第19話 前言撤回 後編
ふう。
思ったより早く帰ってこれてよかった。
今、七時半か。
孝太くんいつも七時過ぎに帰ってくるから、まだ外に食べに行ってるかな?
車を降り、階段に向かう前に駐輪場を覗く。
……あれ、孝太くんの自転車あるな。
まだ家にいるのかな? それとも、もう帰ってきたとか。
あ、ソファーで寝てたりして。
もしそうならちょっとイタズラしちゃおーっと。
急な残業で疲れたはずの足取りも、少し軽やかになる。
その調子で階段を登り、あっという間に自分の部屋に着いた。
「ただいまー」
◇◇◇
やばいやばいやばい。
夏織ちゃんもう帰ってきた!
頭では『すぐに片付けなきゃ』とわかってるのに、体が動かない。
茫然自失。
自分で自分が情けない。
夏織ちゃんにいいとこ見せようとして、このざまだ。
リビングの扉がガチャンと開く。
「孝太くんどうしたの?! 廊下まですごい匂い!」
血相変えた夏織ちゃんが入ってきた。
俺は、うなだれたまま。
「夏織ちゃん……。ごめんなさい、俺、その……」
事情を伝えようと、言葉を紡ごうとするも、何も出てこない。
「ごめんなさい」
ひたすら謝るしかなかった。
いくらでも叱責される覚悟はある。『できないことはするな』と。
夏織ちゃんは俺の前に膝をついて目線を合わせる。
「大丈夫? 怪我、してない?」
予想外の優しい言葉にハッとする。
思わず目がうるむ。
けど、俺なんかのことは今はどうでもいい。
夏織ちゃんの家をめちゃくちゃにしてしまった。
俺は首を横に小さく振るも、夏織ちゃんは俺の両手をそっと持ち上げた。
「嘘。ひどい火傷だよ。こっちは、切っちゃったの? とにかく、冷やさないと」
夏織ちゃんは冷凍庫から凍らせた保冷剤を取り出すと、ポケットに入っていたハンカチで包み、俺の手に持たせてくれた。
なんで怒らないんだ。
なんで優しくしてくれるんだよ。
そういえば、昔も夏織ちゃんに怒られたことはない。
夏織ちゃんはいつも優しかった。
今でも。
俺がぶちまけた野菜を拾い上げていると、夏織ちゃんはそっと俺の肩に手を回してくれる。
「ありがとう。あとは私やるから、孝太くんは座ってて」
肩に手を置いたままダイニングまでエスコートしてくれたので、俺はそれにしたがって椅子に座る。
「ちょっと待っててね」
夏織ちゃんは会社のカバンから自分の水筒を取り出し「これ飲んでて」とテーブルに置いた後、キッチンに戻っていった。
フライパンを持ち「ふんふん」と頷き、電子レンジを見て「おおぅ」と唸る。
本来、自分の失敗は自分でカタをつけないといけないんだろう。
けど、足が動かなかった。
夏織ちゃんの優しさに甘えてしまっている。
夏織ちゃんの水筒からお茶を一口飲む。
すると、お茶とともに顔に篭った熱も少し流れ、冷静な自分が顔を出す。
……何やってんだ俺。夏織ちゃんを楽させるどころか逆に迷惑かけてるじゃないか。
……ちょっと考えれば、というか普通わかるだろ。金属製品を電子レンジに入れちゃダメだなんて。
……どんだけ浮かれてたんだ。
……レンジ壊れちゃったかな。
……夏織ちゃん、疲れてるところ本当にごめん。
……いや。
……いや! なら、今は夏織ちゃんの手伝いが先だろう!
俺は勢いよく立ち上がる。
「夏織ちゃん、俺も手伝うよ!」
「いいのいいの! 孝太くん、
「でも」と引き下がる俺を、「後は床拭くだけだからー」としゃがみこむ夏織ちゃん。
夏織ちゃんの姿が見えなくなり、俺は再び椅子に座った。
すると、今になって両手の痛みを強く感じる。
左手の親指の切り傷と、右手の手のひら半分と小指の火傷。
こんな大怪我、今までしたことないんじゃないか?
結構な怪我だということが痛みから伝わってくる。
でも今はこんな痛みもどうでもいい。
夏織ちゃんに申し訳ない気持ちでいっぱいだ……。
「よーし、終わり! とりあえずね」
夏織ちゃんが立ち上がり、こっちに歩いてくる。
やっと怒ってくれるのか?
いや。別に俺がMな訳じゃない。
夏織ちゃんに怒られた方が自分の中でも……なんというか、ケリがつく、というか。
いい言葉が思い浮かばないが、夏織ちゃんの気がすむようになんとでもしてほしいんだ。
しかし、夏織ちゃんの口からは全く予想していなかった言葉が飛び出す。
「孝太くん、今から出られる?」
「え? う、うん」
出る? どこに?
全くわからん。
あ、山奥に置いてかれたり、簀巻きにされて海に放り込まれたりするんだろうか?
「よし! じゃあ、ラーメン食べ行くぞ!」
「うん?」
急遽、近所のラーメン屋に行くことになった。
◇◇◇
「ここたまにくるんだけど、美味しいのよね」
家から車で五分ほどのラーメン屋。
カウンター席から少し離れたテーブルを二人で挟んで座っている。
食券形式ではなくテーブルで注文する店らしく、夏織ちゃんがメニューをこっちに見えるように開いてくれてる。
「おすすめはつけ麺かなー。大盛り無料だし」
「……じゃあ、それにするよ」
夏織ちゃんは店員を呼び「つけ麺二つ。一つ大盛りで」と注文してくれた。
いまだに状況が飲み込めないが、頭はだいぶ働くようになってきた。
店員が去った後、俺は思っていることを聞く。
「夏織ちゃん、怒ってないの?」
「ん? ああ、怒ってないよ」
いつもの夏織ちゃんの微笑みだ。口だけじゃないと確信できる。
でも、なんでだ?
「なんで怒ってないの? 俺、キッチンめちゃくちゃにして、仕事で疲れて帰ってきた夏織ちゃんの仕事増やして……」
「孝太くん」
遮るように名前を呼ばれた。
夏織ちゃんは頬杖をついて顔を少し傾げる。
口は微笑んだままだが、真剣な眼差しに変わっていた。
安らかな夏織ちゃんの表情は、包容力に満ち溢れている。
「孝太くんはさ、私が帰ってくるの遅くなるから、ご飯作って待っててくれようとしたんでしょ? その結果失敗しちゃっても、その気持ちがとても嬉しいの」
「……どうしてわかったの? 俺がご飯作って待ってようとしたって」
「わかるよ。孝太くん優しいから。
孝太くんさ、帰ってきて夜ご飯見るといっつもすごい嬉しそうな顔してるんだよ? だからきっと私にもそうやって喜ばせたかったのかなーって。
……当たってるでしょ?」
すごい。
全部見通されてる。
というか、帰ってきたときそんなわかりやすい顔してたのか。恥ずかしい。
「だから全然怒ってないから気にしないで! 孝太くんもたくさん謝ってくれたし」
俺は……まだ頷けなかった。
そんな俺を見かねてか、夏織ちゃんは「じゃあこうしよう」と提案をし始めてくれる。
「これからちょっとずつ料理の練習してさ、またリベンジしてよ! また急に残業する日もあるだろうし。その時美味しいご飯作って待ってて!」
夏織ちゃんがくれた挽回のチャンスは、俺がまさしく求めていたもののようで。
「……うん! わかった!」
ようやく張りのある声が出た。
まっすぐ夏織ちゃんを見られるようにもなった。
そんな俺の声を聞いて、夏織ちゃんは「よろしい」と微笑みながら頷く。
……この失敗、挽回してみせる!
絶対に!
「お待たせしましたー。つけ麺と大盛りつけ麺ですー」
「お、きたね! じゃあ食べよ! お腹すいたでしょ?」
……確かに。やっと気持ちが落ち着いたところで自分の空腹に気がつく。
「うん、いただきます!」
「いただきます」
「あ、美味し」
「でしょー! 締めのご飯もあるよ。タダで」
「そうなの?! 絶対頼む!」
ラーメン屋を出る頃には、お腹も気持ちもいっぱいに満たされていた。
夏織ちゃん、ありがとう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。