1-5

 失ったはずの左目が見える。


 しかも今までの人生で見たこともない景色ばかりが見える。


 わざわざ確認はしていないが、俺の左目があった場所にはもう空洞しかない。

 なんだか最近はスカスカした感触もある。

 これは多分気のせい。


 間違いなく俺は左目を失った。

 それなのに見えている。


 消灯時間を過ぎて、暗くなった病室でぼんやりと考える。


 右目を閉じると、左目の景色が見える。


 委員長は色んな症状について教えてくれたが、どれもしっくりこない。

 耳馴染みのない言葉ばかりだったからだろう。


 事故に遭う前に見た映画のことを思い出す。


 あの主人公は死んだあと、異世界へ転生して大冒険を繰り広げた。

 もしかすると俺の左目も異世界へ転生したのかもしれない。


 だとしたら俺はまた悲しみ損ねたことになる。

 仮に異世界であっても、健気に役割を果たす自分の左目を失ったと思うことはできない。


 左目の景色に集中する。


 視界の高さや動きから見て、俺の左目は誰かの目に転生したのだろう。


 その人と俺は視界を共有できているのか、それとも向こうの人は右目しか見えていないのか、それはわからない。

 意思疎通ができるなら手紙でも書くのだけど。


 入院生活にも慣れてきて、最近は退屈を感じることが多くなってきた。

 そのせいでつまらない妄想にも力を入れてしまう。


 もし本当に手紙を書くとすれば書き出しはどうしようか。


 やっぱり「拝啓」から始めて「お元気ですか」と続けるのが無難かな。

 相手の年代によっては時候の挨拶から入ったほうが好印象を与えられるかもしれない。



「気軽にこんにちは、から始めてもいいかもな」



 考えているうちに楽しくなってきて、思わず独り言をこぼしてしまう。



「その声、もしかしてゲンちゃん?」



 不意に声が聞こえた。


 はっと目を開いて周囲を見回す。


 静かな病棟で、今も忙しく動いているのはきっと看護師さんだけだろう。


 それに俺のことを「ゲンちゃん」と呼ぶのは愛花だけだ。

 家族でさえもうそんな子どもっぽい呼び方はしない。

 そして愛花はもうこの世にはいない、らしい。


 となると、現実的な答えは一つ。


 俺はいよいよ幻聴まで聞こえるようになったのだ。



「はは、笑える」



 検査の結果、脳に異常はないとお医者さんは言っていたが再検査をお願いしたほうがいいのかもしれない。



「異世界の幻を見つつ、愛花の幻聴を聞く。風流だな」



 もしかするといよいよ頭がおかしくなったのかもしれないけれど、意外と悲しくなかった。



「ゲンちゃん、あたしのこと見えてるの?」



 どうやら話しかけてくるタイプの幻聴のようだ。


 これって返事しても大丈夫なんだろうか。

 寝言に返事をしちゃいけない、みたいな話は聞いたことあるけど幻聴の場合はどうなんだろう。


 仮になにか不都合があるとして、今以上に自分がおかしくなるとは思えない。

 なにせ幻覚と幻聴のダブルパンチだ。

 次の幻が来るとしても、攻めてくる場所に困るだろう。


 来るとしたら鼻かな。

 味覚という線は薄そうだ。



「見えてない。手と足が見えてる」


「それ、あたしだよ」


「ウソつけ、愛花がこんな美脚なもんか。もっとブヨブヨだったはずだ」


「ちゃんと引き締まってましたー!」


「腕毛とかすね毛もモサモサ生えてたはずだ」


「そんなことないもん! 全身ツルツルだったもん!」



 抗議する愛花に合わせるように、ないはずの左目の視界が揺れる。

 なんとなくわかってきた。



「愛花だったら、自分の手のひらを見てみろ」


「え? 右手でいい? それとも左手のほうがいい?」


「どっちでもいいけど、じゃあ両手」


「わかった。けど、これでなにかわかるの?」


「俺の目がどことつながっているのかわかる」



 予想通り、左目の視界は二つの手のひらを映していた。


 俺がいかに愛花と幼馴染だったとはいえ、さすがに手相や指紋までは覚えていない。

 だから手を見ただけで、この人物が愛花なのかどうかまではわからない。


 しかしこれで左目の視界が、愛花と似た声をした人物と連動していることだけは間違いないだろう。



「鏡ないのか?」


「えーっとね、ちょっと待ってて」



 視界が動き出す。

 多分立ち上がったのだろう。


 そのまま木造家屋の階段を駆け下り、扉から外へ出る。


 向こうの世界も夜のようで外は暗い。

 街灯もないため、夜空に星が輝いているのがよく見える。

 まるで塩をこぼしたようだ。


 外へ出るための光源はランタンを手に持っているらしい。

 そのせいか周囲だけぼんやりと明るい。


 しかし自分の身体が動いていないのに、視界だけが動くのは妙な感じだ。

 乗り物酔いに近い感覚がこみ上げてくる。


 気持ち悪さに負けて、右目を開けようかと検討していると視界の揺れが収まった。



「これでどうかな?」



 今、見えているのは小川の水面である。

 そこにはたしかに人物の顔が映り込んでいた。



「ふん、やはりニセモノだな。水面を鏡として利用するなんてことを、あの愛花が思いつくはずない!」


「あたしってどれだけバカだと思われてるの?」



 冗談じみたやりとりはこれまでにして、再び視界に集中する。

 水面に映っている少女の顔は愛花そっくりだ。


 違っていることといえば、髪の長さだろうか。

 無造作に伸ばしっぱなしだった現実の愛花と違い、水面の愛花はポニーテールに結わえている。


 そしてなんだか目の色が違うように見える。

 だがランタンの明かりだけでは、色合いまではわからない。


 もっとちゃんと見ようとしていると、水面に映る愛花は手のひらで目元をこすった。

 そのたびに俺の視界が遮られる。


 それはまるで泣いているのをごまかそうとするような仕草だ。



「どうかしたのか?」


「ううん、なんでもない」



 涙声になっているくせに、まだごまかせると思っているところはすごく愛花っぽい。



「ただ、ゲンちゃんの声を聞いたらホッとしちゃって。気づいたら知ってる人は誰もいないし、ここはどこだかよくわからないし……」


「もう泣くな。大丈夫だから」


「本物のゲンちゃんだよね?」


「俺のニセモノがいるもんか」


「あたしのこと本物だって信じてくれる?」


「そんな声と顔で泣きべそをかくのは愛花だけだよ」


「泣いてない」


「わかってるよ。とにかく、もう大丈夫だから心配するな」


「うん」



 鼻をぐずぐずと言わせながら、愛花がうなずく。


 いったいこの状況をどう捉えるべきなのか。


 今だって幻覚や幻聴という可能性を否定することはできない。

 心の弱った俺が自分を慰めるためだけに構築した都合のいい幻という考え方だ。


 だけど、事故が原因で異世界に引っ越ししてしまった愛花とつながっているという可能性だって否定できないだろう。


 どちらが真実なのかを証明する方法はない。

 だったら俺がどちらの説を信じるか、というだけのことである。


 それなら答えは簡単だ。


 たとえ幻でも、愛花が泣かないほうがいいに決まっている。


 愛花の声が聞こえて、そして困っている。

 そんな状況で俺の頭がおかしいかどうかなんてどうでもいいことだ。



「ねぇねぇ、ちょっと考えたんだけどさ」



 何度か目元をこすった愛花の声は、もう普段の明るさを取り戻していた。



「これがゲンちゃんの言ってた、転生、ってことなのかな?」


「かもな。俺もまさか本当に起こるとは思ってなかったよ」


「あたしも。こんなことならもっとちゃんと映画を観ておけばよかったよ」



 たしかに俺たちは事故の直前、そういう物語について話をしていた。


 しかし、だとすれば死ぬのは愛花ではなく俺であるべきじゃないのか。

 それで異世界に行って、楽しく暮らすのが正道というものだろう。


 嘆いても仕方がないとはわかっているが、文句も言いたくなる。


 あるいはこの左目はせめてものお詫びということなのだろうか。



「ゲンちゃん、あたしどうすればいい?」



 声が聞こえ、視界を共有することができている。


 ならば俺はまだ、愛花にしてやれることがある。



「心配するな。自慢じゃないが俺は異世界に詳しい。映画もアニメも小説もかなりの数を勉強してきた。その俺がついているんだから怖いものなしだろう」


「うん、そうだね!」


「なにより異世界へ転生した人間は、そのほとんどが幸せになるものだ。心配することはないよ」



 まぁ例外もいくつか知っている。


 風土や習慣はもちろん、法則や理さえ異なる世界に翻弄されてボロボロになる話だ。

 できれば愛花にはそういう目に遭ってほしくない。



「ていうか」



 呆れと困惑と安堵感と。

 愛花が異世界へ行ってしまったことに対して思うところは多々ある。


 左目を失ってから初めて感じる、それらの強い感情を抑えきれずに俺はつい笑ってしまう。


 そしてつぶやいた。



「俺が転生するんじゃないのかよ」


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