第三話/山南切腹!
●山南切腹!
元治二年二月二十三日。
新選組屯所は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
俺は新選組平隊士としての任務にひたすら忙殺されていた。気づけば、時勢も新選組もなにもかもが様変わりしていた。時代の流れが速すぎる。
新選組が池田屋に斬り込んで、都に火を放ち帝を攫おうとしていた長州過激志士たちの陰謀を阻止したのもつかの間、長州藩はただちに京に出兵して御所で会津藩らと交戦。
この時、長州軍は畏れ多くも帝がおわす御所へ向けて大砲を発砲し、ついに「朝敵」となった。俺は、いったいなにを考えてんだろう、と長州の無謀ぶりに呆れ果てた。イギリス・フランス・アメリカら異国艦隊とも下関で戦争している上に、御所を攻撃して朝敵になるだなんて。とても正気とは思えない。いったい勤王とは?
この「禁門の変」で、会津軍は大島(西郷)吉之助率いる薩摩軍の加勢を得てかろうじて長州軍を撃退したが、この戦いの折に長州藩邸からの出火が原因で京の町の半ばが焼けてしまった。壬生村は田舎なので無事だったが、応仁の乱以来の大火だったとか。
しかも、明らかに原因は京を戦場にした賊軍・長州なのに、京の町衆は「会津と新選組のせいや」となぜか新選組を憎むようになっていた――なぜだ。俺には幕末というものがさっぱりわからない。
それでも、すっかり京都政界の大立て者となった近藤さんは「朝敵長州を討てば国内の揉め事は終わるから~! あと一戦よ、周ちゃん! 頑張ろうねえ!」と、藤堂平助さんの師匠・伊東甲子太郎をはじめとする大量の新規隊士を関東でかき集めてきて盛り上がっていた。
ところが、そう話はうまく進まない。
関東筑波で、長州と並ぶ勤王藩・水戸の天狗党が攘夷を訴えて挙兵するし、京を守っていた一橋慶喜公が幕府から「お前、水戸家出身だったよな。まさか天狗党とグルではあるまいな」と責められて天狗党征伐に駆り出されるしで、諸藩連合軍を遠征させて朝敵・長州を征伐するという幕府の計画はグダグダになり、結局「長州藩が幕府に謝罪したのであい許す」となし崩し的に長州攻めはお流れになってしまった。
流してしまった張本人は、禁門の変で大功を立てて長州征伐軍参謀となった薩摩の西郷吉之助だった。
(おかしいな? 幕府はなぜ朝敵長州を討たないんだ? 西郷吉之助って、たぶん西郷隆盛のことだよな? もしかして……俺が生きていた世界と同様、薩摩と長州が坂本龍馬を介して薩長同盟を結び、幕府を倒してしまうんじゃあ……それくらいの知識は俺にもある。でも、まさかな。新選組は軍事組織としてどんどん強化されているし、女の子だらけの試衛館以来の幹部隊士たちは俺が聞きかじっていた男だらけの新選組よりもずっと仲良しだし……)
情勢に疎い俺でさえなんとなく幕府の先行きに不安を感じていた矢先に、新選組を揺るがす大事件が起きたのだ。
江戸試衛館以来の同志。
北辰一刀流免許皆伝にして、仙台藩脱藩浪士。揃いも揃って剣術バカばかりの試衛館組の中で、ただ一人の知識人。新選組のお留守番役を務め、隊士のみならず壬生の人々からも「サンナンさん」と呼ばれて慕われていた優しいお姉さん。
隊のうちうちのことをとりまとめていた新選組総長・山南敬助さんが、「江戸へ帰ります」と書き置きを残して突然脱走してしまったのだ。
なぜ脱走したのか、誰にもわからない。律儀に「江戸へ向かう」と告げた理由さえ。
「どうして? どうしてなの山南さん? まさか伊東先生が『参謀』職に就任して、山南さんの総長職が閑職になったからかしら? だとすれば、伊東先生を新選組に誘ったわたくしの責任ですわ!?」
「あの人はそんな人じゃないよ平助。いつだったか、大坂の岩城升屋で不逞浪士と斬り合って怪我をしてから、山南さんは屯所を守る留守番役をずっと務めていた。もしかしたらあの時の怪我がきっかけで剣が握れなくなったんじゃ……」
「なに言ってやがる、がらっぱち! おいらたちは全員ケンカっぱやいから、手柄にもならねーのに敢えて屯所を守る役目を引き受けるようなお人好しは山南さんしかいなかったんだろー? 池田屋の時だって、長州志士の襲撃に備えて山南さんが屯所を固めてくれていたじゃねーか。だからおいらたちは池田屋で思う存分暴れられたんじゃねーかよ。おい、周の字はどう思う?」
「……左之助さん……俺は巡邏仕事や捕り物でいっぱいいっぱいだったので、いつも屯所にいた山南さんと過ごした時間はあまり……でも。腕が立って、学があって、とても優しい人です。山南さんを嫌っている人間なんて壬生にはいません。俺みたいな出自の怪しい隊士にも、分け隔てなく親切にしてくださいました。なぜこうなったのか、わかりません……すいません」
俺がもっと新選組に詳しければ、止められたかもしれないのに。それが口惜しい。
局中法度では、隊を脱走した者は切腹である。やむを得ず近藤さんと土方さんは、山南さんを姉のように慕っていた沖田さんただ一人を大津へ向かわせた。
だがこれは土方さんが、山南さんと新選組の双方を救うために考えだしたぎりぎりの策だった。
「まさか山南さんがほんとうに律儀に江戸へ向かっているとは思えないが、ここは敢えて騙される。江戸へ向かっていることにしよう。総司。ゆるゆると大津まで行って、山南さんが見つからなければ戻ってこい。万が一山南さんが大津にいても、妹分のお前とならば斬り合いにはならない。見て見ぬふりをして去らせてやれ。大津へ行ってきた証拠として、ご当地のお土産を買ってくるんだぞ」と沖田さんに含みを持たせて大津へ向かわせたのだ。
「一応は捜しましたが逃げられました」というポーズを隊士たちに示さねば、「局中法度は試衛館組には適応されないんだ、依怙贔屓だ。新選組は結局、試衛館組の組織なんだ」と隊士たちが動揺し、法度で縛ることでかろうじて成立している新選組の鉄の結束が破れてしまう。沖田さんも「合点承知ですよー! 休暇のつもりで、適当に遊んできまーす!」と山南さんを捜すつもりなどさらさらなく、遠足気分で大津へ旅立っていた。
にもかかわらず。
なぜか山南さんは、大津の茶屋で職務を放棄して饅頭を頬張っていた沖田さんに自分から声をかけてきて、「あなたに見つかってしまうだなんて、これもきっと運命なのでしょうね。私如きの腕ではとても総司さんは斬れませんから。京へ戻り、切腹します」と切なげな笑顔で告げたのだという――。
死を覚悟した山南さんが、「……どうして……なんで……こんな……いやだ……いやだよ……山南さん……」と顔面蒼白になっている沖田さんとともに無言で屯所に戻ってきて、一人で謹慎部屋に籠もると同時に、隊士たちは土方さんの部屋へと殺到した。
隊士に「局中法度に背いたお前は切腹だ」と残酷な命令を下す者は、隊士に甘い局長の近藤さんではなく、冷血の女である副長の土方さん――それが新選組の常識だったからだ。
そして、山南さん自身が「法度違反で切腹」という処置を望んでいる以上、土方さんは山南さんを切腹させるしかない。
「山南どのを切腹させるなんてありえない! 本気で脱走する気なら、律儀に行き先を告げていくはずがないよ。まずは事情を聞いてからでも遅くないよ!」
仲間思いで人情家の永倉さんが、先陣を切って山南さんの助命を嘆願する。
「そうよ、絶対にダメよ! 伊東先生も『私は新参者なので直接意見するのは遠慮するが、山南くんは新選組になくてはならない人だ』と断固反対しているわ! いいえ、そんなことよりも、山南さんは江戸試衛館以来のわたくしたちの同志であり仲間でしょう!?」
藤堂さんは土方さんにしがみついて抗議した。
「てめえは冷血の女だ! あんだよ、その鉄面皮はよ! どうして一言、切腹させないと言わねーんだよ? なんで黙ってるんだよっ? うがーっ! 代わりにおいらを斬れっ!」
左之助さんはもう頭に血が上っていて、自分でもなにを言っているのかわからない。
土方さんは青ざめて押し黙りながら、隊士たち――同志たちの言葉をじっと聞いていた。
俺は知っている。この人は、冷血の女なんかじゃない。内心激しく揺れている。長年の友人だった山南さんを助けたくて、でも局中法度という鉄の掟をここで骨抜きにしてしまえば新選組は空中分解してしまうという理屈も痛いほど理解していて、どうしていいのかわからなくなっている。悩んでいる。心中には激情が渦巻いている。こんな時、土方さんは自分の感情を押し殺して黙り込んでしまう人なのだ。不器用なだけなんだ。
そして――呼吸を整えながら冷静さを取り戻した土方さんは、淡々と「決定」を告げた。
「なぜ脱走したのかが知りたい。一刻後に、近藤さんとともに山南さんと最後の談判をしてみよう。だが、諸君や近藤さんがどれほど嘆願しても、彼女の切腹は免れない。なぜならば、新選組を支配するものは局長でも副長でも試衛館でもない。あくまでも法だ。新選組禁令、通称『局中法度』だ――切腹は夕刻。討ち手は総司。万が一にも仕損じては、山南さんに申し訳がないからな」
切腹は夕刻。談判は一刻後。つまり、土方さんは隊士たちに「時間的猶予」を与えてくれた。この一刻という時間の間に山南さんを説得してなんとしても脱走させろということだ。だが、言葉ではっきりそう言わないばかりか、いっさいの情を見せずに告げるのは、土方さんの損な性分だろう。しかも、今までもそうだったが、近藤さんには隊士に憎まれる役を絶対にやらせない。こうして、すべてを自分一人で背負っている。
「ギャー! 今日のうちに切腹だって? 冗談じゃねえ! おいらは認めねえぜーっ! もう時間がねえ! 今すぐ山南さんを逃がすんだよ、がらっぱち!」
「ああ、承知だ左之助! あたしたちは脱隊・切腹も覚悟の上で山南どのを壬生から逃がすよ! 止め立てするのならば、試衛館の身内同士での斬り合いになるよ土方副長!」
「……止め立てはしない。ただ……誰がなにを言っても、もう手遅れな気がする。あの人は、死ぬ覚悟もなしに法度破りのような軽率な真似はしない」
「ともかく土方副長の内諾は得ましたわよ! さあさあ。皆さん、急ぎますわよ!」
しかし、「一刻の猶予」はあっという間に過ぎ去った。
永倉さんたちが何度山南さんに「生きてくれ!」「逃げましょう!」と説得を試みても、山南さんは「私は武士です。武士には死に所、命の使い所というものがあります。それが今なんです。申し訳ありません――」と微笑みながら脱出を拒んだという。
ついに。
土方さんと近藤さん、そして山南さんが、謹慎部屋で最後の談判を開始した。
もはや山南さんは死を決意している。彼女を救える最後の機会になるのか、それとも。
この俺も、近藤さんの養子・近藤周平として参加させてもらった。山南さんのたっての希望だったという。
「このたびは皆さんを騒がせて申し訳ございませんでした。局長、副長。そして周平さん。とりわけ、総司さんには一度ならず二度までもとても哀しい思いをさせてしまうことに……」
「ううっ。切腹だなんてダメよっ、山南さん……! なぜ戻って来たの? どうしてっ? 私もトシちゃんも総司も、山南さんを切腹させるつもりなんてなかったのに! トシちゃん、なんとかならないのっ?」
「……かっちゃん。われらは局長の芹沢鴨に局中法度を適用して暗殺して以来、何人もの隊士を法度違反で切腹させてきた。法度が死ねば、新選組は烏合の衆。食い詰めた不逞浪士の集まりに逆戻りする。試衛館以来の同志である山南さんといえども、法度に従って切腹させる他はない……」
やはり芹沢鴨暗殺は、新選組が……あの人は、商家を脅して押し借りを重ねたり町中で大砲を撃って火事を起こしたり力士を斬り殺したりと、不逞浪士以上の乱暴狼藉を重ねていた。近藤さんたちはおそらく困り果てた会津藩から「芹沢を除け。さもなくば新選組は解散させる」と密命を受けたのだろう。
でも、山南さんは悪いことなんてなにもしていない。いつだって、激務で疲れ果てていた俺たち隊士を優しく迎え入れて、癒やしてくれてきた。ふらりと「家出」したくらいで死ななければならないなんて、そんなのは絶対におかしい。
「トシちゃん。そんなあ!? 局長も副長も一番組隊長も、そして隊士のみんなも反対しているのよ? 法度のために新選組があるのではないでしょう?」
「新選組はもうあの頃の試衛館道場とは違う。今や幕府と日本の命運を握っている重要な軍事組織なんだ、かっちゃん。自他を律する厳格な法度に従い隊の規律を守れないのならば、われらは武士でなく多摩の百姓娘にすぎないことになる。武士でない者が、隊士を斬り長州志士を斬りあたら侍の命を奪ってよいわけがない。法度なくば、新選組はない。法度に服するのは、隊士の義務だ」
その通りです土方さん、あなたの頭脳はいつも合理的でその理屈には一点の曇りもありません、あなたがいてくれるから近藤さんと新選組を託すことができます、と山南さんが優しく微笑んでいた。しかし、その笑顔は酷く哀しげだった。
「……近藤さん。あなたはとてつもなくお人好しです。今や京の政局を担う新選組局長のあなたが情に流されれば、いいように騙され利用されて手ひどい仕打ちを受けるでしょう。ですが必ずや土方さんがあなたの盾となり、新選組を守ってくれます。先日ご公儀は、攘夷を訴えながら幕府に神妙に降伏した水戸天狗党の三百五十余名を武士扱いせずに容赦なく斬首しました。これからの日本は凄まじい動乱の時代を迎えます。新選組も酷く混乱することになるでしょう。でも、あなたの隣に土方さんがいる限り決して絶望する必要はありません。土方さんのあなたへの赤心はほんものです。どうか、生きてください」
「うう……山南さん。わからない。私にはぜんぜんわからないよ。たしかにご公儀の水戸天狗党への仕打ちは苛烈で士道を穢しているけれども、あとは長州さえ倒せば日本の動乱は終わるのに、なにを言っているの? そうだ、こうしようよ! 新選組江戸屯所を開設して、そこを山南さんが運営するということにしよう! どうせ新規隊士は関東で集めているんだし。これからはいちいち私やトシちゃんが出張しなくたって、山南さんが江戸屯所で隊士を集めてくれれば……! ずいぶんと長い間、山南さんは京に籠もっていたから、不意に江戸が恋しくなっただけなんだよね?」
近藤さんはあくまでも山南さんを救うために、必死になって弁を重ね続けた。これほど多弁な近藤さんを俺ははじめて見た。
俺は試衛館時代を知らないが、剣術一筋だった近藤さんたちに幕末の時勢を教えたのも、浪士組参加を勧めたのも、山南さんだという。彼女こそが、試衛館組を束ねて新選組を作った人なのだ。そして京でも、常に地味で報われない裏方役に徹して新選組を守り続けてくれた人だ。みんなに愛されている。それなのに、なぜ?
「土方さん。お人好しの近藤さんをお願いしますね。たしかに法度なくば新選組は保てません。ですが、法度による隊士の粛清は、この私をもって終わりにしてくださいますか。誰ももう、今日のような思いを再び味わいたくはないでしょう。おそらく法度を破る隊士は私の死と引き換えに激減するはずです。なによりも――新選組総長の切腹という大事件は、今後幕府の屋台骨が揺らいだ際に起きうるであろう、隊を二つに割って分裂させようという者たちの動きを阻止できます」
「……山南さん。幕府が揺らぐとは……隊の分裂とは……新選組がいずれ、勤王派と佐幕派に割れると? あなたはまさか、そこまで見通して……?」
幕府が揺らぐ? 新選組が分裂する? 前者はわかる。俺の生きた歴史で起きたから。でも、新選組分裂とは、なんのことだ?
「新選組は公平無比な新時代の組織であり、局中法度は絶対である。そのことを、わが一命をもってすべての隊士に、そして京に、日本に知らしめます。私一人の切腹で、新選組が存亡の機に陥るまでの時間を二年は稼げます」
「……ダメだ……やっぱりダメだ、山南さん! それは言い訳だ、要するにあなたは死にたいだけだ!」
「……土方さん……そうかも、しれませんね……」
「そもそもあなたにそう告げられるまで、私はそんな未来を予想できていなかった。愚昧な私には、この先の時勢などは読めない! あなたがいてくれなければ、近藤さんを護り抜くことも、きっと……! あなたはもう新選組に自分の居場所がないと思い込んでいるのだろうが、それは違う!」
「いいえ。私にはもう、これからの日本の未来は読めません。時勢を読む知恵袋の役目は、参謀の伊東甲子太郎さんに委ねてください。北辰一刀流の同門ですからよくわかります。あの人の学識と政治感覚は、私などよりもずっと優れております。伊東さんを信じてください、土方さん――」
「伊東はたしかに有能だが、心中ではなにを考えているのかわからない水戸者だ。だがあなたは、長年ともに同じ釜の飯を食べてきた試衛館以来の……私は、かっちゃんに憎まれ役を買わせたくなかった。局長は隊士たちに愛されるべき、組織の母として慕われるべきだと信じている。だから私は、こうして隊内では冷血の女を演じている。でも……そんな私にも、情が……情が、ある……! 山南さんだって、知っているだろうに……!」
ついに耐えかねた近藤さんがわんわんと大声で泣きはじめていた。「私にも情がある」。こんな弱々しい言葉を、土方さんが他人に発するだなんて。
それほどに、山南さんを助けたいのだ、土方さんは。
「……すみません……もはや剣も振れず時勢も読めない私が新選組のお役に立てる道は、これしかなかったんです。最後に……周平さん」
山南さん?
俺なんかに、最後の言葉を……?
俺は、屯所に戻ってきて山南さんと会うたびに、バカなことばかり言っていただけの無力な平隊士なのに。
「助けてください山南さん。沖田さんの稽古は鬼稽古です、殺されちゃいます!」
「いつ巡邏中に不逞浪士に出くわすか怖くて怖くて、もう疲れましたよ~」
「いやー、今日こそ死ぬかと思いました~。漏らしたかと思いました!」
「いいいい池田屋に突入した後の記憶がほとんどなくて……まままままだ生きていられるなんて夢のようです。ああ、土方さんが来てくれていなければ今頃は」
「あのう。俺も留守番役をやってみたいんですが……たまには山南さんとゆっくり屯所でお茶でも飲みたいです。土方さんは人使いが荒くて。しかも歩いている途中で突然トンビがどうした、梅がどうだ、と愚にもつかない駄句を詠みはじめるし、褒めないと怒るし」
……こんな間抜けな言葉ばかり、山南さんに聞かせていて。そのたびに、「うふっ。だいじょうぶですよ、周平さんは日々強くなっています。近藤さんはもちろん、総司さんや土方さんもいつもあなたを気にかけていますから、安心していいですよ?」と山南さんは優しく微笑んでくれた。俺はいつも山南さんに甘えていたのだと思う。いつだってこの人がいてくれる屯所こそが、俺が帰るべき「家」だった。実の姉のように想っていた。
その山南さんが、俺に「遺言」を託す時が来るだなんて。
「周平さん。あなたは仕事熱心で多忙でしたから、あまりゆっくりお話できませんでしたね。もっとあなたと語らいたかったです。それだけが私の悔いです」
「……山南さん」
「なぜでしょうか。あなたは、新選組と試衛館のみんなの運命を変えられる人かもしれない。今でも私はそう思っているんですよ? あなたはまるで、近藤さんや土方さんたちの運命を変えるために別の世界から来てくれた旅人のような。そんな風に思えて仕方がありませんでした。土方さんに笑われちゃいそうで、言いだせませんでしたけれど」
山南さん?
そうです。俺は、別の世界から来ました。未来の日本から。幕府と新選組が薩長に破れ去って滅びた世界から――!
俺はずっと、この世界は俺の世界とは違う、女の子だらけの新選組には幸せな未来が待っていると、そう信じていた。でも。でも、違ったんだ。やはり、ここは過酷な世界なんだ。日本人同士が戦い命を散らす幕末なんだ。女の子が剣を取って戦っている分、俺の世界よりもさらに過酷なんだ。
(でも……未来から来ても。たとえこの世界の新選組が、俺の世界の新選組と同じ運命を辿るのだとしても。幕末史を知らない俺には、どうしようもない……山南さんが今日切腹することを俺が知っていれば、こんな悲劇は避けられたんだ。山南さん……すみません……!)
俺は山南さんに謝るしかない。「俺はそうです、未来から来たんです」と言いだしたら、占いや迷信の類いを信じない合理主義者の土方さんはきっと「こんな時に世迷い言を言うな」と激怒するだろう。それはいい。だがもしも「だったらなぜ山南さんの脱走を止めなかった、なぜ知っていて見殺しにした」と土方さんに誤解されてしまったら、俺はもう生きていられない……。
「……周平さん。今のは私の失言でしたね。ご自分を責めないでください。ただ、あなたには新選組を未来へ導けるなにかがあります。私のこういう勘はけっこう当たるんですよ? ですから、生きてください。生きていればきっと、ご自分になにができるのか、周平さんならば見つけられます。みんなを、土方さんを、お願いします」
夕刻が来た。
友の死が迫る。
大津行きで風邪を引いたのだろうか。「けほ、けほ」と咳き込みながら、猫背気味の沖田さんが廊下を渡っていく。
山南さんの介錯役を務めるために。
いつもの軽口は聞こえてこない。
そして俺は、迫り来る「その時」を前に震えながら、土方さんとともに縁側に座って屯所の庭園を眺めていた。
土方さんもまた、まるで夢を見ているかのように呆然としている。心はここにはない。
「……総司は人を斬っても心が汚れない希有な子だと、斎藤はよく言っていた。斎藤は一見すると無口で陰気な剣術娘だが、あれで中身は誰よりも純真なのだ」
三番組隊長・斎藤一さんの話を、不意に土方さんが呟く。斎藤さんは試衛館以来の仲間だがあまり喋らない人で、とりわけ男隊士には近寄らない。若い男が苦手で、近づくとお腹が痛くなるのだと言う。それなのに剣はめっぽう強くて、毎日のように不逞浪士を斬りまくっている。しかも、いつも一刀で決める。
「だが、私は斎藤ほど純真な人間ではないからな。もしかしたら総司はあまりにも剣の才能に恵まれすぎていて、異常に強すぎて、だから命の儚さがわからないのかもしれないと思っていた。でも、斎藤が正しかった。私のほうが間違っていたのだな……総司はただ、心が美しすぎて、総司の目にはこの世界の汚いものが見えていないだけなのだ。家族を斬れば、総司だって深く傷つく。魂は汚れなくても、心は血涙を流す。総司に山南さんを追わせてしまったのも、介錯役に任じてしまったのも……私の……間違いだった……」
止められないんですか。新選組より山南さんの命のほうがだいじじゃないんですか。
俺は思わず、深く傷ついている土方さんにそう漏らしてしまっていた。
未来から来ていながらなにもできない自分自身の無力さに憤るあまり、つい。
士道不覚悟な真似に、及んでいた――。
「……もちろん、私個人は、そうだ……だが、新選組はもう……ひとつの巨大な生き物なのだ、周平。池田屋で長州志士を斬った時から。あるいは、芹沢鴨を法度に照らし合わせて粛清した時から。今になって、もう私たちは降りられない。芹沢鴨も。池田屋で闘死した宮部鼎蔵や吉田稔麿たちも。みな、武士として生き、戦い、そして死んだ。ここで私たちが武士であることを放棄して逃げだせば、私たちの剣によって命を落とした彼らに会わせる顔がない……私はかっちゃんを、自らの運命から逃げた敗北者にはしたくない……そして山南さんの思いも、私と同じなのだ」
土方さん。
山南さんは「私の勘は当たるんです」と俺に遺言を残してくれた。もしかしたら。俺が少しずつ、未来を予言して言い当てていけば。俺が別世界から転生してきたなどという非合理な世迷い言を、いつか土方さんも信じてくれるかもしれない。
「土方さん。実は俺も、勘が当たるほうなんです。薩摩藩は、今は会津と手を組んでいますが、いずれ会津を裏切ります。土佐の浪人・坂本龍馬という者が、薩摩と長州を同盟させて幕府を倒すことになる。そんな予感がします」
「……坂本龍馬? 誰だ、それは? どうしてそんな土佐者のことをお前が知っている」
「あ、いえ。面識はありませんが。あくまでも予感です」
「なんだそれは。私には勘だの予感だのは理解できないな。理屈なしでは、合理主義者の私は説得できないぞ周平。そもそも、薩摩がどうして会津と幕府を裏切って、長州に味方する必要がある? 薩摩は長州を京から追い落とし、禁門の変でさんざん殺しあった仇敵だぞ。とても考えられないな」
そうだよな。坂本龍馬は、今の時点ではまだ無名だ。ダメだ。俺が知っている幕末知識は、せいぜいこれくらいなんだ。薩長同盟が結ばれた理由も経緯もなにもわからない。そんなことまでは、教科書には書かれていなかった。いつ結ばれるのかも、覚えていない。
「……今日はもう、無駄口は叩くな……私は、山南さんの切腹に立ち合わねばならない。お前はこにいろ。絶対に来るな。もしも、悪夢に魘される夜を過ごしたくないのなら」
土方さんは、魘されているのですか。
一身に隊の憎まれ役を引き受けて、お辛くはないのですか。
その言葉を、俺はこの日この時の土方さんの背中に向けて発することはできなかった。
土方さんが、肩を震わせ声を殺して泣いていることが、わかったからだ。
そんな土方さんの隣に、こちらは感情を抑えきれずに泣きじゃくり続けている近藤さんがよろめきながら並び立って、そして二人は互いの身体を支えあいながら室内へと消えた。
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