第3話 眠る花嫁

 翌月曜日、病院の一般面会時間は十時からだったが特別に九時に花嫁、金森穂乃実……婚姻届は新婚旅行から帰国した後提出するとのことで正式にはまだ稲家穂乃実、に会った。紅倉たちは昨夜の内にこちらに到着していたが、花嫁の容態に変化はなく、今朝まで待った。紅倉芙蓉はホテルに泊まり、その前に綿引を実家に送った。綿引は披露宴の二次会で仲の良い女子同士で遅くまで飲むつもりでいたからむしろまだ早い帰宅だった。その女子会も一応集まったものの、早めのお開きになったようだ。

 案に相違して新潟には普通に五時間で着いた。乗り物に弱い紅倉も芙蓉の運転する車は平気で、一般道より停止や右折左折のない高速道路の方がかえって快適なのだった。

 倒れて以来花嫁は一度も目を覚まさない。

 救急車で運ばれてきて一通りの検査を受けたが、どこも異常はなく、意識の戻らない原因は不明だった。今日も脳のMRI検査を受けることになっている。

 昨日からずっと花婿が付いていて、さすがにいつまでも礼服でいるのは人目も引くので花嫁の両親と交代で式場に戻って普通のスーツに着替えてきた。幸い県立総合病院と式場は車で十分程度のところで、湖を挟んでちょうど反対に位置していた。病院は出来てまだ数年の、最新の医療器械の揃った大きな病院だった。

 紅倉たちが訪れたときも花婿と、花嫁の両親が病室にいた。「失礼します」と先頭で中に入った紅倉は、

「このたびはご結婚おめでとうございます」

 と、このタイミングでは結婚式で避けられる忌み言葉と同じような挨拶を丁寧にした。

「はあ…。これはどうもご丁寧に」

 と返す新郎の顔は昨日からの疲れも相まってヒクヒクと神経質に引きつった。あちゃー、と思う芙蓉を追い越して綿引が前に出て、

「史哉さん。おじさま、おばさま。こちらがお電話でお話ししました紅倉美姫先生と助手の芙蓉美貴さんです」

 と三人に紹介した。

「これはわざわざ娘のためにありがとうございます」

 と父親が母親と共に丁寧に頭を下げたのは、紅倉がテレビに出ている有名人というより娘の友人の熱心な紹介に依るところが大きい。それでも例え日ごろ迷信を受け付けない人でも、目の前であの怪異を見せられたら、そうしたものを考えざるを得ないだろう。

 母親は五十を少し越えたくらい、細面で、目が一重だが純和風のなかなかの美人だ。対して父親は母親より十ほども年上の感じで、背が低く手足が短く横が広く、あまりかっこいいとは言えない。まじめで誠実な感じで、人物的には好感が持てるが。

「ではさっそく」

 と紅倉はベッドに眠る花嫁に近づいて、ん〜〜〜、と目を細めて顔をくっつけるようにして見た。顔を上げ、

「ウエディングドレスは?」

 と訊いた。花婿が答えた。

「昨日検査の時に脱がせて、警察の方で調べてもらっています」

 花嫁は倒れる前に宙の何かに怯えるようにして、ドレスが赤く染まっていき、悲鳴を上げて倒れた。常識的に考えれば何かしら毒物が……吹きかけられたか、あらかじめドレスに仕掛けられていたのではないか……、と思われる。花嫁の検査で今のところ毒物中毒の症状や痕跡は見られないが、ウエディングドレスを染めた赤い物の正体はなんであったのか?

「なんなのかしらねえ?…」

 と紅倉も首をかしげたが、何とものんびりした様子で、あまり深刻に事を捉えている風ではない。彼女が嫌々連れてこられたのを知っている綿引はやきもきして訊いた。

「それで先生? 穂乃実の様子はどうなんですか? どうしていつまでも意識が戻らないんです?」

 布団を掛けられ眠る花嫁は、特に苦しがった様子もなく、静かに眠り続けているだけで、命に別状はなかろうと計器類をつながれることもなく経過観察のみという扱いになっている。フム、と紅倉は眉を寄せた。

「魂がない」

 一同ギョッとして紅倉を睨むようにした。

「魂がないって、穂乃実はし、し、・・」

 死んじゃった?とは言えずに綿引は、芙蓉に視線で助けを求めた。

「先生。どういうことです? 穂乃実さんは今どういう状態なんです?」

 皆に注目されて紅倉はう〜〜んと困ったように首をかしげた。

「だからあー、魂がないんだけどおー………。どこ行っちゃったのかしら?」

 誰にも答えられるわけなく、皆困ってしまった。芙蓉は身内の人間たちが怒り出す前に深刻な顔を作って深刻な声で紅倉に尋ねた。

「魂が肉体から抜け出てしまっているわけですね? それで穂乃実さんは意識が戻らないんですね?」

「そうなんだけど……」

 紅倉もはっきりしないようにグズグズ言った。

「ま、別に体にとっては魂なんてそんなに重要じゃないのよねえー。魂が抜けてたって普通に生活できるしい。

 魂が意識まで持って行っちゃってるっていうのはね、向こうの方に肉体に対する意識がしっかり残っているってことよ。夢の中で生き霊が抜け出て思い人のところに通っていく…っていうのとは違うわけよ。

 つまりい、

 魂の側に自分は肉体を離れて、肉体から心が離れてしまった、という自覚がしっかりあるってことね。

 夢の中で魂、つまり生き霊、が外にさまよい出ているときは、そりゃあ夢の中だから、自分が宙を飛んでいても不思議にも何とも思わないのね」

「でも…、体は眠ってますよ?」

「そりゃそうね。体もいっしょに外へさまよい出ちゃったらその方がずっと変でしょう?」

 紅倉は何か愉快な想像をして笑ったが、もちろん誰も笑わなかった。 

「例えば、そうねえ、

 昼間でもぼうっとして、まるで「魂が抜けたみたいな」顔をしている人っているでしょう? まあたいていはただぼうっとしているだけなんでしょうけれど、中には本当に魂が抜けちゃっている人もいるのよ。でもそういう人も普通の日常的な行動、人の話を聞きながら相づちを打ったり、手は動いていつも通りの仕事をしていたり、ってことをしているのね。魂が戻ってきて、目が覚めたみたいにハッとするんだけど、ぼうっとしていた間の肉体的な記憶、人の話に相づちを打ったり手を動かして仕事をしていたり、はぼうっとだけどちゃんと記憶はある。一方で、さまよい歩いていた魂の記憶が残っている人っていうのは、まあ、滅多にいないでしょうねえ。

 つまりねえ、

 肉体的な意識と魂は同じ物ではなくって、

 生きている人間にとって魂なんていうのはおまけみたいな物で、生きていく上で必ずしも必要な物ではない、

 肉体の意識の方がずっと支配的な物で、

 普通肉体がハッと目を覚ませば、うろうろお散歩していた魂も意識に引っ張られて瞬時に飛び帰ってくるものなのよ」

 話がややこしくて理解できないが、ともかく体が目を覚ませば自然と魂も戻ってくるようで、父親が「穂乃実」と肩に手を伸ばして揺すろうとした。

「あっあー。無理しちゃ駄目。魂がブチ切れちゃって大変なことになっちゃうわよー?」

 父親はギョッと手を引っ込め、

「しかし…、魂なんておまけみたいな物と……」

 と、いったいどっちなんだ?、と非難がましく紅倉を見た。

「魂なんて無くたって人間は生きていられるわよ。でも、魂が生きている人間に重要な役割を果たしているのは、気持ちの連続性なのよ。魂がないと、その人はその場その場の感情があるばかりで、躁鬱(そううつ)の激しい、おかしな人間になってしまうわ。感情ばかりで、気持ちがないのね。人を思いやる気持ちがないから、ひどいことも平気でやってしまう。現代人は、魂が薄くなっちゃってるのねえー……」

 紅倉はまた一人だけ納得してうんうんうなずき、おっといけない、と話を戻した。

「穂乃実さんの場合はちょっと事情が違うみたいねえ。どれどれ」

 紅倉は今度はまじめな顔でじっと眠る花嫁の顔を見た。目が充血し瞳が赤く光り、室内に生者とは相容れない「別の世界」の臭いが立ちこめ、芙蓉以外の一般人たちは思わずうっと顔をしかめた。

 紅倉が固い声で言った。

「穂乃実さんの魂は、この世に無い」

「それは……」

 悪い予感に綿引が恐る恐る訊く。

「……穂乃実の魂が、肉体を置いて、あの世に逝ってしまった……と、いうことなんでしょうか………?」

「いえ。それは違うわね。魂の尾は肉体につながってる。その伸びていった先で……ふっつり消えている。魂がこの世ではない別の世界に行ってしまっているのよ」

 助手の芙蓉がこれまで遭遇したことのないケースに難しく頭を働かせて訊く。

「それは、霊界ということでしょうか? それはあの世とは違うものなんですか?」

 紅倉は唇に当てていた指を額の脇に移動して、コツコツと叩いた。

「ふうーん……。まあ、仕組みはいっしょなんだけど……。ま、めんどくさいからお勉強はまた今度。

 悪霊団、のお勉強はしたわよね?」

「霊は単体では大きな力を発揮するのは難しい。いわゆる悪霊というのは、多くの霊が集まって、一つになって、一番強い悪い意志に統制された物である場合が多い」

「はい、よくできました。そういうことね。悪霊の場合、人様に悪さを仕掛けてくるから現世にその存在を察知されることになるんだけど、さまよう霊たちが寄り集まって自分たちの世界を作って、その段階で満足してしまっていたら、普通現世に暮らす人たちにその存在を知られることは滅多にないわ。実は霊たちのそうした「自分たちの世界」はたあーくさん、あるのよ。穂乃実さんの魂が居るのは、そうした霊たちのネットワーク世界の一つね」

 自分たちの日常とかけ離れた「別の世界」の話に芙蓉以外の者たちは考える手掛かりさえなく途方に暮れた顔をした。芙蓉も「魂が肉体から抜け出てしまった」というのがそんなにややこしい話になるのかと思いつつ、先生に訊いた。

「それは悪いものなんですか?」

「良くはない……んだけどお……」

 紅倉はまた歯切れ悪く首をかしげて眉を寄せた。

「なんかね、めんどうなのよ」

 何がどうなのか紅倉以外の人間にはさっぱり分からない。

「悪い感情が集まっているのは確か。でも、存在そのものが極悪ってものじゃあないのね。じゃあたいした力もないかっていうと…、これがけっこう侮れない、っていうか、わたしの目でも、見えない」

 紅倉が霊的なものを「見えない」というのは相当たちの悪い相手だと芙蓉には思えた。

「なんていうかなあ〜〜」

 紅倉自身ももどかしそうに言葉を捜した。

「無駄に複雑、って感じがするのよね? ああ〜〜、もうっ、めんどくさいっ!! どうして結婚なんていう面倒なことをしなくちゃならないのよ、ふんっ!」

 結婚にまでけちを付けて、一人で勝手にプンプン怒ってしまって、芙蓉も(めんどくさいなあ)と内心呆れた。

「でしたら早急に穂乃実さんの魂を連れ戻して、事件を解決してしまいましょう?

 そのよく分からない「悪霊団未満」がやっかいなんですか?」

 うーん…とまたしても紅倉は首をかしげた。いい加減しつこいなあと芙蓉もちょっと(イラッ)ときた。

「だってえ〜〜…」

 と紅倉は恨めしそうな目で芙蓉に言い訳した。

「言ったでしょう? 花嫁さんの魂には「自分」という自覚があるって。つまり、」

 紅倉は冷たく薄情な顔つきで関係者たちを見渡して言った。

「お嬢さんは自分で、目覚めたくない、って思っているってことよ」

「そんな、何故?」

 父親は声を出し、母親も表情を強張らせ、綿引は何故?と困惑して眠る友人を見た。

「僕の………せいだ…………」

 花婿は、そう絞り出すように言い、絶望的に顔を歪めた。

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