第53話 水族館 後編

 イルカショーが終わり他のお客さんがぞろぞろと会場を後にする中、俺と夏織ちゃんは館内には戻らずに閑散とした客席に留まっていた。


「すぐに乾く感じじゃないね……」

「うん……」


 今日は曇りということもあり、ぐっしょり濡れたシャツはちょっと待ったところで乾きそうなレベルじゃなかった。


「かといって、替えのシャツなんか持ってきてない……よね?」

「うん、水族館に来て着替えがいるなんて思いもしなかったからね……」


 最近のイルカショーは随分激しくなったんだな。

 ……前のイルカショーを覚えてないからわかんないけど。


 けれど、せっかくのデートだ。

 こんなところで立ち止まるのももったいない。


 不快感を押し殺して立ち上がる。


「まあ、このままでも大丈夫だよ。続き見に行こう」


 そう言って夏織ちゃんに立ち上がってもらおうと手を差し伸べるも、「うーん」と唸り見向きもしてくれない……。


「……どうしたの? 夏織ちゃん、考え事?」


「よし! やっぱこれしかない!」


 そう言うと俺の手は使わずに勢いよく立ち上がり、「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行こうとする。


「どしたの急に! どこか行くなら俺も——」

「ダメ! そんな濡れた格好でクーラー効いてる館内に入ったら寒いよ! 風邪引いちゃうといけないから、孝太くんはここで待っててね!」

「え、ちょっ。どこに行くかくらい教え——」

「すぐ戻るからー!」


 そう言って夏織ちゃんは駆け足で館内へと消えていった。

 ……俺にまともな説明もなく。


 けど、俺のためを思ってくれてるのは伝わる。

 ここは夏織ちゃんを信じて待つとしよう。


 俺は陽のあたる席に移動し、ちょっとでも乾くようにシャツの裾を持ちパタパタと空気を送り込んで夏織ちゃんの帰りを待つことにした。




「お待たせー!」


 十分も経たずに夏織ちゃんは戻ってきた。


「ごめんね、レジが結構並んでてさ……」

「……レジ?」


 夏織ちゃんの手を見ると、ビニールに包まれた何やら布製のものが見えた。


 もしかして、タオルとか買ってきてくれたのかな?

 ハンカチはもう使っちゃったし、水を吸ってくれればだいぶ楽になるかも!


 さすが夏織ちゃん、これでだいぶマシに——


「はい! これ着て!」


 ん? 着て?


 夏織ちゃんが袋から取り出して俺に差し出したものはタオルではなく、Tシャツだった。


「かわいいでしょ! ラッコだよ!」


 Tシャツの中央にはここの水族館のオリキャラだろうラッコが描かれていた。

 ラッコはサングラスをかけている。


 ……帽子をかぶったカモノハシスタンプといい、夏織ちゃんの好きな動物のツボはちょっと変わってるよな。


「あ、ありがと! これで濡れたシャツ着ないでもよくなるね、助かるよ」

「そ! よかった、喜んでもらえて」

「じゃあ、ちょっとそこのトイレで着替えてくるから」

「うん。いってらっしゃーい」


 夏織ちゃんからシャツを受け取ってトイレに入る。


 他にもよおすものもなかったので、さっさと上を着替える。


 ……ぴったりだ。


 デザインはともかく、サイズはピッタリあった。


 いや、わかってる。

 服のサイズなんてS/M/Lくらいしかないから、ピッタリになる確率は高いだろう。


 けど、嬉しいんだ。

 難しくないことでも、夏織ちゃんが俺に何かしてくれるだけで嬉しいんだ。


 ……早く夏織ちゃんに見せたいな。



「お待たせ」


「やっぱり! 似合うね!」


「うん、サイズもぴったりだったよ」


「よかったよかった!」


 こういうキャラがプリントされたTシャツは着たことがないから、自分に似合ってるかどうかは正直わからないけど。


 夏織ちゃんが喜んでくれるならそれでいい。


「これで午後も水族館巡りができるね!」


 ……あ。

 そうかそうだった。


 ”Tシャツが濡れてこのまま水族館巡りができない”というのが問題だったんだ。

 夏織ちゃんが俺のために買いに走ってくれたことが嬉しすぎて忘れてた。


 ……ここのTシャツきてたら熱心なファンだと思われたりするかな?


 まあ、思われてもいいか。

 せっかく夏織ちゃんが買ってきてくれたんだ。


「うん、夏織ちゃんのおかげだよ。ありがとう!」


「どういたしまして」


 せっかくお礼を言ったのに、またお礼をいいたくなるようなかわいい笑顔で返してくれる。


 こういう返しを目を見ながらきちんと言ってくれるところも、俺が夏織ちゃんの好きなところの一つだ。



 その後、水族館を巡りきり、帰路の途中で夜ご飯を食べて、家に帰ってきた。



「はー。楽しかったなー!」

「孝太くんずーっとはしゃぎっぱなしだったね。特にペンギンのところ!」

「だってさ、ペンギンがあんな早く泳ぐなんて思わなかったから! そういう夏織ちゃんはアザラシのところでずーっと立ち止まってたよね」

「だってあのアザラシ、真顔でスーーーっと漂ってるんだもん。無気力感が面白くって!」


 寝る前まで今日の楽しかったことをずーっと話していた。



 夏織ちゃんと付き合ってからの初デートは、ハプニングもあったけど最高に楽しい一日になった。


 これからも、こんな日々が続くといいな。

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