第3話 幻影と絶望

 左手に空き瓶を握りしめたまま、レイジは東京タワーに向かって歩いた。

 東京タワーに続いて牛乳屋も目の前から消えてしまった事は、少なからず彼の精神を動揺させている。何かの間違いだったと思いたいくらいだ。

 しかしながら、牛乳屋の存在やらそこで交わしたおばあさんとの会話やら、それらを全て白昼夢だったと仮定してしまうと、レイジの置かれた精神状態はそこそこに深刻なものである可能性が高い。その足で真っ直ぐ一目散に精神科の門を叩くべきだ。

 だがレイジはそう考えなかった。

 幻の牛乳屋を後にして、東京タワーに向かう事しか頭に浮かばなかった。

 東京タワーが目の前で消えた事も、牛乳屋がおばあさんもろとも消えた事も、レイジにとっては地続きの現実以外の何物でもない。少なくとも、当事者であるレイジ自身にはそう感じられた。

 歩きながら、予感めいたものを感じていたかも知れない。

 あの日、会社を首になって東京タワーが姿を消した日。あの時と同じだ。こうして近付いていく途中でタワーはまた姿を消し、そこに彼女はいるのだろう。レイジにはそれが分かる気がした。理屈ではなく、「そうでなければおかしい」という思いだった。

 だから彼は、御成門をくぐり、増上寺のそばを過ぎ、それから信号を渡って芝公園を抜ける時、そのほんの短い坂を上る間、何も考えずに目を閉じた。公園の木々が涼やかな影を落とす通りを覚束ない足取りで進み、やがてまぶたの向こうに日の光を感じてレイジが目を開くと、彼は自分の予感が的中した事を知る。そこに東京の観光名物たる赤い電波塔の姿はなく、代わりに現れた四角い空き地の真ん中に、赤い傘を差して赤い服を着た女がひとりで立っているのが見えた。少し距離はあったが、レイジはすぐに誰だか分かった。


 常磐塔子は傘の下からぼんやりとした表情で空を見上げていた。

 レイジは歩調を変える事なく、それまでと同じ足取りで彼女の近くまで歩いて行った。

 彼女の場所まであと三メートルくらいのところで、レイジは足を止めた。

 塔子の視線が向けられている空を、同じように見上げてみる。

 何の変哲もない、ただの空だ。

「何かお探しですか?」

 とレイジは聞いた。

 塔子はほんの少し、正面から十五度くらいレイジの方に首を傾けて、

「分からないのよ」

 と応えた。

 投げやりにすら思える視線が少し離れた地面を見ている。いきなり話しかけられた事については、特に何も感じていないようだった。

「何を探しているか、分からないんですか?」

「私は、何か探しているのかしら?」

「忘れちゃったんですか?」

「どう思う?」

「僕に、聞くんですか?」

「わからない?」

「僕に分かると思います?」

「……あなたは、何か探してる?」

「僕ですか?」

「他に誰かいる?」

 レイジはぐるりと周りを見回した。

「誰も……居ないのかな?」

 空き地には二人の他には人っ子一人影も形も見られなかった。

 道路を走る車すら気配を殺しているみたいに思える。

「あなたなら、見えるのかしら?」

「何がですか?」

 レイジがそう聞き返すと、塔子は溜息のような淡い吐息を漏らし、

「それが、分からないのよ」

 と言った。

 そして、首の角度をまたもとの位置に戻した。

 疑問形だけの不毛な禅問答のような会話がどうやら終わりを告げたと知って、レイジは密かに安堵したが、

(どうすればいいんだろう?)

 という問いがまだ続いていた。

 何かに導かれるようにしてここまで来たのは良いものの、果たして何故自分がここまで来てしまったのか、改めて考えてみるとレイジの中には何ひとつ答らしきものが見つけられなかった。

 何か意味があってここまで来たのか。

 何の意味もなくここまで来てしまったのか。

 さっぱり分からない。

 かろうじてレイジの頭に浮かぶのは、ここに至るまでの経緯だけだ。

 その流れに繋がりがあるかどうかは半信半疑だったが、レイジは思い切って聞いた。

「牛乳屋のおばあちゃんが心配してましたよ」

「おばあちゃん?」

「あなたの写真を店の中に飾ってました」

 レイジがそう言うと、塔子はゆっくりとした動作でレイジの方へ体を向けた。その目にほんの少し、力のある色が宿ったように見えた。

「牛乳屋のおばさんは、おばあちゃんじゃないわ」

「ああ、ええと、それは多分、あなたが生きてる時の記憶で、僕が会ったのはそれから結構時間が経ってからのおばさんがおばあちゃんになってしまった時のおばあちゃんだからおばさんじゃないんです、よ、ってこれ合ってるかな」

 レイジは自分で喋りながら、こんがらがりそうになった。

「わかりにくい」

 と塔子も言った。

「でもそうね、おばさん、おばあちゃんになったよね。また、こんがらがっちゃった」

「おばあちゃん、あなたの事よく覚えてましたよ」

「本当? みんな、忘れてると思ってた」

「覚えてる人もいますよ」

「私、死んでるのよ。死んだはずなの。それ、自分でも分かってるの」

 塔子がそう言っても、レイジは特には驚かなかった。

 今まで目の前で東京タワーが消えたり牛乳屋が消えたりしてきたのだ。たとえ目の前にいる人間が幽霊の類だと言われても、さして驚くには値しない。むしろそうじゃなかったら逆に理解できないくらいだ。

「私はここで、何をしているのかしら?」

 その言葉は、レイジに対して向けられた質問と言うよりは、「こまったものよね」という静かな自嘲の表明のように聞こえた。彼女はそのまましばらく物思いに耽っていたが、ふっと首の角度を上げてレイジを見て言った。

「あなたはここで何してるの?」

「それが、僕にもよく分かりません。少なくとも、死んでないとは思うけど。敢えて言うなら、迷子ですかね。こないだここで僕と会ったのは、覚えてます?」

 レイジがそう言うと、塔子は首を傾げて考える仕草を見せた。

「ええ……そうね。電波の流れが変わったから?」

「ん? どういうことですか?」

「電波が乱れる時って、たまにおかしくなるみたい。雷の激しい日とかね」

「ああ……そういえばアナログ停波の翌日でした。確かに、電波の流れが変わってる」

「そういう時にあなたみたいな人が迷い込んで来たり」

「東京タワーが歩いてどこか行っちゃったり?」

「あの話、信じたの?」

「ええ?」

「変な人」

 レイジは色々と反論を述べたいところだったが、あの日の自分の心境を思い出して、ただ肩を竦めるだけにしておいた。東京タワーに思わず共感してしまったのだ、と説明したところで意味はない。

 そして空を見上げる。

「じゃあ、ここにあった東京タワーは、どこに行ったんですか?」

 レイジは両手を広げて空き地全体を広々と示した。

 塔子は、レイジの方を見たまま表情を変えずに

「さあねえ、どこ行っちゃったのかしら? 私にもわからないの。何もわからないの。ここ変なのよ。時間は流れてるけど、私だけが止まっている……そんな感じもするし。東京タワーもね、見えたり無くなったりするの。やっぱり死んじゃったからかなあ」

「ここに東京タワーが無いと、変な感じしますね」

「そう?」

「あんな大きなものがいきなり無くなっちゃうんですよ?」

「私、生きてる時に見た事無いから」

 塔子はそう言って静かな笑顔を浮かべてまた首を少し傾けた。

 レイジが見た初めての彼女の笑顔だったが、そこには喜びも楽しさも希望も感じられなかった。代わりに、物憂げで、儚げな空気が彼女の周囲にわだかまっているように思えた。レイジは、その彼女の姿に清涼な色気のようなものを感じ、心臓が引き締まるような感覚を覚えた。

「昔は、全然違う風景だったのよ」

 塔子がそう言うと、空き地の周囲の風景が変化した。

 空き地の周囲に建っていたビルがふっと色を失って透明になったかと思うと、代わりに背の低い木造平屋建ての町並みが現れ広がった。それはまさに牛乳屋の壁に飾られた写真に映し出されていた、古い昭和の町並みそのものだった。ただ一つ違うのは、色が白黒ではないところだ。

 その風景の変化はとてもなだらかで、鮮やかだった。地球上のどんな科学を結集してもこんな光景を再現する事は不可能に違いなかった。

 風景の変化は一様ではなく、波のように過去と現在が行ったり来たりしていて、時間が揺れ動いているみたいだった。

 レイジはその壮大な幻影の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。ただ眺める事しか出来なかった。

 塔子は、表情も変えずにその変化を眺めている。

 彼女にとっては珍しい事ではないのかも知れない。

 レイジは手に持っていた空っぽの牛乳瓶を握りしめた。

 手の中で、その冷たさと硬さを確かめるように。

「率直に聞いて、あなたは、その、幽霊とかそういう事なんですよね」

 レイジは聞いた。

 塔子の表情が翳った。

「私、逃げたの。家族みんなで一緒に死のうって、うんって言って、でも逃げたの……みんながもう動かなくなって、それから……それから……どこまでも、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて……気付いたら真っ暗になって。誰もいなくなって。それからどうなったのか、思い出そうとすると、何もかもいっぺんに消えてしまう。考える度に頭の中が真っ白になってしまう」

 ほとんど表情を変えないまま語り続ける塔子の横顔に、レイジは深い悲しみを見た気がした。あまりに悲しい思いを繰り返して、感情が凍りついてしまったのではないか。そんな考えが浮かんだ。

「それでね、仕方なく戻ってきたの。でも、もう家が無くなってた。びっくりしたわ。家ってこんなに早く無くなるんだって思った。それでお墓を見に行ったの。みんながそこに居るはずだと思って。でもうちのお墓は、墓地ごと無くなって、代わりに東京タワーの建設が始まってた。それでね、そうやって色々歩きまわってる間、誰にも会わなかった。誰もいないの。ずっといないの。街にも、道路にも、誰一人見つけられなかった。街は動いてるのに、人は誰もいない。帰る場所もない。人もいない。それで、『ああ、わたし、死んだんだな』ってやっと思えた」

 レイジは黙って聞いていた。

 言葉を挟み込む事は憚られるように感じていた。

 塔子はそんなレイジを見て、また薄い笑顔を見せた。

「ここにいてもね、全部無くなっていくの。古いものはどんどんなくなっていく。無くなっていくものが、見えているだけ。それは、生きていても同じかも知れないけど」

「それは、そうかもしれないけど……新しく生まれる物だってある」

「じゃあ、私は何を生み出せる?」

 そう言って塔子はまた少しだけ首を傾けた。

 レイジは言葉を失った。

 返すべき適当な言葉など彼は持ち合わせていなかった。

 しかし、ここで何も答えなかったら塔子の抱える絶望を肯定してしまうような気がして、何かを言わなければならないと思った。

 が、やはり彼には何を言えばいいのか分からなかった。

 ふいに、空に暗雲が立ちこめた。

 空き地全体が暗い影に覆われ、遠い場所からの雷鳴が手の中に収まるほどの振動で震えて響いた。

 語るべき言葉を知らないままに、レイジは口を開こうとした。

「君は……」

「あなた、もう行った方がいいわ」

 塔子はそう言ってレイジの言葉を遮った。

 レイジは何も言えなくなった。

「これ以上、電波がおかしくならないうちに」

 塔子にそう言われても、レイジは立ち尽くしていた。

 攻略不能なクレバスを前にしたような無力感が彼の足を凍らせていた。

「来た道を戻ればいいわ。私も、ここを離れるから」

 塔子はそう言って、ふらりと歩き出した。

 レイジはその後ろ姿を目で追った。

 塔子は、前に会った時と同じ方向へ去って行った。

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