第20話 瞳の奥に宿るモノ

「ハァッ、ハァッ、ハァッ!」


 濡れたハンカチを口に当てて、マリンは白い煙が充満する廊下を走っていた。進めば進むほど煙の色は暗いものに変わっていき視界は悪くなっていく。さっきから本能が『逃げろ』と警報を鳴らしているが、構わずマリンは足を動かし続けた。


「あっ! デューイくん!! フウランちゃん!!」


 天井を這う黒い煙とその元となってる火の明かりが見えてきたところでマリンは二人を見つける。


「マリンお姉ちゃん!! ユイお姉ちゃんを助けて!!」


 マリンに気づいたデューイが泣きべそをかきながらマリンのスカートにしがみ付いた。


「えっ……!!」


 どういうことなのかと奥に目を向けて見れば、うつ伏せの状態で瓦礫の下敷きになっている市川が目に止まった。


「天井が落ちてきて、それから僕を庇ってお姉ちゃんが!!」

「そんなっ、市川ちゃん!!」


 マリンは弾かれるように市川のそばへ駆け寄ると、両手で瓦礫を退かそうとした。


「う……くぅ!!」


 だが瓦礫は想像以上に重く、ピクリとも動かない。

 フウランとデューイも協力して持ち上げようとしてくれるが、子供二人分の力が加わったところで動くような重量ではなかった。


「っ……マリ……さん、二人を連れ……逃げてください」

「――!!」


 “……マリン、ごめんね……”


 市川の自己犠牲の精神が、マリンの心の奥底を波立たせた。心臓の鼓動が早まる。


「ダメ! 生き残らなきゃ!!」


 胸の奥で響いてきた声は何だろうかと疑問に思いかけるマリンだったが、今はそれどころではないと頭を振ってもう一度両手に力を込めた。だが瓦礫は容赦なく現実を突きつけてくる。


「お姉ちゃん!……ッ! 市川さん!!」


 そこへミカが駆けつけてきた。


「ミカちゃん! 瓦礫を!!」


 マリンに言われるよりも早く、ミカは瓦礫に指をかけて市川を助け出そうとする。しかし、4人がかりでも瓦礫は微動だにしなかった。


「……ミカちゃん! デューイくんとフウランちゃんを外に連れて行って!」

「えっ」

「二人だけでも安全なところへ! お願い!」

「……わかった!」


 後ろ髪を引かれる思いだったがすぐに戻ると自分に言い聞かせる。


「デューイくん! 私におぶさって!」


 デューイも同じ気持ちなのだろう。戸惑いが見て取れたが、ミカの言葉に従った。デューイをおんぶした後、ミカはフウランを抱きかかえて走り出した。


「……お姉ちゃんたちは?」


 フウランが不安そうに言った。


「……大丈夫! 二人も後で来るよ!!」


 ミカは震えそうになる声を懸命に抑えて、フウランを安心させようと努力しその場を走り去って行った。



 市川を救出するため残ったマリンは、周囲を見回した。棒状の様な物があればテコの原理で動かせるかもしれないと考えてたのだ。しかし辺りにそれらしき物は見当たらない。それよりも危険が迫っているのが目についた。


「ゴホゴホッ!!」


 煙が喉奥まで入ってくる。

 視界が灰色に覆われていく。

 炎もどんどん近づいてきてる。

 側の支柱からはメキメキという音が聞こえてくる。熱で柱の中の鉄骨が歪み始めているのかもしれない。このままでは天井がさらに崩落して自分も巻き込まれる。


「……助けなきゃ」


 マリンは、自身の死が間近に迫ろうとも市川を諦めようとしなかった。

 再び瓦礫を両手で掴んで持ち上げようとする。


「ぐうぅっ!」

「マリ……逃げて……」


 いつも以上に小さな声、本当に消えてしまいそうな声だった。


「逃げ、ない! 絶対に、助ける!」


 煙のせいか吐き気がする。

 頭も痛い。

 炎の熱が暑い。

 それでも見捨てて逃げようとは思わなかった。


「安心、して!! もう、少しでこれを退け、られるから!!」

「っ…………」

「市川ちゃん?」

「…………」


 市川から返事が無くなった。

 視線を落として見てみれば、市川は目を閉じて動かなくなっている。


「――!! あ、ああ……」


 また、大事なモノを失わなきゃいけないの?


 マリンが無意識にそう思った瞬間、頭の中でいくつもの写真が散らばった。

 死、死、死、死、死、眼前に広がる無数の死、ほとんどの写真に人の死体が濃く焼き付けられていた。

 身の毛がよだつ恐ろしい光景。


「……ヤ……イヤ」


 恐怖はより深みを増し、マリンは全身を震わせた。

 水平線の彼方で天に向かって伸びていく数多の黒い線。

 世界の根源を喰らう赤黒い魔法陣。


 そして。


 “こんな日がずっと続けばなって思うよ”


 誰かの笑顔。

 別れ際に見た、彼女の最後の笑顔。


「う……あ……」


 マリンは胸がグッと締め付けられるような痛みを感じ、瓦礫を掴んでいる手から力が抜けていく。


 どうしてなんだろう。

 全く知らないはずの景色なのに、見覚えの無いはずの人たちなのに。

 こんなにも胸の奥が熱くて苦しくるなるのは。


 ……誰か……助けて……。


 マリンは涙混じりの目を固く閉じた。

 瞼の裏で真っ先に浮かんだのは、渡辺の後ろ姿だった。

 自分が重い病気に罹った時、彼は命がけで薬草を取りに行ってくれた。アリーナに出た時、彼は自分のために傷つくことを恐れないで敵に立ち向かってくれた。初めてディックたちと会った時、彼は必死に自分たちを守ってくれた。


「……怖がったらダメ……怖がって動けなかったら何も変えられない……誰も助けられない」


 マリンの両手に再び力が入る。


「私も! ショウマ様みたいに!!!」


 マリンが両目を開いた。

 そこに青い瞳は無く、代わりに強い意志を感じさせる金色の瞳が厳かな輝きを放って存在していた。


「うわああ!!!」


 両腕へ一気に力を込めると、先ほどまでピクリとも動かなかった瓦礫が嘘のように軽く持ち上がり横に転がった。

 すると金色の瞳はまるで役目を果たしたかのように輝きをフェードアウトさせていき、元の青い瞳へと戻る。


「へ?!」


 いきなり軽くなった岩に驚くマリンだったが、今は一刻も早く脱出しなければならない。何が起きたか考えるより先に、倒れたままの市川を抱き起こそうとする。もしかしたら市川の体も軽く感じるかもしれないと期待したが、そうはなっていなかった。それどころか、意識の無い人の体は予想していたより遥かに重い。


「市川ちゃん! 起きて!」


 せめて目を覚ましてくれれば肩に担げる。そう考えて市川を揺さぶってみるが、やはり反応はない。


「どうしたら――ぅあ」


 視界全体がぐわんと歪んだ。両脚から力がフッと抜けるのを感じてマリンはその場に座り込んでしまう。


「そん……な……」


 辺りに充満する煙の中の一酸化炭素が、いよいよマリンを追い詰めていた。





 マリンが窮地に陥っている頃、ミカはデューイとフウランを無事安全な場所にまで連れてきていた。


「ここで待っててね! すぐに戻ってくるから!」

「待ちなさい!」


 ミカが踵を返して再び建物の中へ戻ろうとするが、騎士に腕を掴まれて止められてしまう。振り払おうとするも、町娘の力が現役の戦闘員の力に敵うわけもなかった。


「離して!!」

「ダメだ自殺行為だ! いつ建物が崩れてもおかしくない!」

「でもまだ二人が中にいるんだ! 助けに行かないと!!」


 ザッ。


 ミカの前に二人の女性が進み出てきた。

 見覚えのある後ろ姿に、ミカは誰だったかと思考を巡らせ目をぱちくりとさせた。


「ミカ、騎士の言う通りだよ。そこでジッとしてな」

「安心してくださいデース。二人は私たちが必ず助けるのデース」





 マリンはもう一歩も動けない状態で、床に倒れ伏していた。意識は朦朧とし、呼吸すらままならなかった。


 ガラッ。


 そんな彼女へ熱で脆くなった天井の一部が落ちてきた。直撃すれば間違いなく死に至る質量の瓦礫だ。


「させないデース!!」


 その瓦礫を、気合の入った声とともに現れた女性が盾で弾きマリンを救った。


「間一髪だったね」


(……助かったの? 一体誰が?)


 マリンが重くなった目を懸命に動かして見やれば、小学生ぐらいの背丈の緑のツインテール女性と、俗に言うビキニアーマーを装備した金髪ロングの女性が目に入った。

 マリンはその二人を知っていた。


「……エマさ……アイリス……さん……」


 エマとアイリスが放つ安心感から緊張の糸がプツリと切れ、マリンは意識を失うのだった。

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