1話

その①




 ねずみになった僕がホームセンターからもっとも近い総合病院に駆け込んだのは、救急車が到着してからだいぶった頃だった。

 髪は暴風で乱され、ネクタイは曲がり、かばんもワイシャツもスラックスも靴もどこもかしこも雨水したたるひどいありさまだったが構っていられず。僕は結露で曇ったフルフレームの眼鏡めがねを乱暴に外し、息を切らして受付のカウンターにへばりつくと、彼女の名前を連呼した。

 彼女の病室を教えてください──お願いします……!!

 そう口にしているはずなのに、声が裏返ってなかなか言葉がつながらない。

 奥で書類を整えていた紺色のカーディガンを羽織った看護師たちは、鬼気迫る形相の僕に不審者が来たといわんばかりの目を向けてきたが、必死の訴えは通じたらしく、察した一人が慌てて外科病棟の病室番号を調べて教えてくれた。

 お礼もまともに言えず、僕はまた鉄砲玉さながらに駆け出して、よく磨かれた床に何度かつまずき、壁にぶつかりながら病室を目指した。

 疲弊と恐怖で心臓が悲鳴を上げ、目の前がチカチカする。

 どうしよう。

 病室をいくつも追い越して、何度も頭の中で繰り返す。

 もし。彼女がもう。

 もしものことになってしまっていたら──。

 見てきた惨状がフラッシュバックする。

 あふれんばかりの彼女の笑顔が浮かんで、目頭が熱を帯び、鼻の奥を鋭い痛みが駆け抜けた。


つる──!!」

 蹴破るぐらいの勢いで病室の扉を開け放った。

 静まる病室。視線をカーテンで囲われた白いベッドへ走らす。

「っ……」

 言葉が出なかった。

 彼女は──。

 薄水色の患者衣を着て、頭部を包帯でぐるぐる巻きにした状態で、ベッドに深く身を預けていた。

 意識もある。飛び込んできた僕に驚いたのか目を丸くして、こちらを見ていた。

「美鶴……」

 いきている……、ああ、……生きている。

 緊張の糸がぷつんと切れて、目元で構えていた熱がどっと込み上げてくる。

 コンクリートに浮かんだ大量の赤色を見た時、正直、もうだめなんじゃないかと思った。

 けれど、彼女が目を開いて、そこにいてくれたことに僕はこれ以上なく救われた。なにもかもに感謝したくなるほどに、救われたのだ。

「美鶴…………、よかった……」

 すでに体力の限界を迎えていた僕は、その場に崩れる前に彼女の正面に膝をつき、呼吸を整えることも忘れてすがりついた。

「お店の人たちが言ってたよ……万引き犯を、捕まえようとしたって」

 これだけで、なにがあったかおおかた予想がつく。

 美鶴は真面目で、人一倍正義感が強いところがある。

 それ故、不正というものに潔癖であり、理不尽にルールを乱すやからがどうしても許せない性分だ。

 もしかしたら応援を呼ぼうとしたのかもしれないが、一人で向かっていかなければどうにもならないという状況だったのだろう。無理をして返り討ちにあってしまったというのが負傷した彼女の姿から読み取れる。

 行いとしては正しいものだったかもしれないが、結果としては危なっかしいことこのうえない。

 彼女が冷静だったなら、こうはなっていなかっただろう。冷静だったなら。

 おそらくあせっていたのだ。どうしようもなく。そういう時ほど彼女は無茶な方法を選び、そして派手に失敗する。頑張ろうとしてそれ以上にから回ってしまう。そんな時がある。何度も見てきたからわかるのだ。

「君は正義感が強くて、たまにそそっかしいから。いつかこういう危険なことに巻き込まれるかもしれないって心配だったけど……まさかこんなことになるなんて」

 彼女の腕や首筋にも痛々しい処置が施されている。それを見て心臓がギュッと押し潰されるような胸の痛みを覚えた。

 白く細い腕を取ると、彼女は驚いたようにまた僕を見る。自分の行動に負い目を感じて、怒られると身構えているのかもしれない。

 黙ったままの彼女を安心させたくて、僕は両腕で目の前のきやしやな体を包み、緩く引き寄せた。

「……死ぬほど心配したよ」

 一呼吸置いたはずなのに、口にした言葉は隠しようがないほどに震えていた。

「死ななくてよかった、生きていてくれてよかった。本当に……本当にっ……」

 艶のある髪が垂らされた背中をぽんぽんと優しくたたく。

「あ──」

 そこで彼女が小さく口を開いた。ぬくもりにかぶせるようにして、僕の背にも同じように彼女の腕が回される──そうなるものだと思っていた。

 だが、どんなに経っても彼女は僕に体を預けず、それどころかいっそう硬くして。

「──あ、……あのっ、やめて、やめてください……離して」

 やっとのことで口にした、そんなニュアンスのかすれた声で僕を拒んだ。

 いきなり抱きしめられて痛かったのかもしれない。慌てて腕から力を抜いたけれど。


「誰、ですか……あなた……」


 彼女の次の一言で、おかしな感覚が全身を貫いた。

 今、なんて──。

 ゆっくりと体を離す。美鶴の顔をよく見る前に、僕は、ああ……と小さく笑った。

「いや、美鶴……こんな時に冗談はやめようよ」

 僕の取り乱しっぷりがあんまり面白かったからなのか。まさかこのタイミングでそんな方向に持っていくとは想定外だったが、冗談が言えるほど元気なのだということには安心した。ちょっとショックだけど。

 ともあれ意識がはっきりしているようでよかったと、僕は肩の力を緩めたが。

「いやあの……冗談じゃなくて、離れてください、今すぐに。痛い……なんですかあなた……っ」

 向き合った彼女の顔に、少しもふざけている様子はなかった。

「病室……というか人、間違えてませんか」

 笑顔どころか表情をこわらせ、目には警戒と困惑の色を宿し、続けてこんなわけのわからないことを口にした。

 まるで、初対面の相手に言い渡すかのように。

 …………変だ。

「美鶴、どうしたの」

「なんで……私の名前、知ってるんですか……」

「な──なに言ってるの」

「さ、触らないでください、なんなんですかっ!」

 身を離す代わりに手を握ると、彼女はそれをも強く拒絶し僕の手ごと振り乱した。

 額にまった汗の粒と、水滴が混ざって落ち、思考回路が停止する。

 彼女に否定されたからじゃない。彼女の全身を埋め尽くしている僕への不信感、得体の知れない者への恐怖のまなしが──もう、冗談とか演技とかそういった枠に留まっていないと気づいたからだ。

 なんだこれは、どうなって、いや……彼女は一体全体どうしてしまったのか。

 言葉が見つからず、何を言えばいいかと迷っていると、その場にずっといたにもかかわらず、極度の興奮で今まで視界に入っていなかった美鶴の家族が僕を引き剝がし、かべぎわに追いやった。

「なんなんだね君は、いきなり入ってきて」

 ひどく濡れたスーツ姿の美鶴のお父さんが険しい顔で僕に問う。

「どなたなの? 娘とはどういう関係で?」

 少々ふくよかなお母さんが眉をハの字にして言い、明るい色の巻き髪に流行のファッションを着こなした美鶴のお姉さんがげんそうな眼差しを僕に向けていた。

「あっ……すみません、あの俺──いや僕は。こういう、者です」

 乱れた前髪を素早く整え、濡れた鞄から名刺を取り出し、できるだけ丁寧に頭を下げる。

「ご挨拶が遅くなってすみません。お初にお目にかかります、かめだいすけと申します。現在、美鶴さんと交際をさせて頂いている者です」

「……ち──違います! 交際なんて、……なにかの間違いです!」

 僕が放った言葉に彼女は、心臓をえぐりとるような否定を唱えた。

「…………娘はこう言っていますが」

「そ、そんなはずは! 確かに僕は、娘さんと交際を──!」

「誰かと交際しているだなんて、今まで娘は一言も話していませんでしたよ」

「それは、その……」

 喉奥で言葉が詰まる。

 交際して三年。美鶴はこの時まで、周囲の人間に僕の存在、恋人がいるという事実を、一部を除きかたくなに公言してこなかった。自分の家族にさえ。

 家族との仲、特にお父さんとの関係に常日頃から不満と悩みを抱いていた彼女は、僕との交際を否定されてしまうんじゃないかと恐れ、いつ家族に紹介すべきか随分と迷っていた。

 しかし僕がもちかけたどうせいの話でいよいよ覚悟を決め、近々僕を実家に招き、家族に会わせたいと言っていたのだ。

 それを今ここで打ち明けるべきか。いや、真っ先にはっきりさせるべきはそこではない気がする。

「違うんです、僕は怪しい者ではなくて、美鶴さんの──」

「もしかして、ストーカー……」

 ゾッとする言葉を突きつけたのは目元をきつく細めたお姉さんだった。

 言われて、ますます僕の額に汗がにじむ。

「ストーカー?」

「ほら、なんていうか、自分は付き合ってるつもりでいるっていう。最近そういうのすっごく多いらしいよ。美鶴、あんた本当にこの男のこと知らないの?」

 注目を浴びた彼女は、とんを引き上げ何度もこくこくうなずく。

「本当に? 会ったことは?」

「ない……、一度も……まったく知らない人」

 うそだ……。待ってくれ。そんなはずは──。

「そうなのかね、君。正直に言いなさい」

「あ、あの」

「うちの娘にストーカーしてたの?」

「違います……!」

「妹が知らないって言ってるじゃん。ストーカーじゃなかったらなんだっていうの!?」

 高いヒールを床に叩きつけて威嚇するお姉さんに名刺を突っ返されたかと思えば、胸ぐらをつかまれ、僕はわずかに残った冷静さを手放しそうになる。

 絶えず向けられる四方からの軽蔑の眼差しを受け止めきれず、苦し紛れに美鶴の方を向いたが、彼女は断固としてこちらに視線を合わせようとしない。

「落ち着いてください、違うんです、僕は!」

 よどんだ空気を真っ二つにするような、大きな拍手が割り込んできたのはその時だった。

「はいはい、そこまでにしてください」

 全員が一斉に視線を向けた先にいたのは、今まで一言も発することなく白い壁際でその存在感を薄めていた白衣の──男性医師。

「お取り込み中に申し訳ないですがね。ここ病院です、病室です、患者さんの前です。それ以上は外でよろしいですか? ん?」

 指揮者を前にした奏者のごとく静粛になる一同。笑みを浮かべた医師はゆっくり美鶴の方へ近づくと、ベッド横の丸椅子によいしょと座り、彼女に告げた。

つるさん。目が覚めたばかりでしんどいだろうけど、ちょっとさっきの質問の続きに答えてもらえる?」

「……はあ」と、困惑が解消されぬまま、美鶴は応じる。

「じゃあ続きからね、剣城さん。ペットショップで働いてるんだってね」

「ええ」

「それで今のお仕事は、お勤め何年目?」

「……まだ、一年も経ってないです」

 遠慮がちに、それでも彼女ははっきりとそう言った。

「……え、美鶴」

「なにを言ってるの美鶴」

 お母さんとお姉さんも僕と同じ反応を示し、お父さんも二人と同じ顔をして彼女を凝視する。

「剣城さん、おとしは? おいくつ?」

「二十一です」

「今は、何年?」

 今度は戸惑うことなくすんなり美鶴が答えると、またもどよめきが広がり、医師も口を閉ざした。病室全体がひやりと静まり返る。

「はい、いいでしょう。ちょっとご家族の方、外でお話しさせて頂いてもよろしいですか? あ、あと君もね。時間が大丈夫なら個別で話を。剣城さんは最後にゆっくり話すから。待っててちょうだいね」

 にこやかに促され、美鶴の家族は最後まで僕を気にしながらも問診室に通されていった。

 僕も、煮え切らない気持ちを抱えたまま、言われたとおりに病室の外に出て、消灯された廊下で待つことにした。

 退室する間際、こうこうと明るい病室に不安な面持ちで取り残された美鶴に振り返っても、結局彼女は一度たりともこちらに視線を合わせることはなかった。


「待たせてごめんね。ええと……かめ君、だっけ?」

 それから一時間、また一時間と経ち、雷鳴と豪雨がすっかり通り過ぎた頃。

 彼女の家族が複雑そうな表情を浮かべながら病室に戻る姿を確認した後、僕は先生に手招きで呼ばれた。

 薬の匂いがみついた問診室の椅子に座り、先生と向かい合うと、僕は眼鏡をかけ直し、再び鞄から名刺を取り出して名乗った。

「ああ、そう。亀井戸大介君ね。随分濡れてるけど大丈夫? 風邪には気をつけてね」

 光沢を放つ禿とくとうが印象的な、五十代あたりと思える先生は、サングラスをかければヤクザと間違えそうないかつい顔立ちをしているが、外見に似合わず物腰は柔らかで、待っているあいだ、僕にタオルを渡してくれる優しい先生だった。

 にこにこと名刺を受け取られ、これでもまだ足りないだろうと、僕は尋ねられる前に定期入れに挟んでいた彼女とのツーショット写真、携帯の画像、美鶴と親しい間柄である証拠をあるだけ提示し、落ち着いた態度で構えた。

「ありがとう。病室に入ってきた時からそうだとは思っていたけど、ちゃんと確認ができてよかったよ。私は剣城さんが元気になるまでサポートさせてもらうっていいます。あ、ハゲじゃなくてハケね、頭はこんなだけど、濁点はナシの方で。あはは。でも患者さんからの愛称は『ハゲ先生』だから、呼び方はどっちでもいいよ、とりあえずよろしくね」

 どうやら持ちネタなのだろう、先生は快活に笑って、やや強引に僕と握手をする。

 張り詰めた雰囲気を和ませるためなのだろうが、僕はどうしても表情を緩めることができなかった。その心情を理解した先生はゆっくりと笑うのをやめ、顔つきを真剣なものに変えた。

「そうだね。私の頭のことより、まずは剣城さんのことだよね」

 頷きだけで応える。

「君も聞いたと思うけど、彼女は事件当時、逃走しようとした窃盗犯に投げ倒されて頭を強く打ったそうだ。もう少し打ち所が悪ければ危なかったし、出血も多かったから発見と搬送が速やかで本当によかった。幸い骨に異常もなさそうだし、検査も兼ねてしばらくは入院するけど、命に別状はない。幸運に幸運が重なった、とても喜ばしいことだね。……体の方は」

 ただ、と先生は続ける。

「残念ながら、ここに少し問題がある」

 頭部を人差し指でトントンと叩いて、先生は「少しショッキングな話になるけど」と、前置きを挟んだが、僕は恐れを抱きながらも頷いた。

「亀井戸君。ぎやつこうせいけんぼう──って言葉は知ってる?」

 聞きみのない言葉に眉間を寄せると、先生はこう言い改めた。

「世間一般では、記憶障害、記憶喪失とも言われている症状のことだよ」

「記憶喪失……って」

 単語を復唱し、ハッとした僕に、先生は単刀直入に今起きている現実を突きつけた。


「剣城さんは今。ここ三年ほどの記憶を忘却している状態なんだよ──」


 その日。

 僕は彼女と永遠の別れをせずに済んだ。

 しかし。それと引き換えということなのか。

 僕と彼女を繫ぐ思い出の全てが、彼女の中から消えてしまった──。

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