第4節「境界線」

 それは夕焼けの美しい日の事だった。日がな一日机に向かい本を読むという行為に飽きて、たまには散歩でもよいだろうと、静かな田舎の川沿いをよたよたと歩いていた。

 何の気なしに橋のほうに目をやると一人、ポツンと今にも消えてしまいそうなほどに陰った顔をした男がいた。

 私は何を思ったのか、今ではもう思い出せないけれど、その男に声を掛けたのだ。

「すみません、ちょっと、お話しませんか」

 男は不思議なものを見るように私に目をやり「まぁ、いいですよ」と言った。

「ここで何をなされていたのですか」

「別に、何も。ただほんの少し風に当たりに来ただけです」

 そう言うと男は欄干に掛けていた腕を外し、背にもたれるようにして私のほうを向いた。一度、私の顔を見、小さくため息をついたかと思うと「不思議ですね」と言い、自嘲気味に笑った。

「なぜでしょうね、見ず知らずの貴方に話すようなことでもないのに、なぜだろう、少し、聞いてほしいと思ってしまう。少し長くなりますが、聞いていただいても?」

 特にこれといった用事もない私は「もちろん」と答え、男の話に耳を傾けることにした。男はもう一度、今度は深いため息をついて天を仰ぎ、ポツリポツリと言葉を紡いでいった。




 私は昔、この近辺に住んでいましてね。とりわけ、本当に何もない田舎って事もあって、友人もそこまでいなかったんですよ。時が過ぎて、少しづつ、ただでさえ少ない友人たちとも疎遠になり、私は一人上京して、最近になって帰ってきたんです。ええ、精神的にやられましてね、恥ずかしい話です。

 ……もう、こちらの友人とは会えないだろう、と思っていたのですがたった一人、声をかけてくれた奴がいましてね、当時親友だったそいつは、帰ってきているなら教えてくれたらよかったのにと、笑いながら飯を奢ってくれました。

 家族からは厄介者扱いされるし、社会復帰を目指してバイトを始めてはみたものの中々上手くいかず、どうにも、もういっそのこと死んでしまったほうがいいのかなんて考えていたころだったもので、泣いてしまいましてね。ええ、その飯の席で。今思えば、救われたのでしょうね。あいつがいたから、今こうしてお話ができているわけですから。

 私ね、実は憎かったんです、その男が。なんででしょうね。人当たりが良くて、優しい男でした。これと言って何か苦労しているようには見えないやつで、子供のころに語った夢を追い続けながらいつでも笑っているような、そんな人物だったんです。

 きっと、そうですね、羨ましかったの方が正しいのかもしれませんね。泣いて泣いて、苦しいって、辛いってどんなに言っても、上手くいかない自分と、勝手に比較してたんですよ。つまらない話ですが。




 男はそこまで語り、俯きながらどこか寂し気に、しかしながらどこか懐かしそうな顔をし、またため息をついて私を見た。

「その方とはまだ連絡を取り合っているのですか」

 私がそう聞くと男は首を横に振り「死にました」と言った。

「自殺、だそうです。遺書は、無かったと聞いています」

 日はもう沈みかかり、辺りが少しづつ暗くなる中で男は消え入るそうな声で「何でですかね」と言った。

「きっと彼なりに、思い悩んでいたのかもしれませんね、何かは、わかりかねますが」

「どうして俺に言ってくれなかったのか、ずっと考えていたんです。多分、あいつは気づいていたんでしょうね、私が自分に嫉妬していることに。だから言えなかった」

 男は懐ろから煙草を取り出し、一度ハッとしたように手を止め、少しした後に小さくか首を振り、取り出した一本を咥え火を点けた。


 天に昇って行く紫煙がこんなにも美しく見えたのは初めてだった。黄昏時、あの世とこの世、その境界線上に浮かぶその煙が弔いのように思えて仕方がなかった。私も、男もしばらく口を開かぬまま、ただ日が沈み切るその時まで、ただその場に立ち尽くしていた。


「……もう、帰ります」

男はそう言って靴の裏でタバコの火を消し、携帯灰皿をしまった。その時の男の顔を、私は一生忘れないだろう。

「また、いずれ」

「ええ、またいずれ」

 お互いに反対方向へ歩みを進める。ふと振り返ってみるが、男の姿はどこにも見当たらなかった。


 それは、夕焼けが美しかったある日の出来事。

 夕焼けを眺めるたびに私はあの男の顔を思い出すのだ。

 泣いているような、笑っているような、そんな境界線の上にあるような、あの顔を。

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