような気がし、すっかり全体の暗くなった礼拝堂の、長椅子に、いくつもの人の後ろ頭のような影が見えだした。腰かける黒い列席者たちの姿がはっきりしてきて、その、まるで喪中の未亡人のような影たちが、こちらを振り向くような仕草を見せ、下澤、寺沢、守口、綿引は(ヒイッ…)と戦慄した。黒い霧の中でステンドグラスは夕陽を受けたように真っ赤に光り、天井は、うねうねと、幾筋もの赤い線が網状に重なり合って波の反射のように揺らめいている。
「ひっ、ひっ、ひいい〜〜〜〜〜っ」
恐怖のリアクションはお手の物の綿引がとうとう悲鳴を上げてかがみ込もうとし、皆わっと階段へ逃げ込もうとした。
パンッ、パンッ。
紅倉が高らかに再び柏手を打つと、黒い未亡人たちも黒い陰も、昼の光の中に嘘のようにパッと消えた。
「はい。とまあ、こんな感じです」
綿引は恐る恐る覆った手の中から顔を上げ、他の三人は信じられないように青い顔できょろきょろしながら中央に出てきた。
「い、今のが『魔界』ですか? ど、どこかに引っ込んだんですか?」
下澤は壁や天井を恐ろしげに眺めて訊いた。紅倉が
「いいえ。皆さんには見えなくなっただけで、さっき見た場所に今もありますよ」
と言うと、下澤も寺沢もぎょっとして長椅子から離れた。
「彼らも目で現実の世界を見ているわけではありません。頭の中のイメージで、自分の見たい物だけを見ているんです。さっきはわたしがちょっとイタズラして彼らの注意をこちらに向けて、わたしたちの感覚とシンクロしたんです。今はもう自分たちの世界に浸って、こちらには興味を持っていませんから、皆さんには見えなくなったんです」
芙蓉はそれだけでなく、先生が自分たちの意識に侵入してきたのだろう、と思ったが、黙っていた。
「き、危険じゃないんですか?」
こちらもすっかりビビりながら守口が尋ねた。
「ま、特に悪さもしないでしょう。なんだかここが気に入って、居心地良さそうだし」
「じょ、冗談じゃない!」
下澤が悲鳴のように声を上げ、彼らの癇にさわったかと慌てて口をつぐみ、小声で紅倉に泣きついた。
「あんな連中がここに住み着いているだなんて、とても安心して結婚式なんて挙げられませんよ!?」
薄曇りながら昼の白い光に照らし出されて、しかし今はもう灰色の染みがそこかしこに染み込んでいるような、静かな不気味さを感じてしまう。ステンドグラスまでくすんで見える。紅倉もうなずいた。
「そうね。彼らは…、事情はそれぞれ別でしょうけれど、結婚に失敗したという共通の恨みでコミュニティーを築いているのね。だから、幸せな結婚式は………、」
紅倉は実に気の毒そうに言った。
「よってたかって、不幸にしてやろうとするでしょうねえー」
「冗談じゃないですよお〜〜」
下澤は口だけ大きく動かしてひそひそ声で悲鳴を上げた。
「また稲家さんみたいな事が起きたら、この式場は潰れてしまいますう〜〜!!!!」
紅倉はあごに指を当て、ん〜〜、と考え、
「じゃあもっと本式のエクソシストにお願いする?」
と不本意そうなポーズで訊いた。下澤はそれも困ると拙い表情をした。そんな噂が出回ったらそれで十分潰れる。
「木曜までになんとかしていただけるんですよねえ……?」
紅倉はニッと笑い、後ろを向くと、大扉へ歩いていき、左右に大きく開いた。新鮮な光と空気が流れ込んできて、チチチ、と雀のさえずりが聞こえた。振り返り。
「まっかせなさあーい。見事解決して仕事料ばっちりいただきますからね。慰謝料なんか払わされてなるもんですか」
下澤はさっきの『魔界』の強烈なビジュアルに不安が払拭できなかったが、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」が鳴り、携帯電話を取り出し、習慣的に皆に遠慮するかっこうで出た。
「お電話ありがとうございます。リガリエ・ウエディングマナーハウス、マネージャーの下澤でございます。これは島田様、お電話お掛けいただき申し訳ございません。実はご提案がございまして。はい、実はですね…」
留守電メッセージを受けた島田父上が電話してきたようで、紅倉は鬱陶しい話は任せて外の階段へ進んだ。芙蓉がすかさず隣に進んで腕を取り、
「新郎役です」
とすました。紅倉もすました顔で歩き、芙蓉の腕に頼りながら階段を下りだした。五段、六段進み、
「ここね」
立ち止まると、上空へ空いている左腕を、手のひらを広げて上げた。
「何が、ここへ『魔界』を連れてきた?」
紅倉の目は赤く濡れて、瞳は赤い光を放っていた。
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