その②
退勤して地下鉄に乗り、ごつごつと硬い背中と革の鞄に挟まれたまま一時間ほど揺られ。最寄りの駅に着いた頃には、先日と似た派手な雨が降っていた。
今朝方聞き流していた天気予報で、「
財布の中にちょうど小銭もなく、僕はコンビニで傘を買うことを断念し、バスを降りてからは濡れて帰ることにした。
十階建ての
広々としたキッチンとリビング、リフォームされたばかりのバスルームとトイレ、
濡れそぼった手で鍵穴にディンプルキーをねじ込み、扉を開ける。
湿気を含んだ玄関の暗がりには、くっきり浮かぶ黄色いビー玉みたいな光が二つ。
靴底から足を浮かせ中に入ると、待ち構えていたそいつはクシュッと鼻を鳴らし、僕の足元に纏わりついてきた。
「ただいま、ライス」
パチン、と明かりをつけると、僕の目の前に見慣れた毛むくじゃらが現れる。
ライス──僕の愛犬。
一人暮らしには広すぎるこの部屋で共に暮らす、たったひとりの家族。
中型というには育ちのよすぎるサイズ感、甘ったれでやんちゃな五歳のオス。
「犬種は?」とよく聞かれるけれど、残念ながら彼は血統書つきのお高いワンちゃんではない、ミックス犬だ(雑種と呼んでいたら美鶴に、「ミックスって呼んであげてください!」と怒られた)。体毛の
僕が子供の頃に拾ってきた初代愛犬が産んだ子で、そいつが子犬の頃からなぜか無類のパン好きだったため、そこからパンと命名し、対を成すように息子はライスと名づけた。ちょっとお調子者だけど、気のいい奴だ。
僕の帰宅を喜ぶライスに目線を合わせると、豪快な体当たりと共に頰を
疲労を纏っていた体の内側に新鮮な空気が入ってくるような感覚。
自然と笑みが広がり、もふっと柔らかい頭を撫で回す。
ライスを少しのあいだ構ってやり、それから濡れた服を脱いで洗濯機へ放り込み、そのままシャワーを浴びた。
汗と雨水と疲れを洗い流し、さっぱりした後、円状のテーブルに買い置きしていたコールスローサラダと、スーパーの食べ慣れたお
一人っきりの食卓。口に入れるたびに、
向かいの席がもう随分空っぽなままが続いているが、やはりまだ慣れない。
ふと顔を上げると、ダイニングと玄関のあいだで、ライスがフサフサの尻尾を一定のリズムでフローリングの床に叩きつけて、もう今日は開くことはない扉をじっと見つめていた。
雨の日は散歩に行けないことを彼は知っている。
それなのにこちらに背を向け、ぱったん──ぱったん──と、尻尾は緩やかに跳ね続ける。
その
ああ、またか。と僕は思い、ライスを口笛で呼ぶ。
「今日も来ないんだよ」
彼はすぐに振り返って、耳を少しだけ後ろに動かし、『なんで?』といった顔をした。
犬は賢い。僕たちの言葉の細部までを理解できなくても、こちらが発信した気持ちはちゃんと読み取ってくれている。
「美鶴はね、今すごく大変なんだ」
「……ぐう」と、ライスがくぐもった
『なにそれ、どういうこと』と、訴えているように思えた。
ただ、彼女は今日も来ないということだけは僕の表情から理解したのか、ライスはほどなくしてとぼとぼとダイニングに戻り、テーブル下に潜って僕の足の上に顔を下ろした。
フゥ──と、鼻から吐いた息が落胆の声に聞こえる。
僕も同じ気持ちだと腕を伸ばしてライスの頭を撫でたら、生温かく柔らかな舌が指を滑った。
あれから二週間──。
あの日を境に、僕らはまだ一度も会えていない。
記憶障害で失われた記憶は三年。
三時間でもなく、三日でも三週間でもない、三年だ。
しかもただの三年ではない。僕らを恋人として繫いでおくのにもっとも大切な〝過去〟だった。
三年の記憶が根こそぎ頭から抜けてしまい、あの日から美鶴は、僕を恋人として認識できなくなってしまった。
患者さんの一番の味方でありたいと言いながら、僕の心中を察してくれた羽毛先生は、彼女に自分が何者であるかを明かして、寄り添ってもいいと言ってくれたが。
彼女の罪悪感に縛られた泣き顔を、いずれ見ることになるんじゃないかと思うと、僕はあの場でありのままを打ち明ける気にはなれなかった。
ただ正しいことをしようとした、それだけなのだ。記憶を失った自分を責める必要なんて何一つない。
だから僕は恋人ではなく、今の彼女が映すままの他人として接して、見守っていくことを選んだ。
失った
帰り際、羽毛先生はまた少し僕に話を聞かせた。僕がこれからどう動いて、彼女と向き合っていくべきか。先生の提案はこうだった。
「深く印象に残った出来事っていうのは、再び体験することで思い出されることがあるんだよ」
綺麗な景色、行ったことのある場所、言ってもらった言葉。形は様々であれ、記憶は
僕に
「美鶴さんと、亀井戸君かあ。お似合いな二人だよね」
そして最後に、こんな緊張感のないことを言って送り出す。
「鶴と亀って縁起のいい組み合わせでしょう。だから君たちにも、どうか幸運が訪れますように。強く祈っているよ」
携帯を握り、薄い
足元でライスが静かな寝息を立てている。美鶴が泊まりに来た時は必ず彼女の布団に潜り込んで僕らの中心に陣取るのに、最近はそんな小憎らしいワンシーンも見られない。
「どうせそのうち引っ越してくるんですからいいでしょう」って、彼女がいつの間にかベランダで展開させていた数十種類のサボテンの鉢やカランコエ、アエオニウム、コチレドンといった僕にはどれがどれだかさっぱり見分けもつかない多肉植物の寄せ植えたちも、彼女が世話をしなくなって心なしか寂しげに見える。
うたた寝していた美鶴の寝顔をこっそり撮った二人掛けのソファ。
角がない方が気持ち的にも丸くなれる気がすると、彼女の変な独断で決めたダイニングの丸テーブル。彼女の好きな空色の遮光カーテン。
これが
キッチンの戸棚にいろんなメーカーの様々な掃除用洗剤が入っているのは、『新発売』って文字を見ると試してみたくなる美鶴が消費する前についつい買い足してしまうから。
買い置きは一つでいいのに、などと思っていると冷蔵庫に僕の好きなエナジードリンクが入っていたりして、まあいいやってなっちゃうのがお決まりだった。
部屋中のあちこちに彼女と過ごした日々が込められていて、視界に映すと思い出が勝手に再生されていく。
今日も彼女はちゃんと、ご飯を食べているだろうか。
頭の
記憶のことで深く悩んでいなければいいけど。
……ああ。
…………会いたいなあ…………。
今は待たなければ。
僕が彼女と再び出逢い直すための、『最初の時』を待つのだ。
そうして、噴き出しそうになる心細さを胸の奥底に沈め、僕は眠りについた。
翌朝、アラームより先に携帯が鳴った。
羽毛先生から。
美鶴が退院して、
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