第2話 みんな忘れちゃうから
朝、目が覚めて「ああ、今日は休みだ」という考えが浮かんだその時には、まだ音が鳴る前の目覚ましのアラームを黙らせるべく手が伸び、「まったくなんでこういう時に限って早起きなどしてしまうのか」と疑問ともただのぼやきとも取れる独り言をごにゅごにゅとしながらベッドの上で布団の中にまたもぐり込むと、その時には布団に包まれた世界がいかにも幸福の象徴のようにさえ思えてくることもある。それが二度寝と言うものである。とにかく気持ちがいい。
そして深谷レイジはそのまま三度寝、四度寝と立て続けに惰眠をむさぼり、ようやくその体を寝床から離脱させたのはもう夕方近くになった時だった。
さすがに寝過ぎたのは明白で、腰やら背中やらの筋肉がこわばってしまったせいで体が素直に起きてくれない。そしてレイジは既にこのような怠惰極まりない生活を一週間ばかり続けていた。
急に会社に行く必要がなくなると、手や頭を働かせる代わりに呆然と虚空を眺めるような時間が生まれ、「これが自由か」などという短絡的な錯覚すら浮かんでくるところが危険であるが、レイジはものの見事にそんな社会の落とし穴に向かってするすると吸い寄せられていた。
三年続いていた禁煙の習慣もあっさりと破られ、狭苦しい十六平米のワンルームマンションの中心で咥えタバコの傍ら明け方近くまでネットの海を彷徨ったりテレビゲームをやり続けたりして、そんなしょーもない事で力を使い果たし倒れるように眠りにつくという有様だった。たまに姉や元同僚からのメールや電話の着信があったが、相手をするのが億劫で、そのすべてに無視を決め込んだ。
レイジは、そんな生活のあいだ、新聞も読まず、ニュースにも殆どいっさい目を通さなかった。世間の動向に対する興味も関心も一切湧いてこなかった。そればかりか生活維持への危機感すら麻痺してしまったのか、就職活動をしなければいけないというどうしようもないくらいの現実を怠慢という名のベッドに寝かしつけたまま、細々と貯金を切り崩す愚を犯していた。
銀行預金と退職金の額を合わせると、切り詰めれば半年はそれだけで生活できそうだったことが退廃的状況を後押しして、レイジは緩やかな堕落の坂をのんびりと散歩気分で下り始めたところだった。
しかしながら夕方に目が覚めると言うのはさすがに行き過ぎだ。
目覚めの習慣で無意識にテーブルの上のリモコンを手に取りテレビをつけると、ちょうど天気予報の時間だった。背景に東京タワーが映し出されたスタジオで、お天気お姉さんが「明日は今年一番の高い気温になるでしょう」などと快活そのものの笑顔で告げている。
全国の天気予報図がでたところでレイジはキッチンまで行ってシンクの中で洗い物待機中のマグカップを軽く水で注いでインスタントの珈琲を作ろうとした。ここ数日で日常の習慣と化しそうなくらいに当たり前な行動だった、のだが、そこでレイジははたと手を止めた。なんか引っかかる。
ミルクと砂糖をたっぷりと溶かした珈琲を手に部屋に戻ると、ちょうどテレビの画面が変わるところだった。お天気お姉さんの背後の映像はまた東京タワーに切り替わった。画面の端に【●Live】という文字列が記されている。生放送。
レイジは首をひねった。
そういえば、と思う。
(あれ、消えてたはずじゃないか、東京タワー。)
マスコミなら特ダネものになるはずの現象を目の前にしておきながら数週間にわたって放置していた事も、それで何の疑問も感じずに過ごしてきた事も、考えてみれば不思議だったが、いろいろと一遍に振りかかってきたショックから、ここにきてようやく目が覚めてきた、という事なのかも知れない。
レイジは会社を首になった日に消えた東京タワー跡の空き地で出会った常磐塔子の事を思い出しながら、伸びるに任せていた無精髭を剃り、少し伸びた髪をクリームで整え、久しぶりに家を出た。
芝公園からの見晴らしの良さを思い出して、レイジは都営三田線の御成門駅で地下鉄を降りて地上に上がった。
空はきれいに晴れていて、太陽の光が痛いほどに全身に降り注いできた。
てのひらで眩しさを遮りながら自分のいる場所を確かめる。
芝公園を見つけてそこに向かう。
公園入口正面から東京タワーに向かってまっすぐに伸びる並木道があって、おそらくそこがタワーの全体像を広く見渡すのに一番適した場所だと記憶している。少なくともレイジは他にいい場所を知らない。
そして実際にそこに立ち、見上げると、テレビで観たよりも圧倒的な威容を誇る赤い電波塔の姿が視界に飛び込んできた。
しかしレイジは自分の目で見ても非現実的な感覚に囚われていた。
(おかしいな)
そう思いながら並木道に足を踏み込む。
道の両脇には点々と一定の間隔でベンチが置かれていて、日向ぼっこ中のホームレスの姿が見えた。並木道の中間辺りまで歩いてきたところで、レイジはそのホームレスのおじさんに声を掛けた。
「すみません、あの東京タワー、ずっとあそこにありましたか?」
おじさんは一瞬の驚きと警戒心をありありと目に浮かべ、
「ああ?」
と言った。
「東京タワーです。歩いてどこかに行ったりしませんでしたか?」
おじさんはみるみると血相を変えて形相を変化させ、
「テメエ、バカにしてんのか!」
と怒鳴った。今にも殴り掛かられそうな勢いを感じたので、レイジは「あ、違うんです、すみません」とかなんとか言いながらそそくさとその場を離れた。また公園の入口に戻った辺りで振り返ると、おじさんはまだ遠くで立ち尽くしたままレイジを睨みつけていた。
今度は公園の入口付近を歩いていた親子連れに声を掛けた。
しかし話しかけた途端に困惑の表情を浮かべられてしまい、逆に早口でまくし立てられたのだが、何を言ってるのか分からない。どうやら中国人の観光客だったらしい。レイジは親子に
「謝謝」
と言ってその場を離れた。
そこでようやく聞く相手を選ぶ事を考えた。
どんな土地にも地元の人間というのがいるはずなのだ。
レイジは大通りから離れて、なるべく下町的な雰囲気を残していそうな通りを探して歩いた。
御成門の周辺を抜け、そこから大門、浜松町のある方へと向かう。
そして実際に歩いてみると、中堅ビジネス街と言った風情で建ち並ぶビルの中に、ところどころ昔ながらの雰囲気を残した店舗が存在する事が見てとれた。そのような店は大抵の場合ビルの一階部分を使っていて、かつ看板だけが妙に昭和の雰囲気を維持していた。
レイジはまずそこそこの年輪を感じさせる弁当屋に入り、お茶を買いながらレジで店員に話しかけた。三十歳前後の主婦という感じの女性だった。いきなり怪しまれると話が進まないので、「実は今小説の話になるようなネタを探しているのだが、この辺りで最近変わった話を耳にした事はないか」という風に話を切り出す事にした。
すると店員は面白がってひとしきり考えてくれたが特に思いつく事はなかったらしく、よく行く居酒屋の常連客のおっさんが非常に迷惑な輩で店で顔を合わせると決まって口説きにくるが口が臭くて堪らないのだ、という話をひと通り聞かされる羽目になった。
店員がその内におっさんのハゲ頭を平手ではたいてやる、という決断を下したあたりで、レイジはささやかな礼を述べて店を離れた。
その後、酒屋に寄ってまたお茶を買い、豆腐屋を発見し、いつ倒壊してもおかしくなさそうな町工場を目にしたが、残念ながら東京タワーが姿を消した、などと言う話は聞き出す事が出来なかった。それどころか途中から東京下町散歩的なイベントを楽しみ始めている自分に気付き、(気を引き締めなければいかんがちょっと休憩しようかな)と考えた矢先に懐かしいものを目にした。
店先に木製のベンチを置いた牛乳屋が目の前にあったのだ。
中を覗くと、縦長の箱のようなガラス張りの冷蔵庫の中にビンに入った牛乳やコーヒー牛乳やフルーツ牛乳がぎゅうぎゅうに詰まっていて、その場で買って飲めそうだ。さらに一歩中に入ると、人のよさそうな笑顔を浮かべたおばあさんが割烹着を着て店の奥で立っていた。
「いらっしゃい」
とおばあさんは言った。
「コーヒー牛乳ひとつ、ください」
とレイジは言った。
「はい、ごゆっくりどうぞ」
レイジは代金を払ってベンチに腰掛けた。
何だかんだで結構歩いた。
渇いた喉と舌に懐かしい味が染みた。
「あーうまい」
思わず言葉が漏れた。
「天気がいいですねえ」
と、おばあさん。
「そうですねえ」
「観光ですか?」
レイジはどう答えようかと一瞬迷ったが、
「東京タワーを見にきたんです」
とだけ言った。
「そうですか。昔はねえ、ここからでも東京タワーが見えたんですけどねえ」
「そうなんですか?」
「もうビルがたくさん建っちゃって、隠れちゃいましたけどねえ」
「僕は、今みたいな東京しか知らないなあ」
「東京タワーが出来た頃は、この辺には背の高い建物はまだ全然なかったんですよ」
「へえー。想像もつかないな」
「ほら、あんな感じ」
おばあさんはそう言って店の中の壁の一角を指さした。
見ると、壁には古い写真が何枚も額に入って飾られていた。
「死んだおじいさんが好きでねえ。たくさん写真撮ってたのよ。場所も場所だし、東京タワーの写真ばっかり撮ってる時期もあったわねえ」
「近くで見てもいいですか」
「どうぞどうぞ」
レイジは飲みかけのコーヒー牛乳を手にしたまま店内に入り、飾られた写真の前に立った。ほとんど全部がモノクロで、セピア色に変化したものも多いが、保存には気を遣われているのが感じ取られた。ほとんどが東京タワーをメインに撮影された物のようだが、人物中心の写真も混ざっている。その中の一枚に、レイジの目が止まった。
物憂げな表情を浮かべた一人の女性が傘を差している。
レイジには、その女性に見覚えがあった。しかし、あり得ない。
じっとその一枚を見つめてしまう。
「きれいに撮れてるでしょう、それ」
「ひょっとして、これおばあちゃんの若い頃?」
レイジがそう聞くと、おばあさんは手で目の前の空気を払いながら、からからと笑い声を上げた。
「私はこんな美人じゃなかったねえ。これは常盤さんとこのお嬢さん。いいとこの娘さんでねえ。銀幕のスターになるんだって、よく言ってたのよ。この界隈じゃ知らない人はいなくて、おじいさんが頼み込んで写真撮らせてもらったんだよ」
「常磐さん」
レイジはその名前だけを鸚鵡返しに繰り返した。
写真に映された女性は、レイジが先日東京タワーが消えた日にその場で会った女にそっくりだった。というより、ほとんどそのままだった。おまけに名字まで一緒だ。
どういうことだ?
「これ、昔の写真なんですよね?」
「そう。ずっと昔」
「今は……」
「みんな死んじゃったわねえ」
レイジは話しながらも会話の内容に奇妙な違和感を感じていた。
他の写真にも目を移す。
人が写っている写真はほとんど例外無く皆笑っている。
「なんかみんな、元気ありますね。勢いがあるというか」
「経済がすごい勢いで成長してたからねえ」
「じゃあ、この人も結構お金持ちの家の人だったんですか?」
そういいながらレイジはまた傘を持った常磐嬢の写真を指で示して聞いた。
するとおばあさんは少し悲しげな表情に変わった。
「それがねえ、常磐の旦那さん、なんだか事業に失敗したとかで、ものすごい借金抱えちゃったらしくてねえ。ある日突然、一家心中しちゃったの。ちっちゃい方の子はまだ小学生だったかねえ。可哀想なことしたわよねえ……」
「それ、いつの話ですか?」
「あれは……ちょうど東京タワーの工事が始まる前くらいだったかねえ。借金取りも非道くてねえ、この写真の子も、もう少しで借金の形に売られそうになってたって聞いたねえ。でも死んじゃったからねえ」
「はあ……」
レイジは返すべき言葉を思いつかず、意味のない溜息で答えるしかなかった。目を逸らすように、また写真を見る。ビルの建ち並ぶ現在から考えると、その背景に写る町並みはまるで面影を残していない。
「この写真、撮影されたのってこの辺ですか?」
「今の東京タワーの真下あたりだよ。ちょっとずれてるけどね。あの辺かな」
おばあさんが店の外に人さし指を向けたのでレイジは店先に出てその方向を確かめた。
「綺麗な人だったんでしょうね」
「そりゃあ大変なものでしたよ」
「ご近所で、しかも存在感のある人がいなくなるのって、やっぱり寂しいですよね」
レイジの言葉に対する返答はなかった。
その空白が沈黙の色合いを帯び始めた時、
「でもみんな、忘れちゃうからねえ」
とおばあさんは言った。
おばあさんのその言葉は、耳元で囁かれたような響き方でレイジの耳に届くと、聴覚を通じてこころの内部に凝縮され、小さなかたまりを作った。やがてそれはレイジの胸の奥にちゃぷんと静かな着水音を立てて、幾重もの波紋を残す。その物静かなさざ波がいつまでも減衰せずに響いていくような気がして、彼は振り返った。
しかし、そこにおばあさんの姿はなかった。
それどころか牛乳屋そのものが影も形もなくなっていた。
レイジの目の前にあるのはひっそりとした空きビルの一階にある閉ざされた空き店舗の入り口だった。木製のベンチもなくなっている。
思わず左右を見渡したが、他には何も異常は見られない。
もう一度正面を見る。閉ざされた扉に手をかける。
鍵が掛かっていて開かない。
レイジの手の中に、コーヒー牛乳の空き瓶だけが残されていた。
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