【書籍版】僕は君に、10年分の『 』を伝えたい。
天野アタル/ビーズログ文庫
プロローグ
どうか。どうかお願いします。
頼むから、今日を人生最悪の日にしないでください──。
これまで信じたことのない神様に、僕は必死に
今しがた降り出したゲリラ豪雨がレンズ越しの視界を奪い、赤い光を散らしたサイレンの音は、僕を待つことなく無情にも遠ざかっていく。
目の前にはバス停に列を成す傘の群れ。
冷静に考えればバスに乗った方が確実にはやい。だというのに頭の先から足の先まで混乱に支配されていた僕には、立ち止まって悠長にバスを待つという手段は選べなかった。
はやく、一秒でもはやく。
脳が絶えず警告するのに、革靴は予想以上に走りづらく、スラックスは曲げようとする関節の邪魔をする。
普段のデスクワークのせいで体力はすっかり落ちていて、こんな時だというのに思うように体が動いてくれないのが、今は理不尽な運命の次に憎い。
無駄に息を切らしているうちに、見失うまいと追いかけていた赤い光が、土砂降りの
ああ、
ああ、ああ。
だめだ、行かないでくれ。
ずぶ
交際して三年になる僕の彼女──
対する僕は、都内で働くエンジニアで、趣味が犬の散歩と、食べ歩きの二十六歳。
交際が安定してくると、世間一般では結婚を意識するそうだが、僕も例に漏れず、初期から好調な交際を続けてきた彼女に、いつプロポーズをするか最近になって考えはじめた。
職場の先輩方に
思い切って彼女に同棲を持ちかけたのが今年の春。どうやら彼女の方も、そろそろだろうと考えてくれていたようで、すぐに
それから二人で不動産会社をいくつも巡り、そのすえに見つけたのが、美鶴の職場から徒歩二十分程度で築年数も新しい理想的なマンションだった。
広々として日当たりのよい、ペット可の2LDKの角部屋で、ベランダからは僕らがいつも散歩コースにしている数キロ先の
緩やかに流れる川が日の光を受けて輝いているのが美しく、見ていると穏やかな気持ちになれる、そこからの眺めを僕たちはいたく気に入り、迷うことなく決定となった。
周囲からは引っ越しはなにかと意見が食い違って大変だ、などと忠告されたがそんなことはなく。むしろこんなに簡単にいくものなのかと思うくらい、同棲への準備は楽しく順調に進んだ。
そして先月の上旬、僕は愛犬と共に住み慣れた実家を出た。訳あって遅れて越してくる彼女を待つ形で先に入居を済ませ、今は美鶴と二人で暮らせる日をなによりの楽しみにして生活している。
七月上旬の金曜日の夜。
久々に定時であがれた僕は、同じく明日が休日である美鶴を自宅に招き、夕食を共にする約束をしていた。
美鶴の大好物であるカレーの材料を駅前のスーパーで
頭上でなにかが光った気がした。
ふと空を仰ぎ見ると、濃紺のはずのそこには重たげな暗雲が立ち込めていた。時折薄く光っては不快な音が追いかけ、数拍置いてまた光る。
今にも降り出しそうな気配。そういえば天気予報では夜に雷雨の恐れありと言っていたっけ。
これはいけない。僕は蛍の光がゆったり流れる店内へ入り、店頭に出されていたビニール傘二本を素早く
閉店間際で店内は閑散としており、残る客も僕を含めて数人程度。
だというのに、なんだろう……、店のそこかしこにどことない騒がしさというか、
得体の知れない違和感に疑問符を浮かべていると、どこからともなくやってきた不穏なサイレンの音が視線を誘導する。白地に赤ラインの大きな車体が店の前を横切り、駐車場へと曲がっていくのを見た。
「なにかあったんですか」
釣り銭を受け取り、アルバイトだろう若い店員さんに尋ねたが、彼も把握しきれていないといった様子で、素っ気なく「さあ」とだけ返される。
まもなくして、ぽつぽつと、そして一気に大粒の雨が渇いた地面を
ああ、降ってきた。こりゃひどい……。もしかすると美鶴、出入り口で立ち往生しているかもしれない。そう思った矢先、今度は数人の男性従業員が血相を変えて土砂降りの外へ傘もささずに次々と飛び出していく姿が視界に映り込んだ。
「今、救急車に乗せられてる──」
「頭から血が出て、意識がないって──」
「犯人は警備が捕まえたらしいけど、女の子が──」
一体なにがあったのか。部外者とはいえ気になって、一人、また一人と
「え……、誰?」
「ペットショップの若い女の子だって──」
「ええっ、うそでしょ」
背後から聞こえてきた会話に固まる。
ペットショップ。若い女の子。救急車。頭から…………血。
意識不明──。
数秒前に過ぎ去っていった単語と、今聞いた単語が頭の中で勝手に結びついていく。
そこから吐き気を催すような悪い予感がじわじわと広がっていき、買ったばかりの傘も受け取らず、誘われるように僕も店の外へと飛び出した。
携帯電話を取り出して、耳に押しつける。
長い長い無機質なコール音は途切れず、それと連動して不安が膨張していく。そんな中、駐車場の奥に
その先には傘をさした人や、蛍光色のカッパを着た人たちが分厚い
コール音は耳元でまだ続いている。
…………まさか。
ふ……と
いや、そんなはずはない。
絶対違う──。
違う人だ──。
焦りと不安が無茶苦茶に
真っ赤なパイロン、黒と黄色のポールで隔てられた〝事件現場〟を──。
アスファルトにべっとりと付着したペンキみたいな赤色。
大破して水溜まりに沈んだ見覚えのある空色の携帯電話。
喉の奥が引きつる。
重たいスーパーの袋が指から滑り落ち、今なお広がり続ける水溜まりの中に買ったばかりの食材たちが音を立てて散っていく。
「うわ、すごい……、なにこれ、やばくない」
「女の子が、万引き犯捕まえようとして」
「逃げようとした犯人に投げ飛ばされたって」
「頭を強く打ったみたいで──」
落ちていた名札には、見慣れた丸い文字で、『剣城』と書かれていた──。
飛び交う野次馬の声も、砂嵐のような雨音も、その瞬間なにもかもが無に染まる。
これ以上の恐怖を、僕は今日まで記憶した覚えがなかった。
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