クオリア
斑鳩彩/:p
クオリア
桜の樹を見ていた。
春の盛りに、柔らかな日光が窓から差し込んで、少し重たい瞼を叩いてくる時分。教室の外に目を向けると、底抜けに青い空と、若葉の茂る平原が広がっている。その中に、ポツンと、一本だけ、その桜の樹は立っていた。
その圧倒的な存在感といったら、これほど遠くから、窓越しにその姿を眺めているだけの僕でさえ、あの気分が高揚するような春の甘い香りを想像してしまったほどだ。危なっかしく揺れる枝先は甚く嫋やかで、時折地平線の向こうから麗らかな春風が吹いては、幾つかの花弁を中空へと舞い上がらせていた。
僕はその桜を〝春〟と名付けた。
別に深い意味があったわけではない。ちょっとした思い付きだ。
でも、きっと僕は春の宝石のようなその桜と、この季節になるといつも思い出してしまうあの少女を重ねていたのだろう。
今すぐにでもあの桜の下へ飛んでいけたら……、なんて妄想をした過去は数知れない。しかし結局それも高望みに過ぎず、僕の背中に羽が無いことも、天上に置き忘れた光輪のことも、果たしてそれが因縁なのか、はたまた今生の罪なのか問うのだが、やはり自家撞着の三連符は僕を絆して離さない。この溜息は何度目の懐古だろうと、教師が黒板に赤いチョークを突き立てるカツカツと甲高い音を聞きながら、指を折った。
教室には相変わらず退屈が流れている。それはまるで精巧な宗教画のようで、無垢な純白を穢さぬよう、何よりも静謐さ――――あなたは完全なる無音室のベッドで安眠を得られると思うだろうか――――が求められる。当然そこには芸術を求める思想など生まれるはずもなく、よってダヴィンチの筆が立ち入ることは一番の禁忌とされてきた。
僕が窓の外に目を向けてしまったその瞬間から――――灰褐色の筆が線描画に消失点を生み出したその瞬間から――――、氾濫する心象は止まることを知らず、脳髄に響くあまりに喧しい讃美歌に堪え兼ねて、遂に僕は椅子を蹴って立ち上がる。
刹那、教室に響く喧騒は一斉に鳴りを潜め、チョークを持つ教師の指先も、それを書き写すマヌカンの眼球も、ゆるりと流れる風の流れでさえ、静止してしまった。
正直、恐ろしかった。脚は震えていたし、呼吸は乱れていた。なにより、顔面がまるで赤熱したように熱かった。
でも、結局僕の不安は杞憂に終わった。初めから、誰も僕のことなんて見ていなかった。誰一人として、僕を見咎めることも、叱ることも、詰ることもしなかった。
僕はこの教室を出るべくおもむろに歩き出し、最後に未だに霧のような静謐を堅守し続ける教室を一瞥すると、そのまま扉をガラガラと開ける。そして、そのまま教室――――絵の具がこびり付いた油絵のようだった――――から抜け出し、晴れて自由の身となった。
あっけなかったなぁ……、なんて思うと不意に笑いが込み上げてきて、僕は気が狂れたように大声で笑いながら万華鏡の廊下を練り歩く。
もちろん、目的地など無い。
僕の心は決して鮮やかとは言えない青色――――重ね重ね指摘してきたことではあるが、あなたが目を閉じると必ず付き纏ってくる赤い光と同じように、校舎と青色は切っても切れない関係にあると思う。詳細は色盲のメアリー博士が記しているので参考にしてほしい――――と共に、際限ない鏡面の中に閉じ込められているのだから。変わり映えしない廊下を右に左に曲がっては、時折嵌め殺しの窓を覗き、未だ暮れる気配のない太陽を指さして、笑っていた。
丁度五つ目の廊下の角を曲がったところで、僕は小さな人影を見つけた。
彼女だった。
それはかつてキリコが暮れなずむ街の通りに見た景色と同じで、彼女は大きな歯車を転がしながら、今まさに廊下の角を曲がろうとしていた。大きく設えられた窓からは傾きかけた夕陽が差し込んで、中空に棚引く濡烏の長髪を黄金色に染めてゆく。それがあまり眩しくて僕はハッと息を呑んだ。僕の胸を締め付けるのは、決して『懐かしい』の一言で表すことのできない寂寞で、真っ白な足のうらが立てるペタペタという音すらも、苛烈な孤独感を舐めるように抱擁する。
回り続ける歯車は過ぎ去った時間の象徴だ。この情景が過去のものになるにつれ、降り積もる灰は厚みを増してゆく。彼女がその上を駆けると、重く固められていた灰は一斉に舞い上がって、僕の視界を薄っすらと覆い隠してしまった。
斯くして、僕は度重なる焼き増しの末に像を失くしてしまった幻燈の底で膝をつく。
はらりはらりと舞い続ける髪の毛の、一秒前の残像すらも愛おしくて――――、
とうの昔に風となった彼女の、有り得ない残り香を想うほどに懐かしくて――――、
僕は泣いてしまう。
走って――――、走って、決して許されなかった昔日の向こうに――――、実体のない影法師が待ち受ける廊下の向こうに、拳を突き立てる。急速に遠近感を失った校舎の壁が、蒼く冷めた瞳孔に近接する。
全ては錯覚に過ぎないということは、僕自身が一番理解していた。あの恐ろしい影法師ですら、所詮僕の頭の中でしか生きられない木偶なのだ。気に入らないのなら燃やしてしまえばよい。それでも足りないと思うなら、焼け残った灰を掻き集めて冷たい海に沈めてしまえばよい。谿コ縺励※縺励∪縺。
知らずに涙が零れた。零れた涙は指先を伝って外へ飛び出し、僕は相対的に地面を知ることとなった。冷ややかな理性は投げ捨てて、緩やかな白波の中へ――――、956Hzの雨音が描出する形而上の世界へと同化してゆく。
額に一際大きな粒がポタっと落ちて、その凍り付くような冷たさに、僕は思わず身を竦める。
土砂降りの雨は止む気配など微塵もなく、それどころか時が経つほどに酷くなっているようだ。雨は降らないと聞いていたのだが、全く予報は外れたらしい。突然の通り雨は、沿線の小道を粛々と歩く僕をずぶ濡れにしていった。
やがて、全身余すところなくびしょ濡れになった頃、杳か雨の帳の向こうに、ようやく小さな駅舎のコンクリート屋根を見つけた。観光地として有名な砂浜の近くにあるが、人気のない駅だった。活気に溢れた街の中で、いつもこの駅の周りだけはまるで異世界に踏み込んだように不思議と静かだった。
だから、プラットフォームの端に一人の女の子が立っているのを見つけた時には、驚きのあまり足を止めてしまった。
雨でべっとりと張り付いた前髪を掃って、何度目を瞬いても、その姿が消えて無くなることはない。
身に着けている紺色のセーラー服は、恐らく近所の中学校の制服だろう。未だ一条の陽光すら許さない雨の空を見上げる顔は頬がふっくらとしていて、まだまだあどけない印象を残している。しかし、黒目の大きな瞳に映る微かな憂いは決して未熟な子供が浮かべるようなものではなく、ひっそりと湛えられた微笑は今にも消えてしまいそうな彼女の儚い気配を、さらに曖昧なものとしていた。
彼女は右手に大きな黒地の傘を持っているにもかかわらず、何故かそれを開くこともせず、この酷い大雨の中に身を曝していた。いつからそうしていたのかは知りようもないが、おかげで彼女は僕と同じように全身びっしょりとそぼ濡れてしまっていた。特に絶え間なく滴が伝う髪の毛は酷く重たそうに見えたが、彼女は一切そんなものは意識に入らないかのように、ひたすら何もない曇天を仰ぎ続けていた。
しかし、僕があまりにも長い間じっと彼女のことを凝視していたからだろう、遂に彼女は僕の存在に気付いて、ふっとこちらへ目を向ける。僕はその瞬間にはっと我に返り、今更ながらに女性の顔を不躾に眺めていたことを思い出し、カーっと頬が熱くなるのを感じる。なんとも居た堪れない心で、とっさに視線を逸らすと、僕はぎこちない足で歩き出し、何も無かった風に彼女の隣に並んだ。
だから、その後すぐに彼女の方から声を掛けられた時には、びっくりしてまともに返事をすることさえできなかった。
「あの……、すみません。電車、来れないみたいですよ。」
「――――え?」
「なんだか、この雨風のせいで電線がおかしくなっちゃったみたいで、しばらくは来れそうもないらしいです。」
一瞬にして顔が青ざめる。暗い凶刃が突き刺さった衝撃と等しくして、心臓に零れた漂白剤がまた赤色を奪い去ってゆく。
後から思い返してみればなんてこともない話だ。だってその日の電車はその一本だけではなかったのだから。でも、その時の僕には、当たり前の僕を当たり前に見ることすらできないような状態――――熱病に浮かされていた。真夏の夜に死んだ金魚と、振袖姿の少女の夢――――で、ただ乱れてゆく思考と、日和見主義な現実との乖離に息を詰まらせることしかできなかった。
「大丈夫ですか?」
はっと気が付くと、あの少女が突然硬直した僕の顔を、心配そうに覗き込んでいた。
僕は反射的に彼女とは反対方向に顔を逸らしながら、「……はい。大丈夫です。」と辛うじて返した。
いつのまにか辺りには濃霧が立ち込めていて、小さな駅と、灰褐色の浜辺、そして僕と彼女を残して、世界は真っ白に切り取られてしまったようだった。どこまでも伸び続ける線路は、杳渺たる水面と境界を馴染ませながら、霧の向こうへと消えてゆく。
僕はその先の景色を知らない。彼女に訊いても、きっと知らないと答えるだろう。
冷えた顎の先端から、ぽつりと、雨粒が落ちた。
「あの……、いいんですか?」
「えっ?」
彼女の声で、再び僕は現実へと引き戻される。
「何がですか?」
「だって、こんなに雨が降っているのに、雨宿りもせずにずぶ濡れじゃないですか。風邪ひいちゃいますよ。」
僕には、彼女が何を言っているのか分からなかった。だって、僕と彼女は全然知り合いですらないのだ。僕が風邪を引こうが、この熱病に蝕まれようが、それが一体彼女の人生にどんな影響を与えるというのだろう。ちっぽけな僕の存在なんて、誰かにとっては路傍の石と大差ない。
「いいんですよ。むしろこれぐらいが心地いいんです。」
「でも、それっておかしなことじゃないですか。」
「……? 何のことでしょう。」
「気付いていないんですか? ――――あなたの指……、震えてる。」
僕はふっと息を詰まらせて、やおら視線を下げてゆく。すると、言われるまで気が付かなかったが、確かに両手の先が微かに震えていた。指先に力を籠めて震えを抑えようとしたが、指先は思った通りに動いてくれない
この嘘に彩られた――――僕は〝彩られた〟という表現をもってこの世界を表現することにこだわりたい。あの枯れ薔薇の棘に滴る朝露に、僕が恋焦がれて止まないのは事実なのだから――――悪夢から抜け出すために僕が取り得る最善の手段だと心に言い聞かせてきたものが、たった一言で打ち砕かれてしまうのは随分と皮肉なことではあったが、今はそれすらも眼を向けるには億劫過ぎた。
むしろ、僕は彼女のことについてにわかに興味が湧いてきた。
「寒さには慣れてるので。それより、どうして君はその手にある傘を差さないのか、僕にはそっちの方が余程分からないです。」
彼女は僕の言葉を聞いて、先ほど僕がしたのと同じように顔面を蒼白にして顔を逸らす。意趣返しができたような気がして良い気味だったが、きっとこういう底意地の悪い人間性がこんな結末へ導いたのだと思うと、また苦いものが喉元まで登ってきた。
対して、彼女は張り詰めた表情をすぐに緩め、なんと笑みさえも浮かべて言った。
「別に、特別な理由なんてありませんよ。罪な私には、たったこれだけの重みでも耐えられなかった、それだけです。」
今にも消えてしまいそうな、幽い笑顔だった。
「…………。」
凡庸を嘲笑うことに慣れてしまった僕ですら、無垢な微笑みの隅に光る一粒の涙に、言葉を失ってしまった。
僕はこの手のプロパガンダを嫌悪してきた。結局、〝特別な自分〟なんてものは何も利益を生み出さず、数多の忘れ去られた人間たちが溺死した水銀の海に、新たな水死体を作るだけの自虐の理論だと思ってきた。そして、僕は今もその考えを改めるつもりはない。
しかし、彼女のその微笑みは少なからず僕に新たな啓示を与えた。
――――透明な涙を、
――――透明な微笑みを、
――――透明な僕を、
数多の波に揉まれて辿り着いた畢竟の地には、僕が望んだ人々は居ないのかもしれない。僕はただ一人、飢え死にするしかないのかもしれない。それでも、遥かなる景勝は僕に新しい価値を与えてくれるはずだ。
そして僕はまた歩き出せるのだと、そう思っていた。
――――まぁ、そんな単純に事が収まれば、これほどまでに全てが拗れることも無かったんだろうが。
頭の上のずっと高い所をゆっくりと漂う、綿菓子のような真っ白い雲を仰ぎながら、ボーっとそんなことを考えてみたりする。知らん振りで僕を見下ろす空は、相も変わらず呆れるほどに青い。いつも通りの帰り道。赤信号の長い交差点だった。
信号は青く点滅していた。今すぐ走り出せば、きっと赤になる前に通り抜けられるだろう。それなのに、僕の心はまだメランコリアの三面鏡から抜け出せずに、また彼女の面影を探している。
肩に掛けたぺしゃんこの学生鞄が、妙に重い。
囂しいヒグラシの合唱。どこか遠くを走る電車の走行音。僕の鼓動。
信号は、いつのまにか赤に変わっていた。
――――歳を取って、環境を言い訳にすることが増えたように思う。結局それも自己保身なのだろう。変わり続けるこの街の中で、僕の時間だけが止まってしまっているようだったから。
本当に、下らない話だ。あと少し考えてみれば、あと少し顔を上げていれば、愚鈍な僕でも気付いただろう……、例えば横断歩道の白いところだけを踏んでみるとか、そんな小さなことでも良かった。僕はいつも急ぎ過ぎていた。変わり続けることを正義と錯覚していた。
まだ信号は赤のままだったが、今の僕にはそんなことどうでも良かった。横断歩道の黒いところだけを踏んで歩いた。そんなことで安らぎ――――たしかあれは花火大会の帰り道だったように思う。僕はあの日初めて宵の抱擁がいかに慈愛に満ちているかを知った――――が得られるのなら、どれだけよかっただろうか。実際は、いつも通り全く見当違いな方向へ――――、普遍的な天使が手招く方へと進んでいた。
沈黙の塔へと続く階段は、景色が映りこむほど丹念に磨かれた十三個の大理石によって成る。最後の一段を上ると、そこには階段と同じ瑞々しい大理石で作られたすり鉢状のステージが広がっていた。見上げた空は土留色の雨を被ったような暗澹たる色合いで、無数のハルピュイアが巨大な翼を広げながら円を描くように飛んでいる。
遂に足は凍り付いてしまったようで、僕の意思では全く動かせなくなってしまった。しかし――――、それなのに、どうしてだろう。まるで幽霊に憑りつかれたかのように、身体はゆっくりと前に進み始め、中央にぽっかりと空いた深い穴の前まで辿り着く。僕はなけなしの勇気を振り絞って、暗い穴の中を覗いてみた。
しかし、何も見えなかった。
そこに何かがいるのは分かった。闇の中で蠢くものがいる。まるで僕の心臓を貫くような幾千の視線が、この底無しの穴の底から注がれている。姿形は見えなくても、炯々と光る充血した赤い眼がそこにあることは想像に難くない。
鳥身女面の猛禽類たちが、涎を垂らしながら僕が穴の底に落ちるのを今か今かと待ち構えている。僕はゴクリと唾を飲んで、最後の一歩を踏み出した。
自分の掌さえ見えない暗闇に包まれて、永遠にも思える時の中を落ち続けていた。あの金色の少女のように、『ネコがコウモリを食べるのか、コウモリがネコを食べるのか』なんてことを考える余裕はあるはずもなく、僕はひたすらにこの暗闇の果てに住んでいるだろう怪物を恐れて顔を覆っていた。
どれだけ祈りを捧げても死は等しくやってくる。敬虔な天使が翼を失うことだってあるし、卑劣な悪魔でさえも最後の審判で昇天できるのかもしれない。結局全ては終わり方なのだ。少なくとも、彼女は尊い命を全うした。
約十㎥の病室では、天井から絶え間なく降り続ける灰が、祭壇の上に横たわる彼女の顔をすぐに隠してしまうから、僕は何度も掌で払ってやった。いつかは葛が伸びてくるだろう。ベッドのスプリングは錆びつくに違いない。それでも、この身が朽ちるその時までは、ずっと傍に寄り添うつもりでいた。
彼女を疑ったことなんて一度もないし、それは彼女の亡骸を前にしている今だって変わらない。むしろ、まるで楽しい夢を見ているようにしか思えない安らかな死に顔を見ていると、全て彼女の言う通りだったんだなと、感服してしまう。
しかし、それと僕が心に覚える虚無感とは何の関係もない。頭の中では理解していてもそれが実感となって胸に入ってこないのだ。まだ僕は夢を見ているのかもしれない。或いは、初めから全てが夢だったのかもしれない。僕は未だに決心がつかずに、孤独の中を彷徨っている。
そんな中で始まった一連の逍遥は、起こるべくして起こったのかもしれない。
思い返せばあっという間だった。
僕は結局僕のままで、夜空に伸ばした指先は、明るい星々に掠りすらもしてくれない。
「――――ねぇ、少しだけ歩かない?」
彼女の声で、僕は現実に引き戻される。
「……歩くって、何処へ?」
彼女はいたずらっぽく笑い、線路が続く先を指さした。
「もちろん、霧の向こうへ、あの桜が咲くところへ。」
彼女はプラットフォームからひょいと飛び降りると、まだ腹を決められない僕に向かって手を伸ばす。
僕はそれでもなお躊躇って、霧の向こう側に目を遣る。
この場所には僕が望んだ全てがあった。羽を伸ばすには余りに狭すぎたけれど、少なくともここに居れば彼女を忘れることは無い。美しい蝶となる日を夢想する蛹の青虫は、小夜すがら希望の糸を紡ぎながら、暁が訪れるのを待ち侘びるものなのかもしれない。
でも僕はそれが恐ろしい。此処ではない場所へ行くことが恐ろしい。
きっと……、きっと、僕は忘れてしまうだろう。
僕が〝春〟と呼んだ少女が居たこと。彼女のお陰で今の僕があること。日々膨大な情報で刷新されてゆく僕の記憶は、その瞬間を、感動を、いつまでも留めておけるほど器用ではないから、きっといつか忘れてしまう。
僕はそれが堪らなく恐ろしかった。
誰かが大切な記憶は忘れてしまうからこそ美しいと言った。ならば僕が今行っていることは、冒涜以外の何物でもない。彼女が流した涙を色付けて、そこに価値を見出そうとしている。形の無い幸福に実体を与えようとしている。もうここにはいない彼女に、名前を与えようとしている。
「あなたに見せたいものがあるの。だから、私の手を取って。」
それでも、彼女はかつて共に見上げたあの桜の花と同じように微笑んで、僕に手を伸ばした。夢見る千草が何を以ってその花を綻ばすのか僕には全く理解できないが、少なくとも触れ合った指先の温もりだけは確かなものだった。それを知った僕は、遂に彼女の手を取り、線路の上に降りた。
先の見えない道を歩いた。鈍色の砂浜には轍一つなく、絶え間なく寄せ来る小波は僕と彼女を深い海の底へ手招きしているようだった。明晰夢と知っていながらも意思決定を自分以外の誰かに委ねるならば、それは果たして夢を見ているといえるのだろうか。則ち、冥道を彷徨うことは三つ指の千鳥と同じくして、宛先知らずの酩酊だ。
そんな中でも、やはり彼女はしっかりと行く末を見据えており、僕を正しい道へと導いてくれた。掌の砂は全て零れ、気付けば僕は僕の街にいた。霞の向こうに学校が見えた。マヌカンたちは今もあの教室でペンを走らせているのだろうか。
隘路の先には蒼く冴えた草原が広がっている。それがあの桜の待つ場所であることに気付くと同時に、隣の彼女は駆けだした。僕は一歩遅れて彼女に続き、緑の香る草原を走り抜け、桜の下に並んだ。
真下から見上げる桜は、僕が思っていたよりもずっと壮観だった。月光が桜の裏から差し込んで、薄い花弁を今にも宵に溶けてしまいそうな涙色に透かしていた。その様はまるでこの世のものとは思えないほどに麗しくて、僕は思わず、ほうっと息を呑んだ。
しかし――――、それなのに、決定的な何かが足りないような気がする。
不思議なことに、授業をサボってまで見たかった念願の桜は、教室のくすんだ窓越しに見るよりもずっと色褪せて見えた。それが一体どのような心の働きによって起こったのかは分からない。期待が高すぎたために実物を見た時の興奮が薄れてしまうことはよくあるが、それとも趣が違うように思える。たぶん、事実はもっと簡単で、きっと僕にとってこの桜は窓の向こうにあった方が美しいだけなのだろう。
僕は早々に桜から目を逸らすと、桜を見上げる僕の横顔を、ずっと隣で眺めていた彼女と目を合わせる。
「飽きたの?」
「……ああ。もういいんだ。」
すると彼女はそれを予期していたように頷いて、また歩き出した。僕は彼女がどんな顔をしているのかを知るのが恐ろしくて、敢えて少し後ろをついて行った。彼女は何も言わずにずんずんと歩いた。何か声を掛けてみたいような気もしたが、結局、最後の最後まで、何言ってよいか分からずに、口を固く結んでいた。
やがて辿り着いたのは、また新たな駅だった。ただし今度は僕の知らない駅だった。入り口の看板には『縺阪&繧峨℃駅』とだけ書かれていた。中はがらんどうで、改札もなしにプラットフォームまで一続きで繋がっているようだった。
「ねぇ……、皆にとっては何も変わらない明日のことをどう思う?」
彼女はプラットフォームに辿り着くと、唐突にだんまりを決め込んでいた口を開き、問いかけた。
「――――どうでもいいさ。僕だけが覚えていれば。」
「それでも、いつかは忘れてしまう日が来るでしょう?」
「僕が大切に思う人がいたこと。それが確かな事実であるのなら、それでいい。」
彼女は、あなたらしい答えだねと言って笑った。
もう、別れの時は近いようだ。僕たちが今しがた抜けてきた霧の向こうから、甲高い汽笛の音が近づいてくる。残された時間はもう一分もないだろう。それでも僕は、まださよならの一言すら、彼女に手向けてやれず、下を向いていた。
「でもさ、この街が霧に呑まれる前に、もう一度会えたらいいね。」
その声は微かに潤いを帯びている。彼女は、線路の向こう側、何処かずっと遠くの空を仰いでいた。空に浮かぶ月が眩しいのか、彼女は頻りに瞬きをしながら一心に空を見詰めていた。
汽笛が先ほどよりも近くに聞こえる。今を逃せば次はないと思った。
「……会えるよ。絶対。」
彼女はそれにも、僕の方を向こうとはしなかった。変わらず、何もない空の碧を見詰めていた。しかし、形が歪んでしまうほどに固く結ばれた唇はぶるぶると戦慄いて、スンと小さく鼻を啜る音なども聞こえてきた。
可憐な花のように笑う彼女ばかりを見てきたせいか、この時ばかりは、僕も胸の奥が締め付けられるような思いで、たちまち目の奥に熱いものが込み上げてくるのを覚えた。彼女は今にも崩れてしまいそうな泣き笑いを僕に向け、何かを伝えようと、震える唇を開いた。
その瞬間、轟音と共にSLが霧を押し退けてホームに入ってくる。色を失った桜の花弁が、排気ガスが混じった突風と共にホームに飛び込んで、僕の彼女の間に空いた隙間を埋めていった。
彼女は一言だけ何かを言ったようだが、喧しい汽笛と走行音でそれを聞きとることは叶わなかった。その時に何を言ったのか聞き返すこともできただろうが、やめた。ついさっき自分が告げた言葉が誠実さを欠いてしまうように思えたからだ。それになにより、夜汽車が停まる最後の一秒の目配せが、互いの思いをどんな言葉よりも如実に伝えていた。それはどれほど拙い視線の会話だっただろう。しかし、それも故あってのことだ。
彼女はやおら歩き出し、夜汽車に乗り込んだ。他に乗客はいないので、彼女は乗車口に立ったまま僕の方を向いた。歯痒い瞬間だった。まだ話し足りないことは沢山あったが、全てを語り尽くすには余りに時間が無かった。
彼女はやはり切なそうな顔で、弱々しく手を振った。僕は今すぐに彼女の小さな肩を抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、すんでのところで、それはいけないと自らを戒め、小さく頷くに止めた。結局、なし崩しに、「さよなら。」「……あぁ、うん。」なんて短い挨拶を交わして、もう発車の時間になってしまった。
黒光りする鈍重な車体は、まるで肉食獣の唸り声のような音を上げて、ゆっくりと動き出す。窓越しの桜に見た彼女の面影と、教室の内側に座る僕の距離が、第三宇宙速度で開いてゆく。
段々と遠くへ行く彼女が、僕に向かって手を伸ばしたのが見えた。僕もそれに合わせて手を伸ばし、引かれるように二、三歩歩いたが、その間に、もう彼女の姿はずっと遠くへ行ってしまった。
僕は完全に夜汽車が見えなくなったのを確認すると、倒れるように膝をついた。刹那主義が横行するこの街では慟哭を上げることすらも犯罪となる。しかし溢れる涙は止め処なく、コンクリートの地面に海を作って、そこにタールのようにドロドロに溶けた身体が沈む込んでゆく。今となっては悲しいから泣いているのか、泣いているから悲しいのかさえもあやふやだった。
逃げ水を追う日々はもう終わりにしよう。僕はあの日からずっと閉ざしたままだった瞼を、ゆっくりと開いた。するとどうだろう。教室には誰も残っていない。窓の外を見れば、もう夕暮れだった。
教室に誰も残っていなかったのは幸いだった。情けない涙は人に見せたくない。僕は冷たく濡れた制服の袖をポケットに隠し、のそのそと帰宅の準備を始める。
鞄を持ち上げたところでふと視線を感じ、窓の向こうを見遣ると、そこにはあの桜が立っていた。
初夏、僕が『春』と名付けたあの桜は、青々とした葉を茂らせている。
クオリア 斑鳩彩/:p @pied_piper
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