第8話 社会人でも朝は弱い 前編

「「ごちそうさまでした」」


 食事中、俺は「うまい」「美味しい」しか喋らず、夏織ちゃんはそれをニコニコと見ててくれた。


 何も乗っていない皿だけが並ぶ食卓を挟んで、二人で手を合わせて食事を終える。


「孝太くんいい食べっぷりだったね。こんなに綺麗に食べてくれるなら、作った甲斐もあるよ。さすが、食べ盛り!」

「夏織ちゃんの料理が美味しいから箸が止まらなくて」

「いやいや。まさか、漬物まで全部食べられるとは思わなかったから」


 当然どれも美味しかったんだけど。

 正直、夏織ちゃんが出してくれたものを残すのが申し訳なくて勢いでいった感はある。


 ……やっぱり漬物全部はやりすぎだったかな。


「じゃあ、洗い物は俺がやるから、夏織ちゃんは休んでて」


「ありがと。お風呂掃除だけやってからそうさせてもらうね」


 夏織ちゃんは「そっちはよろしくー」といってリビングを出ていく。


 いつも、料理は手伝わない分洗い物が俺の役目だった。

 母さんと優希と俺、三人分の食器と調理に使った器具を洗う。

 だから、今日みたいに二人分の片付けはいささか楽だ。


 ほどなくして夏織ちゃんが戻ってくる。


「もうお湯張っちゃってるから」


「うん」


「そっち手伝おうかー?」


「いいよ。もうすぐ終わるから」


 申し出を断られた夏織ちゃんは「わかったー」といってソファーに腰をかける。


 実はまだもう少しかかりそうだけど。ご飯のお礼にこれくらいやり切りたかった。

 ……ああ、早く洗い物終わらせて隣に座りたい。


「ねー孝太くん」


「なにー?」


「新婚生活って、こんな感じなのかなー?」


「なっ?!」


 なんて不意打ちだ。

 効果は抜群です。


「だってさ。新婚さんってこんな感じで家事を分担するんだろなって思って」


「そりゃあ、そうだろうけど……」


「それにしても私たち、初日から上手くやれてることない? きっと相性抜群だね!」


「ぐう」


 三連撃のダメージ(ご褒美)が大きすぎて、相槌すら打てなくなる。

 皿洗いをしてる手も止まった。


「夏織ちゃん、あまりからかわないでよ」


「えー、なんで? あ、もしかして想像しちゃった? かわいいなあ」


 夏織ちゃんはイラズラっぽくふふふっと笑ってる。


 それはこっちのセリフだ。

 こんなに可愛い人にそんなことを言われて平常心を保てる男なんていないだろう。


 でも、裏を返せば夏織ちゃんから、”異性”として意識されていないってことだ。

 気が楽な気もするし、ちょっと複雑な気もする。


 ……俺、夏織ちゃんとどうなりたいんだ?


 夏織ちゃんとの生活で浮かれていたが、先のことを考えるとふと頭が空っぽになった。

 


 なんて俺が考えているのは夏織ちゃんにはわかるはずもなく。

 何か思い出した様子で、急にソファーに乗ったまま体をこちらに向ける。


「あ、そうだ。孝太くん、いつも朝は何時に起きるの?」


「えっ……と。六時かな。朝練が七時半からあるから。夏織ちゃんは?」


「私? 私は、そうね。私も同じくらいよ。うん」


 ん?

 見間違いか? 夏織ちゃん目が泳いでるけど……。


「じゃあ、朝ごはんは六時半ね! また作ってあげるから片付けよろしくね」


「オッケー」


 目が泳いでたように見えたのは気のせいだったか?

 いつもの元気な夏織ちゃんだ。


『♪〜 お風呂が沸きました』


「あ、お風呂わいた! 孝太くん入ってきなよ。洗い物変わってあげるからさ」

「いや、あと少しだから」

「いいのいいの、ここはに任せなさい」


 夏織さんは僕からスポンジを取り上げると、僕の背中をポンと押した。


 お姉さん、か。

 やっぱり、俺のことは弟くらいにしか思ってないんだな。


 お言葉に甘えて先にお風呂をいただくことにした。



 ◇◇◇


「ふぅーーー。気持ちいい」


 全身を洗い終えて浴槽に入る。


 足を曲げて一気に肩まで湯に浸かると、身体中の緊張がほぐれてリラックスしていった。


 体とともに、今日初めて心も安らぐ。


 いやー。

 いつも通りの一日になる思ったのに、まさか別の家で暮らし始めることになるとは。想像もつかなかった。


 部活もすっぽかしちゃったしな……。

 修斗の奴、上手くいってくれたかな?


 いや、それは考えても仕方ない。明日行ってみないとわからないことだしな。

 それより今は……夏織ちゃんだ。


 俺は考えを整理しようと頭を横に二、三度振る。


 今日、これまで過ごしてわかったのは、夏織ちゃんは俺のことを”異性”とは認識してないってこと。


 そりゃそうだ。もし異性だと思ってたら、自分の家で一緒に暮らすことを提案したりしないだろう。


 そして、今の俺は夏織ちゃんをバリバリ”異性”だと認識している。それもとびきり魅力的の、だ。

 十年前とはいえ、初恋の人だ。今日見た瞬間から、ドキドキしっぱなしだったけど、むしろ正常といえよう。


 もちろん、今だって夏織ちゃんのことはとても素敵な女性だと思うし……好きだ。


 だけど、今すぐ告白したいかと言われるとそうでもない。


 だって、フラれた時にこの生活がどうなるか想像するだけでもおぞましい。

 毎日気まずくなるだろうし、別の部屋を探すにしても父さん母さんに事情を言わないといけなくなるからな。


 夏織ちゃんにフラれたから別の部屋に引っ越すよ、って? 

 ……それは絶対に嫌だ。



 そもそも、俺は父さんについてくるかどうか聞かれた時、”今の学校に通いたい”って気持ちで日本に残るって答えた。

 夏織ちゃんの登場は、あくまでサプライズ。それが目的じゃなかったはずだ。



 ……よし、決めた。

 俺は苦労して入った今の学校を卒業するために、日本に残ったんだ。

 だから、第一目標は”今の学校にきちんと通って無事に卒業すること”。


 でも、その目標を達成するために、夏織ちゃんに部屋を貸してもらってる。

 だから、夏織ちゃんの目的である”楽しく暮らすこと”に貢献もしないといけない。


 なら、俺は夏織ちゃんの思っている、”弟のような存在”でいよう。

 きっとそれが一番いい。


「孝太くーん、大丈夫? のぼせてない?」

「だ、大丈夫だよ! 今出るとこ!」


 じゃないと、俺の精神がもたない!

 こんな、風呂の扉一枚だけ挟んで会話してくるような距離感だぞ。


 夏織ちゃんの「はいはーい」という返事が聞こえた後、遠ざかる足音がする。

 どうやら戻ってくれたようだ。


 確かに、少し長風呂をしちゃったな。


 浴槽から出て体についた水滴を軽く払ってから、俺は風呂場から出た。

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