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 最初に食べたのは、お母さんの死体だった。

 弱り果てて細くなって、でもお母さんが言った通りに食べなきゃと思ったら、不思議と美味しそうに見えた。

 お姉ちゃんがお母さんを食べることはなかった。双子で瓜二つだけど、お姉ちゃんは、私とは違うから。



「あなたたちは人じゃないの。だけど、人の中で生きられるようにしないとね」


 枝で切った傷が、瞬きをする間にふさがっているのを見た。お姉ちゃんはそういう化け物で、私はお姉ちゃんの流した血でお腹が空く化け物だった。お母さんが死んで廃墟の外に出た後、空腹のあまりお姉ちゃんを襲ったことがある。体格は同じでも私の方が力が強くて、驚いて抵抗したお姉ちゃんを組み敷くのは容易かった。

 お姉ちゃんはすぐに力を抜いて、諦観に満ちた瞳で私を見つめた。「いいよ、食べても……」

 こうして、私が次に食べたのはお姉ちゃんになった。これまでに食べた中で一番美味しくて……それはきっと死ぬまで変わらないだろう、と私は予感した。


「これからも、お腹すいたら言っていいからね……」


 私はお姉ちゃんによって生かされる。私たちは私たちの間でだけその本性を曝け出して、循環していく。



 保護された街の教会で暮らすようになってから、私はことあるごとにお姉ちゃんを呼び出した。木々や建物の影、人気のない路地裏、真夜中の浴室。私の食事は必ず汚れるから、血や肉片が飛んでも誤魔化せそうな場所を選んでお姉ちゃんに歯を立てた。私がお姉ちゃんの左腕だけは必ず残したのは、悲鳴を堪えるのに必要だと思ったからだった。事実、当初のお姉ちゃんは、口を塞いで涙を流しながら震えていた。やがてはそれも慣れたのか、私を気遣う余裕も見せていたけれど。

 時が経てば、そんなことも日常に溶け込んでいく。教会の神父さんやシスターたち、街の人々が豚の肉とかパンとか野菜とかを食べて満たされるのを、少し羨ましいと思うようにもなった。私だって食べられないわけじゃないけれど、どうしたってそれでは飢えたままなのだった。そして飢えも極まれば見境いはなくなる。それを防ぐための、お姉ちゃんだった。



 何かを学ぶのは楽しくて、私たちは街の図書館に足繁く通った。自分が今いる共同体とか社会の中で、他の大勢と同じ世界観を持てるのは嬉しかった。自分が悪魔ではないのだと、異端ではないのだと思っていられたから。食事の時以外は、そうやって誤魔化していられたから。

 お姉ちゃんといる時ばかり、自分たちの存在が気になった。記憶に染み付いたお姉ちゃんの匂いに包まれながら、私さえいなければお姉ちゃんはもっと穏やかに生きられただろうと思って唇を噛んだ。染み出した自分の血は、ちっとも美味しくない。お姉ちゃんなしには生きられないのが悔しかった。ごめんね、というと、お姉ちゃんは左手で私の髪を梳いた。


「私たちはね、二人でいないとダメなんだよ」


 私たちに他の関係性なんてありはしなかった。姉妹として、食べる側、食べられる側として。生命の循環を再現する機能以外を持ち合わせてはいなかった。人間社会にあって、ただでさえ歪な自分たちの生が、わずかでも平穏であれるようにと必死だった。私たちには、先しかなかったから。

 神父さんから都市部の学校への進学を勧められた時、私たちは顔を見合わせて、「少し考えさせてください」と言った。それから部屋に戻って、ベッドの縁に腰掛けながらこれからのことを話した。

 安定を求めるなら、ずっと同じ場所には止まれない。自分たちが成長し、周りで時間が流れるのと同じ速度で前進しなければ、置いていかれるのは明らかだった。そういう意味で、進学の話は願ってもいないことではあった。


「二人でいられればそれでいいよ」


 お姉ちゃんはそう言って笑うばかりで、行こうとはっきり言ったのは私の方だった。新しいことを学んで、新しい生活に移り変わって、そうやって立ち止まらずにいれば憂いも悩みも気にならないと思った。

 神父さんたちに見送られて鉄道に乗った。私たちは窓から身を乗り出して、遠ざかる人影に手を振っていた。

 お姉ちゃんの笑顔が眩しかった。いつもの中途半端な笑みじゃなくって、その時確かに、お姉ちゃんは笑っていたのだと思う。



 別々に行動することが増えた。食事の時だけ顔を合わせて、私はお姉ちゃんを貪った。

 罪悪感のせいだ、と思った。私の中にあるもの。お姉ちゃんの中にあるもの。こんな生まれで、罪の意識なしに生きて行けるわけもない。この大きな都市の中で、こんな日常はどこにもなかった。

 気を紛らわすために小説を読むようになって、音楽を聴くようになると、どこにもいない私たちは言葉と物語の上では存在しているような気がした。そんなところで、人の尺度を測って、自分を合わせていく。人とテストの点数で競う。仮のお昼を一緒に食べる。帰り道でこっそりCDを買う。中途半端に、笑う。

 家に帰ると、寄り道もしないお姉ちゃんが待っている。「お腹すいたでしょ」「うん」

 私の食事の風景は、まるで秘め事のようだと、思うようになった。

 人目を気にして二人きりで会って、服が汚れないようにと裸になる。私はお姉ちゃんに口をつけて、夢中になって歯を沈める。時折お姉ちゃんが漏らす吐息は、淫靡な響きを伴って、私の頬を撫ぜる。

 私の思い込み。錯覚なのは間違いなかった。痛くないはずがない。苦しくないはずがない。それでも悲鳴を上げないのは、私のためと歯を食いしばるからだ。お姉ちゃんがいないと、私が生きていけないからだ。

 物語の上のまぐわいには、空腹も、お姉ちゃんの血の臭いもありはしない。スクリーンに映された仄暗い皮膜の中に、姉と妹は存在しない。化け物も、私だって。


「私たちは何なの」

「人間だよ」

「そんなわけないでしょ。人はこんなことしないよ。お母さん言ってたでしょ、私たちは化け物なんだって」

「違う。人間として生きてきたなら人間なんだよ。周りから見たら私たちは人なの。なら人以外にはあり得ないよ」


 嘘つき、と私は言った。私たちは人なんかじゃないよ。居場所なんて、どこにもなかったんだよ。

 お姉ちゃんが損なわれる。お姉ちゃんが再生する。ほら、こんなのが人なわけがないじゃん。目を覚ましてよ。二人でいるから、こうなるんだよ。

 生きていたくなんてなかった。殺してよ、とお姉ちゃんの胸の中で小さく呟いた。



 血を吐いた時、お姉ちゃんのが逆流してきたのかと思った。けれど、味を確かめてみたら、唇から滲んだのと同じ臭いがした。

 病気だ、というのはお姉ちゃんの言だった。自分の身体の中がどうなっているのかなんて知りもしなかった。そもそも、人と同じかもわからない。たいしたことない、と言ったけれど、お姉ちゃんは休むようにと言って聞かなかった。

 お姉ちゃんも私を看るために家にいるようになった。私の体調はどんどん悪化していって、頭痛がしたり手足が痺れたりするようになった。食欲もなく、やがてベッドで寝るばかりになった。

 お姉ちゃんは教会に手紙を出して、街に帰ることにしたようだった。

 確かに、前進することを考慮しないのであれば、都市での生活は息がつまる。見舞いに来た友達は追い返した。こんな状況で、私がいつ暴れ出すかなんてわかったもんじゃない。私なんかに構っていないで、パンケーキでも食べていればいい。

 どうせ死なないから、とお姉ちゃんは自分の食費を削って、CDプレイヤーを買ってくれた。少しでも気が楽になればと……こんなひどい私のために。

 お姉ちゃんは死ねないからと言って、自分を殺しているんじゃないかと思う。私の生は、お姉ちゃんからもらうばかりだ。一体、何ができているというのだろう。

 座席に向かい合う。私は毛布を身体に巻いて、膝を立てて座っていた。


「ちょっとだけ、外の空気吸おうか」


 お姉ちゃんが窓を開ける。初めてこうやって鉄道に乗った時のことを、ふと思い出して、お姉ちゃんの顔を見る。入り込む風は心地よかったけれど、お姉ちゃんの表情が華やぐことはない。

 であれば私だって、嬉しくも楽しくも、面白くもなかった。


「どうかした?」


 私を気遣う声に変わりはない。「なんでも……」私はそう言って、外の景色に目をそらす。

 二人でいなきゃダメ、なんてことはないんだよ。

 二人でいるから、不幸になるんだよ。

 そうでしょ、お姉ちゃん。



 嘘つきの私たちに向けられる厚意は、きっと本物なのだろう。彼らは、私たちのことを知らないから。

 空き家を一つ貸してもらった。お姉ちゃんが薪を割って、暖炉に放り込む。私はベッドの上から、揺れる炎の輝きを見つめている。

 お姉ちゃんが作ったスープを、少しずつ飲んだ。肉は、お姉ちゃんが自分で削ぎ落としたものだろう。

 もう食べたくない。私がそう言うと、お姉ちゃんは悲しそうに顔を歪めて、「食欲、ないの?」と聞いてきた。「違うよ」と否定する。「もう、食べたくないの」

 もう食べたくなかった。もうこれ以上お姉ちゃんを口にしたくなかった。最後の最後まで食べることから離れられないなんて嫌だった。お姉ちゃんを食料にするのは、もうたくさんだった。

 私たちは化け物だ。でも、お姉ちゃんはお姉ちゃんで、私たちは姉妹でありたい。そういう枠組みの中で穏やかに生きたかった。


「お姉ちゃん、約束して欲しいの」


 お姉ちゃんがベッドに腰掛けて、私はそれを見上げている。


「約束?」

「そう。私たちが私たちであるための、お姉ちゃんにしかできない、契約」


 怪訝そうなお姉ちゃんに、私は説明する。私たちは呪われている。私たちは異形の神の欠片なのだと。私たちはどうあがいても化け物で、それならいっそ化け物なのだと証していたい。この痛みが、人間由来のものではなく、私が人でなしゆえのものだと証明したい。


「私は、人にはなれないよ」


 そしてそれは、お姉ちゃんも一緒。


「だから──」


 私たちは同じだって、感じて欲しいの。

 頷きだけが返ってきた。言葉はなく、いっそう薄くなった唇の表皮に、赤が滲んだ。

 身体を起こして、その血を舐めとった。お姉ちゃんはびっくりして、目を見開いている。


「おいしいよ」


 中途半端じゃなく、しっかり笑えていただろうか。

 お姉ちゃんは心の内で、確かに笑えていただろうか。


「次は、お姉ちゃんの番だから」


 うん、そうだね。と言って、お姉ちゃんは泣いていた。



 お母さんの墓を見つけるのには苦労した。十年も離れていたからわかるかどうか不安だったけれど、どうにかこうにか特定できて、私たちは胸をなでおろした。せっかくここまで来たのに、遭難して終わりじゃ味気ない。

 お姉ちゃんが私を木の幹に寄りかからせる。ここまでずっと、おぶってきてくれたのだった。

 一緒にいなかった時間分、たくさん話そうと言った。私たちのこれまでを、二人で一緒にいた時を思い出していたいと思った。そして終わりまでそうでありたい。他に縋れるものもなかったから。

 私にとっては、お姉ちゃんだけが頼りで、お姉ちゃんだけが家族だったから。


「次はさ、どんな風に生きてみたい?」


 言い出しっぺは私だった。「小説の読みすぎだよ」とお姉ちゃんは言ったけれど、次には首をひねって考えていた。とはいえ、お姉ちゃんの答えなんて、予想するのは難しくない。


「二人で一緒じゃなきゃダメだよ」


 私の目を見て、口元を緩めた。


「なにそれ。いつも通りじゃん」

「うん。いつも通りがいいよ。いつも通りが」


 お姉ちゃんはいつだって本気だった。義務感とか罪悪感だけじゃなく、一緒にいると、いたいと言ってくれていた。


「まぁ、そうかもね」


 感覚のない脚は投げ出して、パチパチと爆ぜる焚き火を見つめた。そうしていると、自然と心が落ち着いた。

 もし次があるのなら、お姉ちゃんがお姉ちゃんだったらいい。それで私はただの妹で、なんてことなく生きていきたい。ただの姉妹として、喧嘩して、食べ物を分け合って。


「私も、それでいいかな」


 言いながら手を這わせると、お姉ちゃんの手とぶつかった。上から覆い被せたら、するりと抜けられて、私の手が覆われた。


「こっちがいいよ」

「えー」


 しょうがないなぁ、と抵抗をやめる。私が唯一知っている、自分以外の温もりに満たされて、少し、眠くなる。

 ごめん、もう寝るね。と言うと、お姉ちゃんは「うん、おやすみ」と言って、いつかのように私の髪を梳いた。


「おやすみ」


 目を閉じる。

 瞼の裏で瞬く緋色が、暗闇に沈んでいった。

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