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入院生活は問題なく進んでいった。
片目でも今のところ不自由は感じない。
トイレにも一人で歩いていけるし、病院食のトレーだってナースステーション前に自力で返却できる。
左目を失って感じるのは、自分の鼻が意外と邪魔だということだろうか。
前を向いている分には気にならないが、食事とかトイレのときとか、視線を下げるときには気になる。
視界の何パーセントかは鼻に遮られていた。
といっても、今のところはそれだけだ。
注意しているせいか、壁や柱にぶつかってしまうということも起きていない。
主治医の説明だと、検査の結果さいわいにも左目以外の異常は特にないそうである。
左眼窩に対する処置も目処が立っている。
どうやら義眼を入れることになりそうだ。
お値段はざっくり十万円くらいするらしい。
ずっと欲しかったサラウンドスピーカーを買えそうなくらいの大金だ。
自宅で映画を観るときは画質も大切だけど、音響設備のほうが大切だというのが俺の持論である。
映画館でもスクリーンとの距離よりも音響に気を配った座席を選びを推奨したい。
ちなみにこの義眼というやつはおおよそ二年ごとに買い換える必要もあるそうだ。
別に眼帯していればいいんじゃないかな、と思うくらいには高額だ。
しかし両親は悩むことなく、義眼の購入を決めてくれた。
といっても、コンビニでアイスを買うのとは勝手が違う。
欲しいと言って、すぐに手に入るわけではない。
残っているほうの目に合わせて、色とか形を決めて作るオーダーメイド製のようなので、完成まで時間がかかる。
しばらくはまだ空洞だ。
「――という感じかな」
「はぁ、そ、そうなんですね」
あっという間に事故から一週間が経った。
クラスを代表してお見舞いに来てくれた委員長は、俺の報告を聞いてちょっと戸惑っているようだ。
大勢で押しかけるのは迷惑になる、との配慮から一人で来てくれたらしい。
といっても、わざわざ俺の見舞いに来たがるクラスメイトがどれほどいるものか。
もしも俺が反対の立場だったとしたら、見舞いには行きたくない。
どう声をかければ、どんな反応をすればいいのかわからないからだ。
委員長の反応もちょうどそんな感じだった。
なのであまり気をつかわせないようにできるだけ明るい調子で事情を話したのだが、あまり効果はなさそうだ。
「そういえば委員長、知ってる? 義眼って樹脂製なんだってさ。今の技術だったらビームとまではいかなくても、撮影機能くらいついててもいいのにね」
「笑っていいのかどうかわかりません」
冗談も不発だった。
寂しいので自分だけでも笑っておく。はっはっは。
ちなみに、委員長というのはあだ名で本当の名前は
しかもクラス委員であって、委員長ではない。
けれど他の女子に比べると長めのスカート丈や、校則通りの肩口で切りそろえられた髪型、本人のきっちりした性格も相まって、いつの間にか委員長というあだ名が広まっていた。
メガネをかけているところまで、よくあるイメージ通りの姿だ。
「俺は別に無理して明るく振る舞っているわけじゃないよ。ただ、なんか実感がわかないんだよね。にぶいのかな」
「実感、ですか?」
「うん。ほら、なくしたのって片目だけだろ。だからまだ見えるんだ」
委員長が困惑している表情も、黒縁メガネも、右目でしっかりと見えている。
「これがもしも両目ともなくして、なにも見えなくなってたらさすがにもっと悲しむことができたんだと思う。でもそうじゃないからさ」
「では、その……御堂さんのことは、どうなんですか」
おそるおそる、という様子で委員長は尋ねてくる。
とても気をつかわれていた。
俺と愛花がよく一緒にいたのは、委員長も知っているのだろう。
「同じだよ。今でも実感がわかない」
入院していたせいで、通夜にも葬儀にも参列できていない。
同じ事故に遭ったけれど、それで倒れている愛花を見たわけでもない。
一度だけ、愛花の母親が俺のお見舞いに来てくれたことがあった。
それで愛花の話をして、何度もお礼を言われた。
これまで仲良くしてくれてありがとうとかなんとか、そんなことだ。
形見分けとしてピンク色の携帯音楽プレーヤーをもらった。
画面に亀裂は入っていたけれど、音楽はまだ再生できる。
頑丈な作りだ。
俺もかくありたいものである。
形見をもらったところで浮かぶのはそんなつまらない冗談だけで、俺の中に愛花の死が根付くことがない。
誰かの死を理解するということは、思ったよりも難しいことのようだ。
「そういうものなんでしょうか」
悩むように委員長が顔をしかめる。
それだけでこの人はとことん真面目なんだな、と伝わってくる。
俺を勇気づけるために空元気に振る舞うわけではなく、かといって感情移入して泣いたり悲しんだりするわけでもなく、ただ誠実に踏み込んでくる。
これまであまり接点はなかったけれど、愛花とは違う意味で生きづらそうな人だ。
いつまでも左目や愛花について話していても、委員長の表情が暗くなるばかりだ。
かといって学校の様子や文化祭準備について尋ねるのも空々しい。
間をとって、比較的どうでもいい話をすることにした。
「そういえば委員長、昨日見た夢って覚えてる?」
「夢って、寝てるときに見るほうのことですか? おぼろげには覚えてますけど、あまり面白い話にはならないと思います」
たしかに他人の夢の話は、聞いていてつまらないもののトップスリーには入りそうだ。
けど今確認したいのは詳しい内容じゃない。
「その夢に音はついている?」
「うーん……どうでしょうか。誰かと意思疎通した、というのはなんとなく覚えてますけど声とか環境音までは正直覚えてません」
「そうだよね」
起きる直前までは鮮明でも、目が覚めてしばらくすればどんどん消えていく。
それが夢の記憶というものだろう。
俺もこれまでの夢なんて覚えていない。
しかし目を失ってからの夢は時間がどれだけ経っても思い出せる。
これは事故によって覚醒した特殊能力なんだろうか。
映画では定番の展開だが、だとすれば特殊能力がすごく地味だ。
「ちなみに委員長はどんな夢を見たの?」
「どうしても話すんですか?」
「特別言いづらいものじゃないければ、ぜひ」
「……テストの日にどうやっても学校に行けない夢です。寝過ごして、焦って家を出るんですけど、空からマシュマロが降ってきて、道が歩きづらくて……つまらないですよね」
「いや、面白い話だよ。特にマシュマロが降ってくるところとか」
「バカにしてませんか」
「そんなつもりはないよ」
「ならいいですけど。ところで、どうして急にそんな話を?」
「最近似たような夢ばっかり見るんだよね。だからよくあることなのかを確かめようと思って」
「どんな夢なんですか?」
「とにかく音がないんだよ。色はあるし、意識もはっきりしてるんだけど音がない。だから人が話しかけてきても、なにを話しているのかわからないんだ」
「夢の中で奥野くんはなにをしているんですか?」
「なんだろう。周りを見回したり、知り合いっぽい人に声をかけられるとか、そんな感じ。顔は同級生に似てるんだけど、服装はファンタジックっていうか」
説明しつつ、詳細を思い返すために右目を閉じて集中する。
すると画面を切り替えるように、夢の続きが始まった。
緑豊かな景色の中を、さまよい歩いている。
ファンタジー映画を主観視点で楽しむような映像が、自分の意志とは無関係に続いていた。
おぉ、これがいわゆる白昼夢か。
いや、冷静になれ。
意識がこんなにはっきりしていて、夢ということもないのだろう。
「前言撤回。夢じゃなかった」
「はい?」
目を閉じたままなので、委員長の表情は見えないが怪訝な顔をしているのは簡単に想像できた。
そんな委員長に伝えるのは忍びないのだが、発見したことは誰かに言いたい。
「左目が見えてるみたいだ」
夢ではなかったとすれば、そういうことになる。
「あー、なるほど」
「おぉ、意外とあっさり受け入れてくれたね」
驚いて右目を開くと、さっきまで続いていた映像がかき消える。
条件としては、右目を閉じていること。
そして左側に意識を集中することだろうか。
それなら寝ている時に見えて、夢と勘違いしたことにも説明がつく。
「私は医師ではないので詳しくはないのですが、いわゆるアントン症候群のようなものではないでしょうか」
委員長は冷静に俺の症状を分析してくれていた。
しかし失くなった眼球が見えるなんてこと、そうそう説明がつく現象ではないだろう。
「アントン症候群って、なに?」
「視力を失ったはずなのに、周りが見える症状です。会話や想像力によって視覚を補い、見えていないのに見えているかのように振る舞ったりできるんだとか」
「超能力みたいな話だ」
「なぜそんなことが起こるのかはわかっていないそうですよ」
「ちなみに左目で見えるのは、やけにファンタジックで現実離れした風景なんだけど」
「ではシャルル・ボネ症候群のほうが近いかもしれません。いわゆる幻視の一種で、欠けた視覚を脳が補おうとすることにより発生するのではないかと言われています。音もにおいもない、というのも症状の特徴だそうですよ」
「それってなにが見えるの?」
「妖精とか小人とかそういう現実離れしたものが多いらしいです」
「なるほど、そういうのかもしれない」
俺の状況は想像以上に理屈がつく症状のようだ。
考えてみればそれも自然なことなのだろう。
片目を失う経験をした人間は、この世に俺一人きりというわけではない。
今も昔もそういう人はたくさんいて、そのおかげで俺は適切な治療を受けることができている。
だったらこの状況も、ありふれた出来事なのかもしれない。
「っていうか、詳しいんだね委員長」
「それもちろん調べられるかぎりの知識は調べてから……いいえ、なんでもありません」
ごまかそうとしているのか、委員長が顔をそらすがすでに遅い。
どうやら委員長はここへ来る前に、俺の病状について調べてきてくれたようだ。
生真面目である。
きっとそれはいいことだ。
「なんにせよ、主治医にきちんと相談するのがいいと思いますよ」
「そんなに悪い幻でもないんだけどね。現実との区別もつきやすいし」
なにも見せてくれないよりも、幻を見せてくれる目のほうがいい。
脳が俺を楽しませるために気をつかっているんだとすればなおさらだ。
「いつか現実との境目がわからなくなるから幻なんですよ」
その一言に、俺は初めて委員長の顔を正面から見てしまう。
すると委員長はハッとしたように目を伏せた。
「ごめんなさい。余計なことを言いました」
「いや、そんなことはないよ。委員長の言うとおりだ」
「とにかく、早く元気になって学校に来てください」
委員長がそう言って、ぎこちなく微笑み病室を出ていった。
「どうもありがとう」
とお礼を言ったが、委員長は慌ただしく出ていったため聞こえたかどうかは怪しい。
人と話したせいか、少し疲れた。
ベッドに深く身をあずけて、深く息を吐く。
委員長が出ていった後の病室は、彼女が姿を見せる前とはなにかが変わったような気がした。
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