2-4

 外よりかはまだいくらか涼しい自室へ戻ったあと、俺は机に向かう。


 通学カバンからぐしゃぐしゃのノートと、使い古したシャーペンを取り出してメモを取る準備をした。

 それから右目を閉じる。


 愛花はまだ川岸にいるようで、目の前には緩やかに流れる水面が見えた。



「さしあたって、まずは異世界についてもう少し詳しく教えてくれ」



 愛花が行ってしまった世界のことを、俺はよく知らない。

 知っているのはせいぜい魔法が使えて、自然が豊かというじちくらいだ。



「そもそも愛花は事故の後、どうなって異世界にいるんだ?」


「あたしも詳しいことはわからないんだけど、気づいたらこっちの世界の診療所にいたの」


「つまりケガをした状態でそっちに行ったってことか」


「ううん。多分、そっちにいたあたしと今のあたしは別人なんだと思う。目の色とか違うし」


「別人って言うにはよく似てると思うけどな」



 以前は茶化したが、川に映る愛花の顔立ちはかつてのものと遜色ない。

 まったく同じだとは言わないが誤差の範囲だ。


 普通に暮らしていたって痩せたり太ったり、爪が伸びたり髪が伸びたり、そういう変化をする。

 異世界に行った愛花の変化なんてそれくらいのものだ。


 しかし水面の愛花は首を横に振る。

 それに伴って俺の視界も揺れた。



「だってほら、右目と左目の色が違うんだよ」


「オッドアイってやつか」



 以前は夜だったため見えづらかったが、今日は太陽がまだ明るい。

 そのため水面に映った愛花の目の色が左右で違うことはわかる。



「でもそれだけで別人ってことにはならないんじゃないか」


「それだけじゃなくて、周りの人があたしのこと『マナ』って呼ぶの。それに見覚えはないけど自分の部屋もあって、友達とか知り合いもいるみたい。だから、あたしはこの世界に元々いた誰かに乗り移ってるんじゃないかと思って」


「なるほどな」



 愛花は肉体ごと異世界へ行ったわけでも、新たに異世界で生まれ直したわけでもない。

 すでにそこで暮らしていた誰かになった、ということなのだろう。


 これを転生といってもいいのだろうか?

 ちょっと判断に迷うところだ。



「病院で目覚めたなら、その『マナ』って人もケガか病気で具合が悪かったのか?」


「お医者さんは事故に巻き込まれたって言ってたよ。マナさんは魔法の実験中だったんだって」


「事故ってどんな?」


「よくわかってないみたい。マナさんは新しい魔法についての研究をしていたらしいから、それが失敗したんじゃないかって訊かれた。あたしがなにも覚えてないって言うと、それで話は終わったけど」



 だったら多分異世界で暮らすマナという人物は本来、事故で死ぬはずだったのだろう。


 それがなんらかの要因で、こっちの世界にいた愛花や俺の左目と混じり合った。

 だとすればマナさん自身の精神はすでにこの世にはないと考えるのが妥当だろう。



「そうそう、お見舞いに来てくれる人はクラスの子に似てるって言ったよね」


「ああ。何回かは見たことあるよ」


「それがね、一回だけゲンちゃんによく似た人も来てくれたんだよ。服のセンスとか魔法が使えるところはやっぱり違うんだけどね」


「それはできるだけ会いたくないな」



 自分の顔なんて鏡で見るだけでも気分が悪くなる。


 しかし愛花とマナさんだけでなく、周囲にいる人も似ているとすれば並行世界とかなんだろうか?

 科学の代わりに魔術が発展していた可能性の世界、とか。

 考えると気分が盛り上がる考察だ。


 いや、そんなことはどうでもいい。

 今大切なのは、これから愛花がどうやって幸せに暮らしていくかということだ。


 それには異世界になにがあって、なにがないのか。

 愛花の魔法でどの程度のことができるのか。

 そういったことを把握することのほうが大切だろう。



「よし、じゃあ次は魔法について教えてくれ」


「こっちはあんまり説明することもないかな。ゲンちゃんに見せたとおり、火をごーって出したり、水をどばーって出したりできるやつだよ」


「他には? もっと大規模なことはできないのか?」


「うーん……あっ!」


「なにか心当たりが?」


「もうすぐ雨が降る時間だから家に戻るね」



 それだけ言うと、異世界の視界が揺れ始める。

 愛花が移動しはじめたせいだろう。

 自分の意志とは無関係に視界が動くのにはまだ慣れない。


 酔ってしまうのを防ぐために俺は一度右目を開けて、現実世界に視界を戻した。


 ノートにはさっきメモした異世界の状況について書かれている。

 目を閉じて書いたため文字の形はガタガタだが、読めないほどではない。


 それにしても愛花は相変わらずマイペースというか、なんというか。

 急に話題が切り替わってしまうところも変わっていないらしい。


 しかし異世界にも天気予報はあるということなのだろうか。

 でなければ愛花が雨が降る時間を知っていたのはおかしい。


 だがそれを訊くためには愛花が帰宅するのをぼーっと待たねばならない。


 そろそろ帰った頃だろうと思って再び右目を閉じると、窓の外はもう雨が降り始めていた。



「家に戻ったのか?」


「あ、ゲンちゃん。もう、急にいなくなるからびっくりしたよ」


「愛花が走ると視界が揺れて酔うんだよ。ところで異世界には天気予報があるのか?」


「予報っていうか、予定かな。あたしも最初は驚いたんだけどね、お城にいる魔法使いが毎日のお天気を決めてるんだって」



 どうやら異世界にはお城まであるらしい。

 現実世界だと観光資源となっていることのほうが多いけれど、異世界だと本来通りの機能を果たしているのだろうか。



「天気を決めるって、それも魔法で?」


「うん。雨雲を集めたり、反対に散らしたりして、畑とか水源がいい感じになるように調節してるんだって。こっちだと一般常識みたいだから知らないと恥をかいちゃうよ。あたし、病院のお医者さんに変な目で見られたもん」


「十分すごい魔法があるじゃないか」


「あ、そっか」



 魔法で天気をコントロールする。


 そんなことができるならば台風被害も抑えられるし、日照りによってダムが枯れてしまうことも避けられる。

 農業だけでなく漁業などにも多大な恩恵があるだろう。


 異世界は現代社会ほど発展してないように見えたが、部分的にはこっちの世界よりも優れた技術を持っているのかもしれない。



「でも万能ってわけじゃないだろ」



 魔法が本当になんでもできるなら、愛花はその力でアイスを作ってしまえばいい。


 何度も食べたアイスバーはもちろん、こっちの世界では手の出せなかった高級アイスまで自由自在のはだ。



「えっとね、術式っていう設計図みたいなものがあってそれに手を当てて魔力を使うと魔法になるっていうのが基本みたい」


「よくわからん」


「今見せてあげる」



 愛花は本棚から一冊の本を抜き出すと、それを広げてみせた。

 見開きのページには幾何学模様が敷き詰められていて俺には内容が理解できない。



「ここに手を当てると魔法が使えるの。よく使う魔法はこうやって本にしてまとめておくと便利なんだよ。小さな本だと外に持ち出しやすいしね」


「ちなみにこれはどんな魔法なんだ?」


「洗濯の魔法」


「妙に家庭的な魔法だな」


「だってこれ、家事に使う魔法をまとめてあるんだもん。このページだと洗って、こすって、すすいで、乾かしてっていう動作をまとめてある感じかな」


「よく勉強してるな」


「あたし、今は家事手伝いだからね。この魔法はマナさんのお母さんに教えてもらったの。記憶喪失って言ったらびっくりしてたけど、丁寧に色んなことを教えてくれたよ」



 愛花は今、異世界の常識を学んでいる最中のようだ。


 だからこそ余計にこっちの世界との違いが目立って、恋しく感じてしまうのかもしれない。



「でもそれなら洗濯機は作らなくても良さそうだな」


「ううん、魔法より洗濯機のほうが便利だよ。洗濯機は回している間、他のことができるけど魔法だと放っておくわけにはいかないし」


「ずっと使ってないといけないのか?」


「そりゃそうだよ。手作業でやるより楽だけど、魔法を使ってる間は開いた本に手を当ててないといけないから他のことはできないんだよね」



 魔法は便利だが、その場から離れることができない。

 であれば技術の付け入る隙はある。



「ところで愛花の暮らし向きを良くする方法だけど、やっぱりお金と地位だと思う」


「おぉ、身も蓋もない言い方!」


「どこの世界でもお金と地位さえあればなんとかなるもんだよ。で、そのためには技術を開発していかないといけないと思う。具体的にはこっちの世界にあって、そっちの世界にないものを形にするんだ」


「あたし、あんまり難しいことはできないよ?」


「手作業なら難しいかもな。でも愛花には魔法がある。つまり魔法で科学すればいいんだよ!」


「……どういうこと?」



 決め台詞のつもりだったけど、愛花にはイマイチ響かなかったようだ。



「とりあえず、まずは小学生の自由研究っぽいものから始めようか」


「うん」



 俺の言葉に愛花は気弱に返事をした。

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