2話 

その①


「どうしたお前、ここ最近ミスばっかりじゃないか。なんかあったの?」

 前半戦終了のチャイムが鳴り渡り、五つ先輩のさるわたりさんがオフィスチェアに深く体重を預けたまま床を蹴り、こちらのデスクに飛んでくる。

「さっきの障害もそんなに重くなかったろ。なんであんなにもたついたんだよ? 取引先への確認もタイムオーバーしてたし、おまけにさめしまリーダーのげきりんに触れちゃうし、途中から見てるこっちがちょっとつらくなったわ」

 直属の上司である鮫島リーダーがトイレに立ったのを確認し、猿渡さんはドアの気配を気にしつつ僕の脇腹にエナジードリンクの缶をねじ込んだ。

 僕たちの業務はネットワークを監視する、『システムエンジニア』と呼ばれるもので、ネットで発生する障害の対処、原因の調査、結果を取引先に報告するというのが主な仕事の流れである。

 三、四人構成のチームで対応し、発生する障害から復旧までつないでいくのだが、どこの職場でも同じようにチーム内の一人がズッコケると、当然周りも被害を受ける。一人の動きが鈍いと調査に支障が出て、なかなか原因がつかめず、挙句、取引先への対応にも遅れが生じる。そのうえ待たされてイライラしている取引先へうまく説明ができないとなるともう最悪以外のなにものでもない。

 もちろん、人間だから間違いくらいはある。とはいえ、四人構成のチームで週五日の勤務のうち四回も、同じ人間が特にたいしたことのない案件でミスを連発すれば、チームリーダーに雷を落とされても仕方ないと言える。

 お察しのとおり、それは今の僕のことなのだけれど。

「……すみません、足引っ張って」

「いいよ、別に。調子悪い時ぐらい誰でもあるだろ。とりあえず食堂行こうぜ、な、今日は俺がおごってやっから、大盛りでもなんでも好きなもん頼め頼め」

「ありがとうございます、猿渡さん」

 この仕事に就いて早数年、だいぶ板についてきたはずなのに、正直ここ最近の自分の仕事の出来なさ加減は控えめに言ってもひどすぎる。さっきの障害だって、落ち着いて臨めば新人でも難なくクリアできるものだったろう。後輩も目の前にいるというのに、まったくない。

「やあ、気にしないでくださいかめさん。俺だってちょっと前まで毎日のように足引っ張ってましたし。別に大丈夫っすよ」

 一年前にチームに加わったうし君が気にしていないといったふうに正面のパソコンからひょっこり顔を出せば、「お前が足引っ張ってんのはいつものこと」と、猿渡さんはしんらつに切り返す。

「ですよねえ」と、苦笑する牛尾君は、ステンレス製のランチボックスを抱えている。中に詰まっているのはいろどり豊かな奥さん手製のお弁当だろう。

 それを見た猿渡さんは財布で肩をたたきながら、あからさまな表情を牛尾君に向ける。

「愛妻弁当とか俺もいつか食ってみてえよ」

「あはは、いいでしょう。めっちゃいっすよ、愛情たっぷりで。今日は唐揚げ弁当です」

「かあー腹たつな~、その唐揚げ一個よこせよ」

「うわっ、やですよ! あっち行ってください!」

 また猿渡さんがオフィスチェアにまたがって牛尾君のところまで飛んでいき、学生のようなノリで彼をからかう。

「二十代前半で結婚して二児のパパとかどんだけ生き急いでんだよもう。いいんだよ俺ぐらいおっさんになるまでのんびりしてても!」

「モテないからってしっぶつけないでくださいよ、嫉妬対象ならもう一人いるじゃないですか!」

 牛尾君がランチボックスを死守しつつ、僕の方に視線誘導させようとするが猿渡さんはちょっかいの矛先を変えない。

「カメはいいんだよ、真面目だし清純なお付き合いしてるし。嫉妬っていうより応援したくなる。お前はなんか、雰囲気チャラチャラしてるし、なんとなくムカつくから」

「なんですかその理由──!?」

「日頃の行いだよ、日頃の行い!」

「うわぁもう、そんなこと言って! どうせそのうち亀井戸さんもすぐに結婚しちゃいますよ! うわもしないけんもしない、安定した交際三年、どうせいも間近。もう人生ゲームで言うところの結婚マス目前ですよ!」

「ですよね?」と、牛尾君に振られて、僕は手にしていたエナジードリンクを床に落としてしまう。

 そこから沈黙が生まれ、なんとか笑顔を返したが、二人はぎこちない僕の反応だけで察したらしく、顔を見合わせる。

「あ……まさか地雷踏みました?」

「え、お前、元気なかった理由って……」

 どうせ否定しても聞かれそうなので、僕は諦めて首を縦に振る。

「喧嘩ですか?」

「喧嘩だけでこんなポンコツ具合になるかよ。もしや……浮気されたか?」

「ええ~、聞く限りじゃ、あの彼女さんは浮気なんか絶対しないタイプですよ」

 一緒になって首を伸ばし、二人は僕の両サイドを固める。

「逆か? お前の方がやらかしちまったとか」

「まっさか、亀井戸さんに限ってそんなこと」

「ずばり、ストレートにフラれた?」

 近からず、遠からずな回答が目の前を飛び交う。

「あの……、すごく、変なことを聞いてもいいですか」

 口にすることをギリギリまでちゆうちよしたが、この感情を一人で抱えておくのもそろそろ限界だったため、それとなく吐露する。

「例えば……なんですけど」

 うんうんと首を振り先を促す二人。

「もし、もしも。自分の奥さんや、彼女が……ある日突然、記憶喪失になって、自分と出会ってからこれまでのことを全部忘れちゃったとしたら、どうしますか」

 それを聞いた彼らはサッと素早く視線を合わせ、目を細めて双方の眉をちぐはぐにした。

 そりゃあ、いきなりこんな突拍子もない話をされたら、そういう表情になるのも無理はない。

「記憶喪失……って」

「……えーと。ごめん、……どういうこと?」

 この反応も当然だ。おかしくなんかない。僕だって。

 僕だってあの時は、こうだった──。


「記憶喪失……って、そんな」

 聞き覚えはあっても、どうにも受け入れがたいその言葉。

 再度確認するために先生を見たが、残念なことに先生は真剣な面持ちで次の言葉をつむぐ準備をしていた。

 記憶がなくなったなんて、まず現実的ではない。とはいえ、あのつるの反応。まさに面識のない相手に突然抱きつかれた時のものだったといえる。

 僕たちは今日まで、三年という時間を共に過ごし、信頼を積み重ねてきた。

 間違っても出会い頭に互いを認識できないなんてことはあり得ないわけで、家族と病院の先生が見ている前で彼氏に抱きつかれて恥ずかしいからとはいえ、あんな手の込んだ芝居を美鶴がするとは到底思えない。

 そう考えでもしなければ今の状況、つじつまが合わない。

「記憶って、そんなに簡単になくなってしまうものなんですか……」

 うろたえる僕に、先生は言葉を選び、落ち着かせるように説明する。

「極めてまれなケースだけど、人の脳っていうのは未知の塊だから、なにが起こってもおかしくはないんだよ。あまりにも強い衝撃を頭部に受けた時、もしくは許容の範囲を超える出来事に直面した時、脳はその出来事、そうなるに至った経緯までも忘却してしまうことがある。忘れてしまう範囲は人によってまちまちで、その瞬間だけだったり、数時間から数日、数週間、はたまた年単位、生まれてからこれまでのこと全部って人もいる。今のは極端な例だけど、そうだなあ……、幼い時に強いストレスや恐怖にさらされたことで、当時の記憶が曖昧になって思い出せなくなるっていうのは、よくある話かな」

 そこまで聞いて、僕はこめかみのあたりに手をやる。

 僕にも昔、一度だけそれと似た経験があったからだ。

「でも、三年って……、一時的なもので、回復しますよね……?」

「うん。そうならすごくいいんだけど。一時的なものになるか、あるいは長期的なものになるのかは、つるさん次第といったところなんだ」

「明日もとに戻るかもしれないし、一週間後に戻る可能性もあるってことですか」

「可能性はあるね」

「じゃあ、一生戻らないって場合も……」

 僕の表情が沈みきる前に、先生はすくい上げるようにつけ加える。

「でもね、記憶って忘れることはあっても完全に消えてしまうものじゃないんだよ。ふとしたきっかけでね、いきなり全部思い出したり、少しずつ思い出せたりっていうこともあるから」

「個人差はあるけれどね」と、安心していいよと言う代わりに先生は告げた。

 しばらくなにも言えないまま、椅子に体重を預けることしかできない僕。

 時計の秒針だけが狭い問診室で主張を続ける。

 美鶴が、過去三年間の記憶を忘れてしまった。

 僕たちがって、交際してきたのも今日からさかのぼってほぼ三年。

 つまり──今の彼女にとって僕は恋人ではなく、まったく知らない、赤の他人となっている。ということなのか。

 頭で理解できても、心が追いついてこない。だってそうだ。

 火曜日の夜は駅前のレストランで食事をした。

 水曜は美鶴が部屋に遊びに来て、ネット対戦のゲームをやって盛り上がった。

 木曜は仕事あがりの時間が偶然重なった彼女と近場のファストフード店でしやべって、別れる名残惜しさからバスの最終便を逃してしまい、毎度のことだが遠慮する彼女を家まで送っていった。

「また明日。カレー、一緒に作って食べよう」そう告げると、「はい、また明日。気をつけて帰ってくださいね」と、美鶴は柔らかい笑みを返して玄関ドアから僕が住宅街の角を曲がりきるまで手を振ってくれた。

 会わない日の方が少ないほどひんぱんに会っているというのに、彼女の笑顔を見るとはやくまた会えないだろうかと自然に思えて、こんなふうに明日への希望がある僕はなんて幸せなやつなんだろうかとあきれつつもうれしくなる。それと同時に、僕は心底彼女を好きなんだなあと心の内でのろけて、また呆れた。

 こんなに満たされた日々が、明日も、その先も、ずっと続くものだと思っていた。それなのに──。金曜日の夜、再び顔を合わせた彼女が、僕を忘れてしまったなんて。

 見てきたとはいえ受け止めきれない。

 辛い、というよりも、事実がまだ体に馴染まなくて、動揺が内側で波を打ち続けている感覚にまいがしそうだ。

 乗らないともう絶対に帰れない電車に乗り遅れたような。

 誰もいない孤島に独り置き去りにされてしまったような。

 どうしようもない気持ちで、途方にくれる。

「…………これからどうすれば」

 僕がやっとのことで吐き出すと、先生もそれを待っていたというふうに静かに切り出す。

「今の剣城さんに一番必要なものは、静養とご飯をしっかり食べること。逆に不要なのは、思い出せない自分を責めること、周囲から自分が置いていかれてると思ってあせること。それが体に一番毒になるからね」

 これは先ほど家族の方にも話したことで、最後に美鶴にも説明するそうだ。

「風邪を引いてる時ってたくさんご飯を食べられないでしょう? 今の剣城さんはそれと同じ。ゆっくり、ゆーっくり現状を受け止めて、少しずつ日常に適応していかなければならない。時間をかけておかゆを食べるみたいにね。無理して思い出そうとすると消化不良が起こっちゃうからね、自分でも気がつかないくらいストレスがどぉ~っとまっちゃって、体調にも影響するから。のんびりちょっとずつ、今の生活に慣れていくことがリハビリになります。見たり聞いたり、触れたりすることで、だんだん思い出せてくると思うんだ。そこで君」

 先生は僕の下がりっぱなしの肩を叩く。

「この話を剣城さんにしたら、自分の置かれている状況にひどく驚くはずだ。そしてしばらくは苦労の絶えない生活を送ることになるだろう。だって自分の頭が記憶している世界と現実が大きくずれているんだから、当たり前だよね。これだけで精神的な負担はかかるわけだけど、周りにいる人たちもみんながみんな彼女に合わせてあげられるわけじゃないだろう。悪いのは事件を起こした犯人なのに、忘れてしまった彼女が悪いと責める人も中にはいるかもしれない」

 記憶障害を起こした人にとって、周りの理解を得られないこと、それが一番堪えるのだと先生は言う。

 考えてみればわかる。知らないことをとがめられたり、否定されたら、誰だって傷つく。本来そうあるべきだろうと思っても、どんな理由があろうと中傷する人は悲しいが必ずどこかにいるのだ。

「だから記憶障害の患者さんには支えが必要なんだよ。今の自分を受け入れるために、心を休めることができる穏やかな支えが。亀井戸君にはそのサポート役に回ってほしい」

 彼女を否定せず、長い目で見守り。記憶をくした自分を自分で責めないように寄り添う。

「患者さんと同じで、支える側も辛いことは多いだろうけど。これは誰にでもできることじゃないから」

「しかし、……僕は彼女に……」

「──誰ですか」と口にした時の、彼女の困惑に満ちた表情が浮かび、膝の上で握っていた拳が震える。

「大丈夫、そこは私が協力するよ。この後、剣城さんと、家族の方とみんなで話をしよう。そこで君のことを説明する」

「いいんですか」

「うん、じゃないと君が不審者のままだからね。剣城さんも最初は混乱するだろうけど、ゆっくり話していけばきっと信じてくれるはずだよ。だから君は、自分の立場が失われることを心配しなくてもいい」

 僕はそこで初めて溜め息をつく。

 極小の安心が張り詰めていた心に芽生えた──が。それは、すぐにしおれて枯れてしまった。

 このままの流れでいけば、先ほどの騒ぎで向けられた僕への誤解は、先生の助力によって間違いなく解消されることだろう。

 美鶴の両親は、娘は変な男につきまとわれていたわけじゃなかったと胸をで下ろし、僕としても彼女や彼女の家族に疑われたままでいるより、その方が断然望ましい。

 しかし。美鶴はどうなるのだろう。

 僕以上に混乱している美鶴に現状を伝えて、僕が彼女の恋人だという事実だけでもわかってもらえたとしたら。その後は……。

 三年付き合った相手だと最初は信じてもらえなくても、だんだんと美鶴が真実を受け入れたとして、その後、彼女は自分が間違ったことをしたと、ひどく落ち込むかもしれない。

 落ち込むだけならまだいいが、忘れてしまったことに対する罪悪感を積み重ねて、そのうち後ろめたさでいっぱいになってしまうんじゃないだろうか。

 自分を必要以上に責めて、なにがなんでもなくした記憶を取り戻そうと、必死になってしまうのではないか。

 美鶴の性格──曲がったことを嫌い、常に自分を厳しく律する、ちょっと面倒くさいくらいの真面目さ。ずっと彼女を見てきたからこそ、この先の未来が、これから彼女が記憶と自責の念に板挟みになって苦しむ姿が容易に想像できた。

 現状を冷静に受け止め、戸惑う彼女を支えてあげるのは恋人の役目──だとしても、不安ばかりを抱えた美鶴とこのまま対面して、いいのだろうか。

「僕は君が忘れてしまっている恋人だよ」と、真実を突きつけることが果たして、正しいことなのだろうか。

 様々なかつとうが頭の中を目まぐるしく駆け巡る。

 ……もしも逆の立場だったら。彼女だったらこんな時、どうするのだろう……。

 美鶴ならば、自分よりもまず困っている人を優先させる。辛くても我慢強く、耐え忍ぶ。

 困難にも勇敢に立ち向かっていくはずだ。

 だったら……、……僕は──。

 時計の針の音と心臓の音が同調して、喉がひりつく。

 これでもかと時間をかけた後、まだ柔らかい決意を強固にするべく、深く息を吸い込んだ。

「……え?」

 僕が言い放った言葉を、先生は聞き間違いだろうとばかりに聞き返す。

 それでも答えは変わらない。同じように僕は伝えるだけだった。

「彼女に会うの、やめておきます。申し訳ないんですけど先生、さっきのこと、適当にごまかしてもらえますか」

「亀井戸君。なに言ってるの、だめだよ、君のことを説明しなくちゃ」

 僕の今の気持ちを理解して気遣ってくれる羽毛先生は、初対面なのに今まで接したどの医師よりも好感が持てた。事務的じゃなく、感情を込めて話してくれているのが感じられる。

 こんな親切な先生が、美鶴の担当医になってくれてつくづくよかったと思う。

「先生……、彼女は自分では気づいていないくらい勇気があって、誰かのためになるならって思う時なんか、今日みたいに、みんなが勇気を持てずにできないことを平気でできてしまう人なんです。……僕はそんな彼女のことが好きで。本当に、本当に呆れるくらい、好きなんです。だからこそ……間違ったことをしたなんて思わせたくない、泣かせたくないんです」

 れたかばんを持ち上げ、彼女に抱く純粋なおもいと、このまま病室に戻って説明した後、恐れた展開になるのではないかという不安を淡々と先生に伝えた。

「つまり君は。剣城さんの恋人であることを隠して、接していくつもりなのかい」

 僕が打ち明けた想いを受け入れ、羽毛先生は否定的な顔こそしなかったものの、腕組みをして今一度、僕に迷いがないか揺さぶりをかける。

「私は医者だから、患者さんの家族よりも、その恋人さんよりも、常に患者さんの味方でなくてはならないんだ。負担が多い道よりも、負担の少ない道を歩かせてあげたいのが本望だ。でも君は本当に、それでいいのかい? 大切な人の記憶がなくなって、それだけでも相当のことなのに、彼女を苦しめたくないからって自分が誰か告げないなんて……。他人の私が聞いてもこくな話じゃないか」

「彼女の苦労が少しでも減るなら、僕は、そうなる方を選びたいんです」

 表情で隠せても、恐らく先生には悟られてしまっていただろう。

 それでも僕は、最後まで彼女への覚悟を保ち続けた。

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