第6話 社会人と学生の共同生活 前編

 改めて夏織さんの、もとい俺たちの家に入る。


「汗かいちゃったねー。ちょっと休憩しよっか」


「そうですね」


 夏織さんの後について、共有スペースにあるダイニングの席に着く。


 確かに、学校から自転車を飛ばした後にまさかの引越しと続いたおかげで汗だくだ。

 喉が渇いていることにも今まで気がつかなかった。


「はい、お茶。麦茶だけどどうぞ」


「ありがとうございます。いただきます」


 冷蔵庫から夏織さんが出してくれたコップいっぱいの麦茶を受け取ると、一気に飲み干す。


「はあーーー。生き返るー」


 思わず本音が出てしまうくらいに、体は渇いていた。

 冷えた麦茶が体のどこを通っていくかわかる。この感覚が気持ちいい。


「やっぱり夏は麦茶だなー」


「フフ」


 ……あ。しまった。麦茶に気を取られすぎた。

 夏織さんが頬杖をつきながら俺を見てクスクス笑っている。


 何が”やっぱり夏は麦茶だなー”だ。

 滅茶苦茶恥ずかしいぞ……。


「あ、すみません。えっと、やっぱり夏は麦茶ですよね」


 何を言ってる俺。問題は敬語かどうかじゃないだろう!


「ねぇ」

「え。 あ、ハイ!」


 夏織さんは頬杖をついたままだが、表情が変わっていた。


 夏織さん……怒ってるのか?

 なんだかツーンとしてる。今の言い直しが滑ったのか?


「いつまで敬語で他人行儀にしてるわけ? もうお父さんもいないんだから、昔みたいに話そうよ」

「え……」


 僕がずっと敬語で話しているのが気に入ってなかったのか?

 それでも父さんがいる間は我慢してたのか……。

 可愛すぎるぞ、夏織さん。


「いや、でも。あれは十年前のことで。今は俺も十七になったし、目上の人には敬語を使わないと」

「えーーー」


 夏織さんの小さな頬が膨れてしまった。


「そんなの楽しくない!」

「うっ」


 それはダメだ。

 俺はお世話になる代わりに夏織さんを楽しませないといけないんだ。


「わ、わかったよ……夏織さん」


 俺のタメ口に反応して一気に夏織さんの表情が明るくなる。


「ほんと?! よかったー! じゃあ次ね」

「次?」

「その、夏織”さん”ってやつ。昔みたいに夏織”ちゃん”って呼んで」

「えっ」


 夏織さんは引き続き無邪気な顔で「ハイどうぞ」と俺を囃し立てる。


「ごめん、流石にそれは……」

「えーなんでー?!」


 単刀直入に言おう。恥ずかしいんだ。


 これまで女子を”ちゃん付け”で呼んだことなんてない。

 いや、小学生の頃はあったけど、中学以降はずっと”さん付け”で呼んできました。

 周りの男児がちゃん付けで呼ぶような子も、さん付けで呼んでました。すみません。


 葛藤する俺を見かねて、夏織さんが痺れを切らしたのか俺にグッと顔を近づけて尋ねてくる。


「じゃあ、どうしたら昔みたいに呼んでくれるの?」

「どうしたら、って?」

「何かお願いを一つ聞いてあげる! その代わり、コーちゃんも私のこと昔みたいに呼んでね」


 まさか……。

 こんなに早くに訪れるとは、”お願いイベント”!


 ……だが、健常な男子高校生なら、ここでイケナイお願いでもするのかもしれないが、俺にはできない。

 いや。できないというより、思い付かないんだ。


 これまでの十七年間。彼女はもちろん女の子とデートだってしたこともない。


 ソッチの大人の階段には全く未着手なのだ。残念なことに。


「何かないの?」


 夏織さんの大人びた微笑みがじっと俺に向けられている。


 なんだ?

 大人の階段とか考えていたせいか、夏織さんの顔がさっきよりも色っぽく見える……。


 やばい。夏織さんの顔を見られない。

 顔から火が出そうなくらい熱い。


「えっと……」

「ウンウン」


 夏織さんが頷くと、髪が揺れるためかいい香りがする。

 なんてことだ。目で見ないようにしていても、鼻がやられてしまう……。


 この状況はまずい。何かお願いを言うんだ、何か!


「その……。”コーちゃん”って呼ばれるのが恥ずかしいから、違う呼び方をしてほしいな」


 やっと絞り出したお願いがコレとは……。

 みんなにガッカリされるぞ。


 でも、俺のお願いを聞き出せた夏織さんは「えー、そうなの?」と言いながら元の場所に戻っていった。

 なんとか急場はしのげたな。


「どうしてもダメ?」

「うん、ちょっと子供っぽいっていうか。高二にもなってちゃん付けで呼ばれるのは流石にむずがゆくって」

「そっか……。コーちゃんも大人になったのねえ」


 夏織さんは少し悲しそうな顔をしてしまった。

 けど、許してくれ。夏織さんもいう通り、俺も大人になったんだ。


「わかった、じゃあ”孝太くん”にするね。これでいい?」

「うん。ありがとう」


 夏織さんは何かを求めるように、人差し指をくいくいとさせている。

 ……なるほど、俺の番か。


「これからよろしく。夏織……ちゃん」

「! うん! よろしくね!」


 夏織さんは今日一番の笑顔を弾けさせた。


 正直、ちゃん付けで呼ぶのは恥ずかしいけど、こんなに喜んでくれるならこれからもそう呼ぼう。

 それに、意図していなかったが、得たものも大きかったしな。


「孝太くん」


 はい、これ。

 美人のお姉さんにくん付けで呼ばれる響き。控えめに言って最高です。



 話がひと段落したところで、夏織さんも自分に注いだグラスに残ったお茶をグイと飲み干すと、「よーし」と言いながらコップを持って流しへ歩いていく。


「じゃあ、ご飯にしよっか」

 

 そうか、もうそんな時間か。

 時間は夜の八時になっていた。


 夏織さんが冷蔵庫の中を見ながら話しかけてくる。


「時間もないし、簡単なものでいい?」


「……俺も食べていいの?」


「なにそれ! 当たり前じゃん!」


 俺の動揺から来た真面目な質問も、ジョークだと思われて笑い飛ばされた。



 ふう。次は夏織さんの手料理だと……。


 その時、今日は心臓が休まるときはないのだろうと悟った。

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