第五話/淀千両松の戦い!


●淀千両松の戦い!


 慶應四年一月五日。

 伏見から淀城へと至る道、千両松。

 宇治川沿いに展開するこの松林の中の細い道で、土方さん率いる新選組と会津藩士たちは薩長軍を迎え撃つことになった。

 薩長と幕府の決戦――鳥羽伏見の戦いがはじまってわずか数日。幕府軍は、最新鋭の銃火器を装備して近代戦術を駆使する薩長軍に大敗し、あっという間に淀千両松へと追い込まれていた。淀が落ちれば、もはや大坂城に落ち延びるしかない。

 だが大坂城には、京から伏見へと移動中に御陵衛士の残党に狙撃されて肩に重傷を負った近藤さんや、労咳が進行して寝込んでいる沖田さんがいる。なんとしてもここで薩長軍を食い止めたい――!

 その思いは、近藤さんに代わって新選組を率いている土方さんも永倉さんたちも同じだ。

 みな、大部隊が展開できないこの狭い千両松の街道で斬り込みをかけて玉砕する覚悟だった。だが、新選組で戦ってきた歴戦の勇者たちはそんな覚悟をおくびにも見せない。誰もが笑顔だ。新選組局長代理という重圧を背負っている土方さん一人を除いて。

「うぉーし! 薩長の賊軍どもを蹴散らしたら、局長のためにたまごふわふわをお土産に買って帰ろうぜー! あの人は女豪傑だから、腹一杯飯食ったら治るだろ!」

 戦えば戦うほどヤケクソ気味にテンションがあがり続けている左之助さん。銃で狙撃だなんてケチな真似しやがって! おいらの槍で近藤さんの敵を取ってやんよ、御陵衛士の残党連中だけは刺し違えてでもブッ殺す、と今日こそ死ぬ気まんまんだ。こうなると止めても無駄だろうなこの人は。

「……今は錦の御旗を掲げる薩長が官軍で、こっちが賊軍だけど……総司には、スッポンの生き血を飲ませる……悶絶する総司の姿が見たい……」

 斎藤さんが、珍しく冗談を言っている。油小路以来、ほとんど感情を失ってしまった斎藤さんだが、沖田さんの話をする時だけは年齢相応の女の子らしい表情を見せる。二人は同世代で、互いに剣の天才として生まれ育ってきた者同士だ。親友なんだな。

「ああ、白兵戦なら新選組は日本最強の軍団さ! ここなら四斤山砲の砲弾も飛んでこないし、負けないよ! さあ来い薩長ども! 新選組二番組隊長、永倉新八が相手だっ!」

 永倉さんは伏見でがむしゃらに突進し続けてミニエー銃を構えた敵に包囲され、危うく命を落としそうになった。奇跡的に生還した今も身体中あちこちを怪我して包帯まみれなのだが、まるで意に介していない。剣の腕も凄いけど、生命力は新選組随一だと思う。

 しかしそんな中、土方さんだけは沈鬱な表情で薩長軍を待ち続けていた。

「……お前たち。戯れ言を言いながら、内心では討ち死にすることばかり考えているな。勝手は許さんぞ。大坂城にはかっちゃんも総司もいる。この戦いはあくまでも足止めだ、ここで玉砕することは禁じる――いいな?」

 新選組隊士の多くが、伏見での戦闘で銃弾を浴びて傷つき倒れた。

 姉と慕い続けてきた近藤さんは、肩を撃たれて剣客としての再起が危ぶまれている。

 そして妹分の沖田さんは、労咳に侵されて別人のように痩せこけてしまっていた。おそらく、もう助からない。

「……油小路で御陵衛士を全滅させられなかったために、近藤さんが撃たれた。伏見での市街戦は新選組が得意とする戦いだったはずなのに、薩長がイギリスから調達した新式の火力兵器には太刀打ちできなかった。総司の病に気づくのも遅すぎた。すべては副長である私の責任だ……伏見で私は痛感した。もう、刀の時代は終わった……新選組も……私の、青春も……」

 日頃から青白い土方さんの肌の色が、いよいよ青ざめていた。

 見ていられなかった。

 土方さんは、今日この千両松で敗軍の将として責任を取るつもりだ。決死の斬り込みをかけて薩長軍の先鋒を混乱させ、隊士を一人でも多く戦場から離脱させたのち、自ら殿として千両松に踏みとどまって討ち死にしようとしている。

「そんなことはありません、土方さん! まだ敗北すると決まったわけではありません! 新選組が淀に踏みとどまって時間を稼げば、将軍率いる大坂城の幕府軍主力部隊と海上を行く榎本艦隊が合流して、薩長軍を撃破してくれます!」

 数字の上ではそのはずだ。まだ俺たちの後方には、難攻不落の大坂城と、幕府海軍の大艦隊が控えている。薩長の海軍は貧弱だし、大坂城を落とせるような大兵力を彼らは持っていない。負けるはずがない。ないのだが――もしも俺が知っている歴史通りに運命が定まっているのだとすれば――。

 永倉さんも左之助さんも斎藤さんも、こんなに心弱い土方さんを見たことがない。いつも一緒だった近藤さんと沖田さんの不在が、土方さんを追い詰めていた。どう声をかければいいのか、わからないでいた。

 しかし、試衛館組最年長の老け顔おじさん隊士・井上源三郎――「源さん」が、そんな土方さんの震える肩をぽん、と叩いて「らしくねえなあ。鬼の副長」と笑っていた。

 源さん。試衛館生え抜きにして、近藤さんよりもずっと先に入門していた大先輩。女の子道場だった試衛館になぜか男剣士ながら居着いていた、隊の叔父さん役。剣術の才能はなく、入門から免許皆伝まで十数年もかかり、風采も老け顔で馬面と、さっぱりうだつが上がらない。試衛館を継ぐことも塾頭になることもできず、後から入ってきた年少の近藤さんや沖田さんにあっさり先を越され、新たに自らの道場を立ち上げることもなかった。

 試衛館時代を知らない新入り隊士たちは、「近藤先生たちの先輩というだけの人だ」「いつも昼行灯でへらへらしている無能な親父さんだよ」「なんであんなダメ人間が六番組の隊長役を任されてるんだ」「六番組じたいが名ばかりの暇な組だしさ」「新選組はやっぱり試衛館のものなんだよな」と源さんを軽んじていた。

 なにしろ隊の大幹部だというのに、平隊士たちにもへこへこと頭を下げ、自分のふんどしを自分で洗うようなプライドのかけらもないダメなおじさんなのだ。

 だが――長らく新選組で近藤さんの養子として黙々と働き続けてきた俺は、知っている。

「なあ、土方ちゃん。この源さんは、尊皇攘夷も佐幕開国も公武合体もどうだっていいのよ、そんなもん関係ねえ。俺にとって唯一価値があるものは、誠の武士を目指し精一杯に生きている『剣術娘』よ――可憐な剣術娘が命を輝かせて剣を振るう瞬間の切ない尊さを見たいがために、そんな剣術娘たちを護りたいがために、なんの才もねえのにずっと試衛館に、そして新選組に居座っていたんだぜ。剣術娘は最高! この世界に、この天地に、これほど尊く美しいものがあるだろうか。いやない! 今でも思いだすぜ、『にゃーっ!』と猫のような鳴き声とともに面を撃ち込んでくる近藤ちび先生の愛らしさといったら……はあ、はあ、はあ……だからよ」

「……源さん」

「たまには表舞台でも、この源さんに頼ってくれよ。なあ? そうでなくちゃ俺は、試衛館以来えんえんと無駄飯を食わせてもらってきた上に、毎日剣術娘たちの尊いお姿を間近から拝見させていただいてきたご恩を返せねえからよ?」


 ※


 そう。俺は源さんの「裏の顔」を知っている。

 この人が無能なボンクラの昼行灯を装っているのは、「裏の仕事」をやっていることを誰にも悟られないためだ。知っている者は、土方さんを含めごくごく一部の新選組古参幹部だけだ。

「尊い剣術娘たちには、汚れ仕事はやらせたくねえのよね。そういう汚い仕事は、おじさんにぜんぶ任せておきな?」

 と、源さんは新選組の裏稼業を進んで一手に引き受けてきた。新選組きっての猛者である斎藤さんや沖田さんが斬ったと言われている、いわゆる内部粛清された隊士の大部分は、実は源さんが「騙し討ち」で暗殺している。

 薩長に内通している隊士や脱走して薩長方へ奔ろうとする隊士を、監察の山崎さんが発見すると同時に、源さんはいつもの間の抜けた馬面を見せながら夜の往来で件の隊士になにげなく近づき、

「やあやあ。ご精が出ますなあ――悪いが、御法度に背く者を許さずってのが新選組の掟ってやつでよ。あんた、士道不覚悟だ」

 と、懐の「暗器」ですれ違いざまに急所を貫く。

 源さんがその場を立ち去った時にはもう、隊士は自分が日頃「昼行灯」と笑っていた源さんに殺されたことも気づかぬうちに事切れている。

 屋内で「紐」を使い、相手に気取られぬうちに気道を締め上げて絞殺することもあったという。

 過去にいちどだけ、俺は源さんの「仕事」の現場に同行して目撃している。

 新選組が大坂の警護に乗りだそうとしていた頃、大坂西町奉行所の与力・内山彦次郎という男が、自らの既得権益を守るために近藤さんを「壬生浪の百姓娘め、なにが新選組だ。徳川の世を乱すエセ武士めが」と罵倒し、徹底的に妨害してきた。以前、酔っ払った芹沢鴨が大坂で力士たちを相手に暴れたことも心証を悪くしていたのだろう。

 これに激怒した短気な永倉さんや左之助さんが、「近藤どのへのあの暴言、絶対に許せないよ!」「おう。斬っちまおうぜ!」と奉行所を襲おうとした。もちろんそんな暴挙をやれば、新選組はお取り潰しになる。

 そこで「おじさんに任せときな」と、容赦ない方法でことを収めてしまったのが、源さんだった――。

 源さんは夜に俺一人を連れ出すと、ふらりと大坂天満橋へ乗りだして、料亭へ向かう途中だった内山彦次郎に「これは内山さま。先日はうちの若い剣術娘たちが無礼を働き、お詫びのしようもございません。なにしろわれらは多摩の田舎者でして。今回はどうかご容赦を」とまるで犬が靴の裏を舐めるかのような卑屈な口調で揉み手まで見せながら、すっ……と接近した。その姿は、大坂与力に恐れ入る武州多摩の田舎百姓にしか見えない。

「おお、新選組にも男隊士がいたか。大坂奉行所の持ち場を荒らすなとあの田舎娘どもに伝えておけ。よいな? だが、あの近藤というのは田舎臭いが良い女だ。わしの妾になるというのならば、大坂屯所の件、認めてやらんでもないぞ――?」

「へっへっへ。そりゃあもう。地獄の沙汰も金次第と申しますが、内山さまの場合は女次第でございますなあ。ええ、ええ、わかっておりますとも。百姓娘はどれほど剣の腕を磨いてもしょせんは百姓。武士にはなれねえ。内山さまが手込めにしようが無礼打ちにしようがお構いなしでございます。近藤勇妾の件、拙者にすべて任せてくださいまし――」

 内山は、源さんがとりあえず小判でも包んで渡してくるのだと思い込んでいたらしい。

 しかし源さんが懐から取り出したものは、小判ではなかった。長く鋭い金属製の「鍼」一本だった。

「うぐっ!?」

「……そんなに剣術娘を嬲り者にしてえんなら、閻魔様の処で終わりのねえ夢でも見ていやがれ。てめえは、武士の身分にあぐらをかいている虫けらよ。頭の中で近藤先生を嬲る資格すらも、てめえにゃねえ」

 すれ違いながら、ずぶりと内山彦次郎の後頭部にその鍼を突き立てると、源さんは一瞬で鍼を引き抜き再び袂に隠し、何食わぬ顔で橋を渡りきっていた。

 内山彦次郎は、橋の上で立ったまま事切れている。まだ、誰も異変に気づかない。

「おい、周平。なに、ぼけっとしてやがる。さっさと橋を渡れ」

「……あ……は、はい!」

「いやあ、驚かせてすまねえな。俺みてえな冴えないおっさんが相手だと、誰もが油断するわけよ。免許皆伝の腕前でありながら正々堂々と剣で勝負しない俺を汚いと思うか? おうとも。卑怯上等よ。命はひとつしかねえからな。俺はそう簡単には死ねないのさ。死ぬ時は近藤先生ちゃんや土方ちゃんをお護りする時と決めてるからよ。すべては試衛館の剣術娘たちを護るためさ、へっ。俺さまの裏の顔については、平隊士たちには黙ってろよ?」

「……わかりました」

「お詫びに、今宵はおじさんがいい遊び場所を教えてやるぜ。おじさんのような汚れた大人にとっちゃあ、尊い剣術娘はあくまでも遠くから愛でるもの。遊ぶ女は、男慣れした年増に限るってもんよ」

 いいか、新選組の剣術娘にもし懸想したなら、てめえは局中法度違反で切腹だ。しかしその想いが「本気」ならば、俺が陰から全力で応援してやる。これからも新選組の裏稼業はこの源さんが一手に仕切ってやるからな。おめえは若い。童貞がこんな汚れ仕事に手を染めるんじゃねえぞ――源さんは大人の「素顔」を見せながら、いつもとはまるで違う渋い笑みを浮かべながら、俺にそう説いてくれた。

「きついところを見せちまったな、周平。単身町に出たら、内山を殺しに行くんだなと鋭い土方ちゃんにバレそうだったんでな。気晴らしに遊女を抱くかね。それとも」

「……法度で色恋は禁じられています。俺は誠の武士になります、源さん。土方さんのような、誠の武士に……なりたいです」

「ああ。そうだな。それがいい。人生で最初に抱く女は、しんから惚れ抜いた女がいい。それこそ男の本懐よ。そっか。土方ちゃんか……」

「ひ、土方さんに惚れているとか、そういうわけではありません! おおお女遊びがあの人にバレたら切腹させられそうで、その……!」

「ああ、わかったわかった。若いってのはいいねえ、眩しいねえ。だが周平、酒は飲めるな? 寂しいおじさんに付き合ってくれよう?」

「は、はい。おごっていただきます!」

 ……

 ……

 そう。新選組大坂屯所は、隊の「汚れ仕事」を自ら引き受けていた源さんが作り上げたのだ。

 なお内山の首は、勤王志士たちによって斬奸状とともに橋に晒されたという。

 かつて幕府の悪政に憤って民を救うべく挙兵した「義人」大塩平八郎を捕縛した内山は、勤王志士たちにも憎まれていた。どのみちあの男は天誅を受けて死ぬ運命だったといっていい。


 ※


「来やがった! 錦の御旗を掲げたカミクズ拾いどもだ! なーにが官軍だ、インチキ野郎どもめ! さっさと斬り込むぜ、がらっぱち! 号令を出してくれ、副長!」

 来た。左之助さんの指さす向こうに、街道を進む薩長軍の先鋒隊が現れていた。

 敵は新式のミニエー銃を大量に保有している。たとえこの千両松で新選組が果敢に斬り込みをかけて先鋒を突き崩しても、やがては新選組隊士を一斉射撃できる地点を連中は見つけだすだろう――。

「左之助さん。永倉さん。刀一本で無茶です。考え直してください!」

「敵を前になにもせずに撤退できっかよ。周の字、おいらたちは新選組。誠の武士だぜ!」

「そうだ。心配するなよ周平。あたしたちが、周平には手出しさせないから!」

「俺のことはいいんです! 土方さん。みんなを止めてください。剣で勝てる相手ではないことは、伏見で思い知ったはずです!」

 土方さんにはしかし、左之助さんや永倉さんに「討ち死にはするな」と再び釘を刺しながらも、斬り込みを止めるつもりはない。

「諸君、ここ千両松で一泡吹かせて薩長軍の動きを阻む。淀城と大坂城が戦闘準備を終えるまでの時間をわれらが作る」

「ま、待ってください! 地の利を得ているとはいえ、斬り込みは危険すぎます! 戦うならば、抜刀隊を支援する砲兵隊がこちらにも必要です!」

「……周平、お前の言葉に理がある。どうやらこの新しい戦に、お前が新選組でいちばん早く適応しているらしいな。先に淀城へ引き上げても構わないぞ。だが、私はあくまで新選組副長として戦う。鳥羽伏見での敗報に混乱している大坂城にはいましばしの猶予が必要だ。ここで新選組が薩長軍を素通りさせたら、大坂城のかっちゃんと総司はどうなる」

 止められない。土方さんが逡巡する時間は終わっている。すでに、覚悟している。

「……土方さん。その通りです、士道不覚悟でした。俺も斬り込みます。ですが、ここで死のうなんて考えないでください、お願いします……近藤さんも沖田さんも……土方さんとの再会を心待ちにして耐えているんです……」

「ああ。そうだな、わかっている――新選組諸君! 斬り込めえっ!」

「「おおおおおっ!」」

 池田屋以来の古参新選組隊士たちは、伏見で破れてなお「気組」に溢れていた。

 まるで、滅び去りゆく騎士道精神の最後の輝きを放つドン・キホーテの如く、「誠の武士」たちはただ剣のみを掲げてミニエー銃を構えた官軍兵たちの群れへと突進し、抜き打ち、斬り捨てていく。

 銃で戦う薩長兵たちは、斬り込みの白兵戦に弱い。京に雷名を轟かせた「新選組」という名乗りを聞いただけで、すでに恐慌状態に陥っている。

 時代に取り残されてなお、新選組は最強の剣士たちだった。

 千両松に、無数の血煙が上った。

 俺も夢中でなにごとかを叫びながら、目の前に立ち塞がる敵を斬った。もう戦は薩長の勝ちだ、幕府も新選組も俺の知っている歴史通りに滅び去るだろうと薄々わかっていながら、身体が、剣が、自立した生き物のように勝手に動いていた。

 伏見でさんざん浴びた四斤山砲やミニエー銃の発する轟音が耳元に鳴り響く。幻聴なのか、ほんものの銃声なのか。俺にはもう、自分が現実の戦場にいるのかそれとも夢うつつの中を彷徨っているのかさえわからなくなっていた。

 認めたくなかったが、どうやらこの世界は俺の世界の幕末と同じ歴史を辿っている。

 新選組は滅びる。

 近藤さんも沖田さんもそして土方さんも、このままでは死んでしまう。

 とりわけ土方さんは、この千両松で敗戦の責任を負って討ち死にするつもりだ。

 その証拠に、指揮官である土方さんが誰よりも敵中深くまで突入し、孤立し、無数に増え続ける薩長兵たちに斬撃を浴びせ続けている。天然理心流の免許を与えられなかった我流の邪剣だ。地を這わせるように剣を擦らせ、相手の臑や足首を狙って斬っていく。初見の、しかも銃での戦いを主に調練されてきた新兵たちには、対処できない。

 そして、新選組が白兵戦を戦える時間はもう、過ぎ去っていた。

「土方どのは? 土方どのの姿が見えない!? 副長、返事を!」

「……気づいたら、敵中深くに……もしかしたら副長ははじめから」

「うおおおお! やべえぜ! あっちみろ、あっち! 千両松の並木の向こうから、薩長の砲兵隊がこっち狙って構えてやがる!」

 天地を揺るがす轟音。

 敵の指揮官は早くも俺たちを狙い撃てるポイントを発見し、すかさず射撃戦に移行していたのだ。伏見でもそうだった。薩長軍には信じがたいほど有能な軍師がいる。西洋軍学を熟知する軍師が。

 一斉射撃がはじまった。

 新選組隊士たちが、ばたばたと倒れていく。

 敵陣深くまで斬り込んでいたためにかえって撃たれなかった土方さんが、複数の敵兵を相手に斬り合いながら、叫んでいた。すでに土方さんの青白い顔は返り血に塗れている。

「斬り込みは終わりだ! 殿は私が務める! 新選組、総員ただちに淀城まで撤退しろ! 指揮は永倉が採れ! これは副長命令だ! 命令に服さぬ者は、法度違反で私が斬る!」

 副長を捨てて逃げられっかよ! ざけんなー! と左之助さんが副長命令を無視して前進しようとするが、多数の銃弾が再び飛んできて一歩も先へと進ませない。

「土方どの!? はじめから、殿を買って討ち死にするつもりで……!? 戦に敗れたのは、土方どのの責任じゃないよ! 錦の御旗を見た瞬間に幕軍兵が逃げ散ったのが敗因だよ!」

「……永倉、副長を救出して。自分が殿を引き受ける」

 いや。斎藤さんを死なせはしない。親友の沖田さんが哀しむ。

 俺が行く。俺が銃弾を掻い潜って土方さんのもとへ辿り着き、殿役を奪い取って土方さんを淀城へと戻す――!

 俺はすでに未来でいちど死んでいる。今の俺は、二度目の人生を誰かに与えられた男だ。本来、この世界にいていい人間ではない。そして土方さんには、まだ未来がある――!

 もしかしたら土方さんには、俺が知らない未来が待っているかもしれない。

 北へ転戦を続けて箱館で戦死する未来とは異なる、もっと別の未来があるかもしれない。

 いや。たとえ、そんな未来などないのだとしても。

 俺は。

 俺は、土方さんに生きていてほしい――。

 無言のうちに永倉さんたちから密かに距離を取り、そして。

「新選組隊士・谷周平、参る! 道を空けろ! 阻む者はみな斬る! 土方副長を、帰還させる……!」

 右手に大刀を、左手に長脇差を。

 千両松の街道を突っ走ろうと駆けはじめた、俺の鳩尾に。

「おっと。童貞の若者には譲れねえなあ、こんな美味しい見せ場はなあ。俺は試衛館の最古参、土方ちゃんの大先輩だぜ?」

 今までどこでどうしていたのか、乱戦の中で完全に気配を消していた源さんがいきなり拳を叩き込んでいた。

「……ぐ……はっ……?」

「やれやれ。この源さんは、剣の才はからっきしで、卑怯な騙し討ちと暗殺しか能がないボンクラだがよ。剣術娘ってのはよ、なによりも尊いんだ。近藤先生と総司に再会させる前に、土方ちゃんを死なせられねえよ」

「げ、源さん……ダメだ……俺が死ぬ番なんだ……なぜならば俺は、俺は……!」

 ごちゃごちゃ抜かすんじゃねえガキが、俺一人にすら勝てねえくせに土方ちゃんを救えると思っていやがるのか、新選組舐めんじゃねえ、ともう一発鳩尾に強烈な拳を食らった。

 もう、立っていられなかった。

「なあ、周平。おじさんが死んだら、てめえが新選組男隊士の最古参だ。土方ちゃんたちを頼むぜ? ここは年寄りに見せ場を譲ってくれよ? 土方ちゃんは鬼の副長の仮面を被っているけどよ、てめえも知っている通り中身は心弱い乙女だ。豊玉宗匠なんだぜ。もしもぴいぴい泣きわめいたら、ぶん殴ってでも引きずっていけ。絶対に手放すんじゃねえぜ――それじゃあな。生きろよ、周平――あばよ」

 永倉さんが。左之助さんが。「井上どの!?」「なにやってんだっ?」と俺たちのもとへ走り寄ってくる。しかし、源さんはもう俺のもとには留まっていなかった。

 愛刀の奥州白河住兼常を抜いて、そして、千両松の道を一人で駆けだしていた。

「聞け、官軍を騙る薩長の賊徒ども! 新選組六番組隊長・井上源三郎が、副長をお救いするべく道を開く! 後輩ども、副長を死なせるんじゃねえぞ! 絶対にだ!」

 源さん。源さん……待て。待ってくれ……!

 身体が動かない。足腰が言うことをきいてくれない。

 俺は。俺は……!

「源さんっ? 一人でなにやってんだよっ? 死にに行くのかよっ! 待てよおいっ!?」

「……い、井上どの……!? 自ら銃弾の的になって、立ち往生するつもり!?」

「なんだよそれ、がらっぱち? 弁慶かよっ!?」

「……薩長軍は源さんの鬼気迫る姿を前に必ず怯む。源さんが敵の目を釘付けにして、千両松の時間をしばし止めている隙に……副長を、救出する」

 敵中に孤立し包囲されていた土方さんが、源さんが自分を救うためにただ一人で突進してきたことに気づき、瞬時にその瞳に生きる意志を、燃えるような炎を再び点していた。源さんを救出するために、合流するために、その剣を再び唸らせていた。包囲網を突破し、源さんのもとへ駆けるために。

「源さん……源さん……! 来るな、来ないでくれ……! 怒っているのか? 私が新選組の副長職を投げ出して命を捨てようとしたことに、怒っているのか? なぜ私を士道不覚悟で斬らない、なぜ源さんが死ななければならない? お願いだ……もう……私は、仲間の死を見たくない……! 源さん……!」

 青空の下。

 千両松の戦場に、ミニエー銃が炸裂する号音が鳴り響いた。

 井上源三郎。この人が最期に見せた大きな背中を、俺は決して忘れることがない。

 倒れなかった。数えきれない銃弾を身体に浴びて、その歩みを止めてなお、源さんは土方さんを護るために両刀を天に掲げて立ち続けていた。

 そのあと、俺がいったいどこをどう駆けてそこへ辿り着いたのか、なぜ彼女を繋ぎ止められたのか、わからない。

 気づいた時には俺は血と涙に塗れた土方さんの身体を力の限り抱きしめていて、そして、

「行きましょう、淀城へ。これからは、源さんに代わって俺があなたを護らせていただきます」

 と、震える土方さんの耳元に囁いていた。

 土方さんはその顔を俺の胸に埋めながら、小さく頷いてくれた――。

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