第16話 笑っている
戦場は濃すぎるほどの死の色に満ち満ちている。
ぽつり、ぽつりと振り出した雨を気に留めるものは誰もいない。
雨の降り始めに沸き立つ香りに混じった血の匂い。耳を劈く銃声と爆発音、悲鳴と閃光……。どのような生物であってもこんな場所から一目散に逃げるだろう。しかし、そんな場所に居続けるのが人間であり、そして
銃弾と魔術が飛び交う戦場の中で、ウェーブのかかった薄い茶髪を持つ少女、ヘイルは四方に展開した氷壁の中で
彼女の周囲には、壊れていない雪の結晶型の
ここは戦場の前線部。最前線ほどではなくとも
五感で感じうる全てのものが不快感を煽る。自身を殺そうと工夫を凝らす
そう。笑っているのだ。彼らは。
氷壁を透かしてその向こうの様子を見れば、小雨の中様々な手法で人間を殺そうとしている
そんな様々な殺人手法をとる彼らは、しかしみな共通して笑っている。笑みを浮かべるどころか、声に出してさも愉快そうに彼らは笑っているのだ。
「アハハハッ」「ウフフフ……」と、血と銃弾が鳴り響く戦場に全く合っていない声色が響き続けている。その異常な様は見る人間が見れば自身の精神状態を疑ってしまいそうな地獄のような光景であった。笑顔を浮かべている人間の姿をしたものが、自身の傷を顧みず、ただ手練手管を尽くして殺そうとしてくる。その光景に耐えられなくなって心を壊した魔術師も多い。
ある時代から突然彼らは戦場で笑い出した。彼らがなぜ笑うのか、その正確な理由はわからない。しかし、おそらくは魔術師たちへの精神攻撃が目的であるとされている。実際彼らが笑い始めてから、精神を害す魔法使いが増加した。彼らの中で考えられた「最も効率よく人間を殺すための工夫」の一つだろう。表情という
耳障りな笑い声がヘイルの鼓膜に絡みついてくる。
「くっ……
四方の氷壁が割れ砕けて飛散する。
「うるさいんだよ!」
対面した
『雪妖の欠伸』。雪山に踏み込んだ者を沈黙させる、冬の降雪地帯でのみ使用できる魔術だ。本来この場において使えるはずもない魔術だが、しかしそれを可能にするのが
この魔術が「冬の降雪地帯」と認識する定義は、「気温五度以下の環境下で頭上から結晶化した氷晶が落下する(つまり、雪が降る)こと」である。科学技術によって
これが現代の魔術の姿。
何体もの
沈黙した
弾かれたように彼女の頭が後方に反った。物陰に隠れていた
「痛ったい!」
だが、何十発もの直撃を許した彼女の体はやはり無傷で、近くの瓦礫へ疾駆する彼女は、銃弾を受けた衝撃に体をぐらつかせながらも、腿に括り付けていた短い杖を鋭く振るう。その動作だけで彼女の
広範囲にわたる氷雪魔法の行使で、彼女がいる通りの一角はそれこそ冬が訪れたかのように氷と霜に覆われていた。
息を切らし、再度訪れた沈黙の間に息をつこうとするヘイルだったが、息を吸ったそのときに、彼女が身を隠した瓦礫が爆散した。
「がっ……!」
背に爆風を受け、地を転がってビル内へ叩き込まれるヘイル。彼女が顔を歪ませながら立ち上がるのと、彼女の隣に人影が差したのは同時だった。
『ヘイル! 前に出過ぎだ! 足並みを揃えろ!
彼女の頭に声が響く。
ヘイルが入ってきたビル入り口を雫型の
ヘイルは唇を噛む。今回の戦いは何かがおかしい。襲撃を受けたタイミングといい、あの人形とも
それに、
『EMP兵器はまだどの班も鹵獲してないの?』
『どうやらな。目撃情報すらない』
そう、作戦開始前にあれほど警戒を促された兵器の影すらない。
いったいなぜ?
そんな不気味な違和感ばかりがこの戦場には這いずり回っている。
カインが展開させている水流の盾の向こうでは、今も
(集中しろ。私の役目はこいつらの気味悪い笑い声を一つでも多く消し去――)
爆炎がビルを吹き飛ばした。
破壊の嵐は、カイン展開させていた巨大な盾の防御すら安々と飲み込んで蹂躙し、鉄筋コンクリートを瞬時に瓦礫へと変え、二人の体は産まれた瓦礫とともにゴミくずのように宙を舞った。
「――ッ!」
人間の許容量をとうに超えた光と衝撃と爆音に、二人は声すら上げられない。たっぷり数秒も経ったあと、ヘイルの体は受け身すら取れずに頭から瓦礫に叩きつけられた。
一切の視界を断つ凄まじい量の粉塵の中で、ヘイルは横たわったまま全く体を動かせない。
頭より……、いや体の裂けた肉の各所から赤い液体が流れ出し、地を汚す。人の形を保っていることすら奇跡であるが、彼女を守ったのは奇跡ではなく魔法。肉体を守る魔法のおかげで、彼女の体は腕があらぬ方向に曲がった程度で、五体満足を保っている。
しかし、その命は散りかけの花。それを刈り取らんと容赦なく笑顔の擬人が、粉塵の存在などないかのように正確に銃弾の雨を撃ち注ぐ。
「
瓦礫から飛び出した雫型の
『ヘイル! しっかりしろ!』
心の声を上げたのは、カインだ。彼も傷だらけで額から血を流しているが、重症ではない。太い腕で丁寧にヘイルの体を抱き起すと、液体の入った小瓶を彼女の口へ突っ込みつつ、剣のように鋭い杖を振るう。それに呼応して、もう一機の
『なに……が……』
『ミサイルだ。空掃部隊が落とし損ねたらしい。……こんな長丁場じゃ仕方ねぇけどよ。すまねぇ! 俺も空は油断してた』
『いや……』
それこそ、仕方のない話だ。
遠距離攻撃が効かないならと、ナイフや瓦礫の中から拾ったであろう金属棒で数体の
傷口からは煙が立ち上ぼり、再生していく。あらぬ方向に曲がったまま骨折が治癒しないように、彼女は勢いに任せて折れた腕を無理矢理真っ直ぐに伸ばす。
「ぐうぅっ……!」
激痛に視界は明滅し、食い縛った歯の間からよだれが垂れることすら気にしていられない。あと数分もあれば動けるまでに回復する。それまでは、耐えなければならない。痛みにも、無防備な状態を晒す恐怖にも、なにもできない悔しさにも。そして、耐えなければならないのは、彼女を守るカインも同じだ。
『ごめん、カイン』
『いいさ。マリアのもんだったその体は、命に代えたって守るって誓ってるんでね!』
その言葉をヘイルが聞くのはもう何度目か。しかし、彼の言葉に反して、銃弾を集めていた頭上の
驚いてヘイルがカインへ視線を投げると、よく見れば横顔から伺える彼の瞳は虚ろで、息も荒いまま収まっていない。
『カイン、お前魔力が……』
『ああ、さっき結構使っちまってな……』
『もういい! もう私を守らなくていいから! じゃないとお前も心を……!』
『ダメだねぇ。言っただろうが、誓ってるってよ。意地でも守りきってやるよ!』
その言葉で頭上の
(はやく! はやく! はやく!)
体はまだ動かない。彼女の魔法制御は声と杖の両操作。喉が治っても腕が動かないのでは意味がない。やはりあと2分はかかる。
気は急くばかりで、時は待たず。もちろん
ドガガガッと、もはや聞き飽きた何重もの爆発音と閃光が二人の周囲に炸裂し、
「くっ……」
再度舞い上がった粉塵に映る影。それらはみな声を上げて笑い、二人へ近づいてくる。
「ウフフ……」
粉塵を分けて露わになる
「クソッ」
カインがヘイルの上に覆いかぶさったのと同時に、轟音がヘイルの耳を貫いた。
その音は……銃声ではない。
いくつもの連続した爆発音。
それも、ヘイルたちへ向けられたものではない。ヘイルたちのその周囲で断続的に爆発は起き、
ヘイルの目の前まで来ていた
銃声と爆発音が数十秒の間鳴り響き、やがてそれも収まっていく。
最後にヘイルの付近で起きた大きな爆風が彼女の周辺に舞っていた粉塵を吹き飛ばした。
爆風に煽られて閉じた目をヘイルはゆっくりと開ける。その目に映ったのは、晴れた視界と、笑い声の絶えた焼け野原と、
「お、お前は……!」
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