第二話/池田屋突入!


●池田屋突入!


 気がつけばあっという間に年が明けて、元治元年六月五日。

 行きつけの壬生村の汁粉屋。その店の片隅で、俺はげっそりとやつれ果てていた。

「……し、死ぬ……死んでしまう……沖田さんの稽古が激しすぎて……あの人、竹刀

を取ると人が変わるんだもんな……」

 平素は冗談ばかり言って笑っているのに、ひとたび剣を取ると「ちっがーう! 刀で斬るんじゃないよ、腰で斬るんだよーっ! んもーっ、どうしてこんな簡単なことができないのかなーっ?」と鬼教官と化す沖田さんの毎日の地獄稽古。それが終わると、時々「死番」が回ってくる悪夢の市中巡邏。長州志士と遭遇したら、戦わなければ士道不覚悟で土方さんに切腹を申しつけられるから、泣きながら「わあ、わあ」と長州志士に突撃しなければならない。だいたい長州志士ってなんだよ。いつも大声で勤王勤王と騒いでいる連中だが、新選組も尊皇を掲げているんじゃあ? どうして新選組が長州志士と戦っているのかすら、幕末に疎い俺にはさっぱりわからない。

 そういえば、土方さんが「近づくな」と言っていた「もう一人の局長」芹沢鴨は、ある夜、長州の連中に寝所を襲われて殺されてしまった。あの人、見るからに恐ろしくて、実際人をたくさん斬っていたし、ろくに会話もできなかったな。あんな怪物じみた剣客を人知れず斬り殺す奴がいるだなんて、どれだけ強いサムライがゴロゴロしているんだよ、幕末の京都は。はあ……。

 毎晩寝床につくと(もう無理。身体と精神の限界。命あってのものだねだ、逃げよう)と心の中のへたれ周平が囁いてくるが、(バカッ。逃げたら切腹だぞ。それに、お前のご先祖もそんなノリで新選組を脱走して、結局ぱっとしないダメ人間として人生を終えたんだ。だから、親族の間でも新選組の話題はタブーになっていただろう? もしも最後まで新選組隊士として戦っていたら、ドラマや映画やコミックに出演できたかもしれないのに)ともう一人の俺が止めてくる。

 ともかく、現代人には想像もつかない過酷なブラック企業・新選組の平隊士としてこき使われていた俺は、注文した汁粉を待ちながら無意識のうちに「もう死んでしまう」と何度も呟いていた。身体がSOSを発しているのだろう。

 汁粉屋の店娘・おまさちゃんが「だいじょうぶ? 周平くんの好物の塩を盛り盛りにする?」と俺を案じながら汁粉を出してくれた。いや、塩盛りはいい。毎日膨大な量の汗を流すので、大量の塩を汁粉に載せて食したいところなのだが、新選組の先輩隊士の皆さんから「周平お前、汁粉に塩の塔を載せて食うのか? 舌はだいじょうぶかーっ?」と奇異な目で見られたくない。この世界には「塩スイーツ」という概念がないのだ。

 いちど誰もいないところでこっそり、大好物の塩盛り汁粉や塩大福をかっくらいたい……はあ……。

「「「おまさちゃん、お汁粉くーださーい!」」」

 あっ。この汁粉屋に入り浸っている常連の先輩隊士たちがやってきた。

 江戸試衛館で近藤さんの食客をやっていた、甘党三人娘だ。

「お~っす周の字! 土方さんと沖田にしごかれてすっかりヘロヘロだなあ~! おいらが甘ぁ~い団子をおごってやるから元気だせよ、わっはっはあ!」

 伊予松山脱藩、槍の名手の原田左之助さん。「美少女」という言葉はこの人のためにあるようなものだというくらい愛らしいアイドル風のルックスの持ち主で、声もかわいい。世が世なら人気アイドルとして、あるいは声優として楽しく暮らせていたはずなのに、あいにく殺伐とした幕末に生まれてきたために新選組で切った張ったの荒仕事に従事している。でも本人はいたって楽しそうだから、いいか。見た目は千年に一人クラスの美少女だけれど中身は左之助さんだからな……。

「左之助さん~。巡邏仕事中はいつ長州志士と斬り合うことになるんじゃないかと不安ですし、屯所に戻ったら戻ったでいつ土方さんに切腹申しつけられるか怖くて怖くて」

「ま、人間、死ぬ時は死ぬんだから気にすんな周の字! おいらも松山で糞上司に『切腹の作法も知らない中間風情が武士づらをするな』と嫌みを言われた時によー、んじゃあ死んでやんよ! と怒鳴ってばさーっとてめえの腹を切って死に損ねたんだぜー! あん時ゃ、上司のほうがヒイイイと悲鳴をあげて小便ちびってたなー! わっはっは! 見る? おいらの腹の傷痕、見る? ん? ん?」

 もともとケンカっぱやい人なんだけど、いちど切腹してからこういうキャラになったらしい。生死の境目を経験してなにか振り切れたというか。「お尋ね者の長州志士や不逞浪士を見かければ斬り捨てご免」というブラック新選組は、左之助さんにとってまさに天職だ。なにしろ医学が遅れているこの時代、ひとたび切腹して復活する人間は滅多にいない。可憐な見た目からは想像もできない凄まじい生命力の持ち主である。

「ちょっと左之助。周平も一応は男子なんだから、女の子が腹を見せるのはどうかと思うよ? 周平も困ってるみたいだし。でも、総司は刀を取ると荒っぽいからなー。あたしの隊に移る? あたしならばもっと優しく教えてあげられるよ? 総司はほら、天才肌だから。普通の人間にはできっこないことを要求してきて、『どうしてできないのさー』って理不尽に切れるでしょ? その点、あたしは稽古の量で才能の不足を補っている努力型の剣術娘だから、指導も懇切丁寧だよ?」

 松前潘脱藩、永倉新八さん。江戸生まれ江戸育ちの爽やかな武士娘だが、剣術が好きすぎて脱藩して、近藤さんの道場・試衛館で居候をやっていた人だ。剣術マニアとでも言おうか、あちこちの有名道場で免許皆伝を取りまくりという免許コレクター。その上、恐れ知らずの豪胆な性格で真剣での立ち合いにはめっぽう強く、剣士としての実力は沖田さんに匹敵するという。

「嘘つけ、がらっぱち。てめーだって、稽古でへたれ野郎の相手させられてると『剣術を舐めてんじゃねえよ、こんの唐変木が~!』って江戸っ子弁丸出しになってブチ切れるじゃんよ。わっはっは!」

「うるせえぞ、左之助! ああ、いや、こほん。殿方の周平の前で取り乱しちゃダメだな」

「おっ。お前、周の字に気があるの? ん? ん? 隊士の色恋は切腹だぜー?」

「ち、違う。そういうんじゃない、武家娘のたしなみだっ! 昼間っからヘソ踊りを踊っている左之助にゃ関係ねえ!」

「あーっ? おいらをなんだと思ってんだ、てめー? おいらはただ、腹の傷痕が痛まねーように日光浴してんだよっ! お日様の光で暖めるとさ、傷痕にいいんだよなー♪」

「嘘をつけ。踊りたいだけだろう、お前は。はあ。左之助もあたしもきっと嫁に行けないな。あーっ、それよりあたしは新しい稽古相手が欲しいっ! 毎日同じ顔合わせばかりで飽きてきたっ! 新鮮な稽古がしたーい! はあ、はあ、はあ」

 普段の永倉さんは剣術修行の成果か、落ち着いていてやたら大人びて見えるが、実は左之助さんとあまり年齢は変わらないらしく、いつも一緒につるんで互いに罵倒しあっている。不仲なのではなく、これがこの二人のじゃれ合いなのだ。

 ちなみに、日頃は真面目キャラを装っている永倉さんだが、切れたり酔っ払うと江戸弁剥き出しになって「ベラボーめえ!」「てやんでえ!」と荒れるのは公然たる事実。しかも、いったん怒ると局長の近藤さんにも食ってかかるので実はけっこう恐ろしい。

「でも、若い殿方の周平くんが入隊してくれたおかげで、女の子隊士同士での娘衆道が廃れてよかったですわ。これも堅苦しい法度が悪いのですわ、法度が。色恋禁止だなんてほんと、不条理な……」

 そして、江戸の試衛館時代以来この二人といつも一緒にいる、ツンとお澄まし顔の小柄な先輩隊士。

 藤堂平助さん。

 新選組隊士でたぶんいちばん身体が小さいが、勇気と気位の高さはトップかもしれない。なにしろ、巡邏の時にはいつも自ら「死番」を志願して一人で突撃していくという。

 ちなみに藤堂さんは、美少女というよりは「美童」だ。体型、顔つき、髪型のせいで、かわいいショタ少年に見える。

「周平くん? あなた今、わたくしをお稚児さんを見る目で見ましたわねっ!? 薩摩の芋侍どもと同じ目つきで、この高貴なわたくしを! 由緒正しい津潘藤堂家のご落胤であるわたくしを、お稚児さんにしたいなどと! わたくしは! 女の子ですわっ! 男の子じゃないし、背もちっちゃくないっ! 胸だって、成長すれば新八くらいに大きくなりますわよっ!」

「はーん、がらっぱち並みに? そりゃあ無理だろー平助。がらっぱちは食った分の栄養がぜんぶ胸に行くんだぜ、だからバカなんだ! わっはっは!」

「おい待て左之助。お前にだけは、バカだと言われたくないんだけど、あたし?」

「しっかしよー。平助には衆道趣味持ちの薩摩藩士から『おいどんのお稚児さんにしたいでごわす』と引きが殺到。土方さんはあんなおっかねえ性格だと知らない京の町衆に男女問わずモテモテで毎日大量の恋文が屯所に殺到。総司は近所の子供たちから大人気で、今日もお寺で鬼ごっこに興じている。がらっぱちも、熟女好きから熱烈に支持されてるってのに。どうして、愛らしいおいらはぜんぜんモテねーんだ? どう思う、周の字?」

「左之助、だからあたしは熟女じゃないってば! 大人びているだけだってば!」

「だーって。ガキを産んで育ててそーじゃん、その乳の張り具合はよー」

「産んでないっ! あたしはおぼこ娘だよ! あたしの身体はまだ成長期なんだって!」

「……どうすれば新八みたいに身体を成長期に突入させられるのかしら……食生活になにか秘密が? 教えなさいよ新八。毎日なにを食べればそんなに育つの? ぐぬぬ」

 完全にガールズトークじゃないか。この人たち、俺を若い男扱いしてくれていないよな。俺が弱すぎるせいか……はあ。平和な時代の竹刀剣術をかじった程度じゃなあ……真剣を抜いてガチで斬り合いやっている新選組の幹部たちにとってはお子さまも同然だ。この世界の武士には男も女も関係ないらしいとは頭で理解したけれど、ちょっとだけ屈辱感。

「おいおい。なに黙ってやんだ? おいらがモテモテになる方法はねーのかよ、周の字?」

「うーん……たぶん、左之助さんはキャラが……」

「はあ? おいら、伽羅なんて使ってねーよ?」

「えーと、怒って槍を構えないでくださいね? 左之助さんは、外見は満点です。その満点を零点にするくらいに言動と性格が少々粗雑なのではと。無言で笑っていれば、京の男衆から『愛らしい』とたちまち大人気ですよ?」

「ああん? んなこと、できっか! おいらは空を舞うトンビのように自由に生きてんだよ! いちど死に損ねて以来、おいらは後悔のねえよう常にてめえの心に正直に生きることにしたんだよっ! んじゃまあ、別にモテなくてもいいや。そのうち運命の相手がひょっこり見つかるかもしれねーしなあ! わっはっは!」

 なんでトンビなんだよ。せめて鳩とかさ。

 ……と、いつものようにこの日も楽しく騒いでいられると思っていたのだが……。

 いきなり監察の山崎さんが汁粉屋に飛び込んできて、俺たちは出撃命令を受けてしまった。

 そう。幕末に疎い俺は、この日が「池田屋事件」当日だと知らなかったのだ。


 ※


「えーっ? いいい今からこの池田屋にとととと突入して斬り合うんですかああああっ!? ちょっと待ってください近藤さん! せめて土方さん率いる二十余人の別働隊が到着してからに……」

「周ちゃん、それでは手遅れに。池田屋に集まっている面々は、京の町に火を放って帝を誘拐しようとしている長州過激派の不逞志士たちですよ? しかも会津藩も桑名藩も腰が引けていて、刻限を破っていつまでもやってこない……今こそ、会津藩お預かり新選組の剣が唸る時なのですっ!」

 池田屋事件と言われても、近江屋だの池田屋だの寺田屋だのと幕末の大事件はだいたい旅籠で起きていて、どれがどれだか俺にはさっぱりだった。まさかまさか、想定二十余人の長州過激志士がテロを目論んで集合している池田屋に、たったこれだけの人数で斬り込むだなんて……近藤さん率いる新選組本隊は、わずか十一人。しかもその中に、どうして俺がっ!? し、死んでしまう! 嫌だ、もう斬り殺されたくないっ! あんな恐ろしい死に方は二度とご免だ!

 近藤さん、おかしいですよ! そりゃあ土方さんが「誠の武士だ」と惚れ込むほどの豪傑剣術娘だとは知っていましたが、勇気ありすぎですよ! 人間離れしすぎです!

「あーっ。周平くん、おしっこ漏らしそうな顔してる~! うんうん。弱っちい周平くんは表口でも裏庭でもいいから、見張り役をお願い! 屋内への斬り込み役は、この沖田さんにお任せー! 天然理心流・試衛館道場の塾頭こそが日本最強剣士だと、今宵こそは京の皆さんに知らしめる時ですよー! けほ、けほ……興奮してむせちゃった」

「おおおお沖田さんまでっ? 相手はガチでマジの人斬りテロリスト集団でしょ? 御所を襲撃しようとか、まともじゃないでしょ!? そんな物騒な連中を相手に若い女の子が真剣で殺し合いなんて、よくないですよ! 誰か、近藤さんを止めてくださいよ!?」

「ほうほう。さすが神戸っ子はすらすらとメリケン言葉を使いますなあ~。けらけら」

「なにを言っているのさ周平。あたしたちは稽古するために剣を振ってきたんじゃないよ。われらが大将・近藤どのこそが誠の武士だということを頭の固い幕閣連中に知らしめるために、毎日血のにじむ稽古をしてきたんだから。永倉新八、池田屋に突入する役目を承る! 芹沢どのの時のようにあたしをのけ者にしたら、近藤どのといえども怒るから!」

「ええー? それは誤解よ永倉さん~。あの夜は、神道無念流の同門同士での斬り合いは無慈悲だと思って、敢えて永倉さんを討ち手から外したのに~」

 え。なに。芹沢さんって、長州の志士じゃなくて、新選組の面々が斬ったの? あの人、新選組の局長じゃなかったの? ってもう、ツッコミが追いつかない!

「議論無用ですわ! 新選組は剣あるのみ! この『魁先生』、藤堂平助が今宵も死番を務めますわよ! わが父より譲られし上総介兼重が血煙をあげますわ! いざ!」

 ギャーッ! 藤堂さんが飛び込んでしまったーっ! 藤堂家のご落胤だという自らの定かならぬ出自が真実だと証明するために、藤堂さんはいつも無茶をやりすぎる!

「あーっ、しまった! 待ってよー! 最初に刀を振るう役目はボクだよボクっ! 一番組隊長の沖田総司さんだってばー!」

「平助、総司、待って! 単独行動は危険だよ、屋内でも二人一組になって互いの背中を護りあわなくちゃ! ああもう、永倉新八も突入する!」

「皆さん、局長はこの近藤勇ですよ? 局長命令ですよっ、最初の抜刀役はこの私ですからねっ! 抜け駆けしたらトシちゃんに言いつけるからっ! 周ちゃん、あなたは表口に留まって池田屋から逃げてくる長州志士の相手をお願い! 決して無理しないでね!」

 いや。いやいやいやいや。おかしい。おかしいだろう。近藤さん。沖田さん。藤堂さん。永倉さん。なんてことだ。二十余人の長州志士たちが籠もる屋内に、たった四人で飛び込んでしまった! しかも土方さんや原田さんたちは別の旅籠を見回っていて、とてもじゃないが間に合わない!

 ここで土方さんが到着するまで黙って震えているか……そうだ、池田屋の裏庭に隠れるというのは? いやっ、それじゃ新選組を脱走したご先祖と同じになる! 俺だって新選組隊士だ。しかも畏れ多くも近藤さんの養子という立場だ。この日この時、この俺が戦わなくてどうする。

 俺は、奥歯を震わせながら抜刀していた。

「ここここ近藤周平、参る……! ごごごご御用改めである……! ててて手向かいする者は……!」

 俺はすっかり取り乱していて、単身で池田屋に飛び込んでしまった。近藤さんは沖田さんとコンビを組み、藤堂さんは永倉さんとコンビを組んでいる。「一対多」という不利な状況を避けるために、新選組は必ず複数で行動して戦うのだ。だいいち新選組には剣術娘が多いけれど、長州の志士ってたいてい体力に勝る男剣士だし。

 なんだけど、いきなり歴史的修羅場に放り込まれた新入りの俺には、そんな新選組の常法などもはや頭になく。

 とにかく近藤さんたちが戦っているのに俺だけが戦わないなんて「士道不覚悟」だという焦りに取り憑かれて、単身で屋内に踏み込んでしまった。

 突入した時にはもう、長細い池田屋の屋内は阿鼻叫喚の修羅場と化していた。

 近藤さんと沖田さんは、奥の階段から二階へ上って長州志士の主力組と斬り合っているようだ。永倉さんと藤堂さんは、一階に飛び降りてきた志士たちと白刃を交わしている。

「周平? どうして一人で入ってきたのさっ? 危ないから隅っこへ隠れて。単身で行動しちゃダメ! 連中はみな死に物狂いになっている。斬り殺されるよっ!」

 永倉さんが、がくがくと足を震わせながら廊下を走る俺の姿を見つけて、声をかけてくれた。がむしゃらに三人の長州志士と真剣で斬り合いながら、指を切られて血を流しているというのに、どうしてそんな余裕が? とんでもなく豪胆な人だ。

「ちょっと? なにをやっていますの、周平くん? 間違って斬りつけちゃいそうになりましたわ! 相方はいませんの?」

 藤堂さんは小柄な身体を利用して、愛刀を振りながらちょこまかと屋内を駆け巡っている。すでに息があがっているが、休む気も撤退する気もないらしい。藤堂家ご落胤の誇りを胸に、最後の最後まで戦い続けるつもりだ。あの小さな身体で。

 そ、そうだ、俺は局長の……義母・近藤さんの援護に向かわなければ……か、か、階段を、の、の、のぼ……。

「ひいいいっ!?」

 ガラガラガラッ! ドオオオン! と凄まじい音を立てながら、袈裟斬りに斬られて全身血まみれになった若い志士の身体が階段を転がり落ちてきた。そしてその男は、もはや助からぬと悟るや否や、俺の目の前で「ご免!」と自ら切腹を……。

 嘘だ。こんなの現実じゃない。どうして日本人同士で、真剣を抜いて殺しあっているんだよ? 敵は黒船を率いて来た列強諸国じゃないのか? それなのに、長州と幕府はどうして戦っているんだ? なんで? どうして? 学校でも教わらなかった……!

「うわ……うわああああああぁっ!?」

 嫌だ。斬られて死にたくない。前世での最期を思いだした俺は、生まれてはじめて「死」を恐怖して悲鳴をあげていた。

 前世でコンビニ強盗と素手で戦って斬り殺された時には「なんだ。俺の人生、これで終わりなのか」と醒めきっていたこの俺が。

 それはきっと。

 両親を早くに失い、どこにも居場所がなかった前世とは違って。

 今の俺には、俺を迎え入れてくれる家があり、家族がいたから――「新選組」という居場所があったから。

 だから、情けなくも俺は死を恐怖したのだろう。

「生きたい」と、生まれてはじめて本気で願ったのだろう。

 ああ。これが、武家に生まれ育った者ではない人間が「死」に直面した時に感じる本能的な恐怖か。これが、士道不覚悟ということか。だから土方さんは、局中法度を……。

 ダメだ。もう、なにも考えられない。なにもわからない。自分がなにをしているのかすら。剣を構えながら震えているので、精一杯だ。殺される。長州志士が剣を振りあげて向かってきたら、俺の身体は両断される。四人の加勢に来たはずなのに、俺には覚悟が足りていなかった。

 声が。大声があちこちから聞こえる。誰の声なのか、わからない。ほとんどが男の声だ。死を覚悟した長州志士の叫び声だ。みんなは。四人は無事なのだろうか。

 土方さん。土方さん。このままでは、池田屋に突入した五人は全滅してしまいます。どうか、早く……。

 ……

 ……

 ……

「はあ、はあ、はあ。遅くなった、かっちゃん! 新選組土方隊、池田屋に到着した! これで形勢は逆転した、方針を斬り捨てから捕縛に切り替える! 京の町を燃やそうと目論んでいた不逞の長州志士たちを一人も逃がすな!」

「おーっす、周の字! おめー、よく池田屋に突入して生きてたなーっ! 新入りなのに、すげー胆力じゃんかよーっ! ここから先は槍の左之助さまに任せとけーっ! どりゃーっ!」

 あ……。

 あ、あ、あ。

 土方さん。左之助さん。別働隊のみんなが、来てくれた……!

 左之助さんの槍が唸る。入り口から飛び出した長州志士を、次々と打ち倒していく。まったく躊躇がない。強い。この人はほんとうに、生死の狭間を越えて来た人だ。

 そして土方さんは、「刀の柄は小指を沿えて掌で包み込むように」という天然理心流の基本を無視した我流の荒っぽい「握り」で兼定を構えると、まるでバットを扱うかのように剣を最短距離から振り下ろして長州志士の臑を薙ぎ払っていた。極度なまでに合理的であり、剣術の基礎すらまったく意に介さない変幻自在の太刀筋だった。

 竹刀稽古では許されない完全な無手勝流だが、実戦ではこれは強い。初見殺しの剣だ。とりわけ、剣術の一流派を究めている剣士に対しては、これほど扱いづらい邪剣はない。

 だが同時に、土方さんの独創的な剣技は時代に認められない、決して理解されない孤高の剣だということを、俺は知った。実戦主義の天然理心流からさえ、土方さんが免許を与えられていない理由がわかった。

 だがこの人は、それで充分なのだろう。本望なのだろう。

 なぜならば。

「トシちゃん! 来てくれたのねー! 私は折れず曲がらずの名刀・虎徹のおかげで無傷だけれど、総司がこの暑さにやられて倒れてしまって……! 京の夏って、どうしてこんなに蒸し暑いのかしら、はあ~」

「かっちゃん! そ、総司はだいじょうぶなのか? 急げ、みんな。総司を戸板に載せて表へ担ぎ出せ! いいな、絶対に天然理心流五代目を死なせてはならない!」

 土方さんにとっては、近藤さんを誠の武士にすることだけが戦う理由なのだから。

 おかしい。土方さんの顔を見た瞬間に、はじめて「死闘」の現場に投げ込まれて錯乱していた俺の心から恐怖は嘘のように消えた。その代わりに、今まで感じたことのない奇妙な感情が、俺の胸を貫いている。なんだろう。土方さんの端正な横顔を見ているだけで、胸が苦しくなる。

 ああ、そうか――これが、「池田屋に突入したあと、なにもできず震えていたとは士道不覚悟だ、腹を切れ」と土方さんに命じられるかもしれないという新たな恐怖か!

「あいだだだだだ。気がついたら親指の根元を斬られていたよ。あたしってば、戦っている時には自分が怪我してることに気がつかないんだよなあ。それより平助が額を割られた! 傷は浅いけれど出血が酷いから、急いで手当を!」

「……うう~……油断して汗を拭こうと鉢金を頭から外したところを狙われましたわ……し、死ぬかと思った……あ、ありがとう、新八……」

「ううん。こういう死地ではお互い様だよ! 次は平助があたしを助けてくれよ、約束だから!」

「……うん……武士と武士の約束ですわ」

「平助はふっと気が抜ける癖があっからなー。この槍の左之助さまが近藤隊にいりゃあよう、平助も無傷だったのによー! まあ、向かい傷は武士の誉れじゃねーか! わっはっは!」

 土方さんの合流と同時に、池田屋での戦いは、ほぼ終結した。

 最初に突入した四人にとっては、文字通りの死闘だった。二階で戦っていた沖田さんが激戦の最中に熱中症で倒れ、一階で戦っていた永倉さんは手に傷を負い、藤堂さんは額を割られて大出血して搬送された。

 会津藩、桑名藩の藩士たちが今頃になって駆けつけてきたが、土方さんは池田屋に彼らを入れさせない。今さらなんだ、池田屋で戦った勇士は新選組だ、新選組こそが誠の武士だと言いたいのだろうが、やはりそこは土方さん。決してクールな表情を崩さない。

「長州藩邸に連なる裏庭を守っていた三人の隊士のうち一人は即死。あと二人も、あの深手ではもう助からないな。新選組の犠牲者は三人か……死なせるには惜しい隊士たちだったが」

 そうか。もしも俺が一見安全そうな裏庭に回っていたら、長州藩邸を目指して殺到してきた長州志士たちに切り刻まれて今頃は……皮肉にも蛮勇を奮って池田屋の屋内に突入したことが、俺の命を救ったのか。途中から記憶が飛んでいるが、一階で戦っていた永倉さんや藤堂さんが俺を護ってくれていたのかもしれない。でも結局、俺自身はなにもできなかったのだな……裏庭で斬られた三人の仲間を助けることも……。

 あっ。土方さんが、やっと立ち上がった俺に気づいて、そして俺の肩を揺さぶってきた。近い。顔が近い。胸の鼓動が……これは間違いなく……切腹を申しつけられる隊士特有の恐怖!

「周平。お前、池田屋に突入したのか。浅手を負っているが、刀は……曲がってはいるが、刃は綺麗なままだ。柱を斬りつけたようだな」

 役立たずめ。お前は士道不覚悟で切腹だ、と幻聴が聞こえた。

 だが、土方さんが俺にかけてくれた言葉は、予想とは違った。

「し、周平。よく生き延びたな。私はてっきり、お前はもう死んでいると思っていた」

 え? 土方さん?

 俺に切腹を命じるんじゃないんですか?

 俺はだって、飛び込んだ後、ただ震えていただけで記憶すら飛んでるんですよ?

 それなのに土方さんは、俺の耳元にこう囁いてくれた。他の隊士に聞かれないように小声で。

「……よく池田屋に飛び込んだな。その勇気がお前を生かした。え、偉いぞ」

 新選組がその勇名を京に、そして日本全土に轟かせることとなったこの日。

 俺の心は、今までに経験したことのない、わけのわからない病に取り憑かれつつあった。

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