第11話 ニシジマコウスケ4

 ポケットにしまったスマホを気にしないようにしているのはすでに気にしている証拠だ。

 メールに書かれているであろう何かしらの言葉が僕を傷つけるものかわからないけど開く勇気が見当たらないのだ。

 昼食で立ち寄ったハンバーガーチェーンの前でしばらく立ち止まってポケットをなでまわすが寒いわけではない。

「まったくチキン野郎ですね」

 不意に浴びせられた言葉に僕はポケットをなでるのをやめ、ため息をついた。

 困った事に不安定な気持ちがその声を聞いてある種の安定を感じたのだ。体の中で硬直していたものがゆっくりと流れはじめる。

「とりあえず車に乗ってくださいあなたの力が必要です」

 牧田は当然といわんばかりに止めてあるメルセデスの後部座席のドアを開けた。

「牧田さん、すみません今仕事中なんです。終わってからじゃダメかな」

 一応普通の社会人なので普通に切り出してみると牧田はにやりと笑って僕の右手の袖を掴んで引き寄せた。

 抱えているサンプルの束を落としそうになる。キスでもしそうなほど顔が近いのが気になったが、牧田の冷たい瞳ですぐに冷静になる。

「もうそんな仕事しなくていいですよ、どうせあなたはクビになります。すでにリストラの対象者になっています。というか今日そうなります」

 そういって再び僕を突き放す。

 リストラ?僕は営業部のエースで成績だってトップクラス、そんな僕が一週間体調不良で休んだだけでリストラ候補とはありえないだろうと思いながら牧田を睨む。

 確かにこの何日か営業不振ではあるけど挽回すればいい、いったいこの女は何を言っているのやら見当違いもはなはだしい。

「西島さん、知っていましたか、先週お別れした彼女のご実家が何をやっているか」

 僕はミカの実家がそこそこ金持ちなのは知っていたが何を生業としているかまるで興味が無かった。ミカも話すことが無かったのであえて聞くことはしない。

「それで、僕のリストラ情報とミカの家がどう関係してくるんですか?」

 ふふふと笑った牧田が、哀れみの混じった楽しげな表情をする。

「彼女の実家は、西島さんがお勤めの会社のグループ企業の一つ、なんていいましたか忘れましたがそこの経営者ですよ、確か今は彼女さんのお兄さんが社長をしています。あなたみたいな芸術家崩れのメンヘラが営業でトップ取れるなんてありえないでしょ。ぜんぶ彼女のおかげですよ」

 そういえば入社以来、下から数える順番が指定席だった僕がいまの成績になったのは彼女と付き合い始めてから、トップの売り上げが一年続いて普通と思っていたのは幻想だったのか……

 数秒の間僕は思考停止に陥った。

「そうがっかりしなくてもいいですよ、西島さんはまだ役に立ちますから」

 牧田の慰めはいちいち突き刺さる。まだ役に立つって何だよ。壊れかけの家電みたいに言いやがって、癌を患っているときとおんなじじゃないかと憤る、が、だいたいの経緯を理解した僕は躊躇いがちに商品サンプルを歩道の植え込みの横に置き去りにしてメルセデスに乗り込んだ。牧田がいいんですかと聞いたが不機嫌にいいんだと答えると一つ息をついた。

「それで、僕は何をすればいいんだ?もう才能なんて無いんだろ、命でも差し出すのか」

 やけくそで言った言葉に牧田は悲しげな目で僕を見た。どSなオーラはみじんも無い表情は申し訳なさであふれそうだ。

「なっ、なんだよ、ほんとに命を差し出すのか?」

 牧田はその事には答えず僕の描いた絵を借りたいと言った。


 もうすぐ契約切れになる僕の住むボロアパートの前には、牧田の同僚らしい別のチームが作業服姿で待機していた。

 僕は浴室で乾燥してある絵を彼らに渡す。彼らは手馴れた感じで梱包し始め数分のうちに厳重な荷物が完成した。

「随分と厳重だな、そんなに価値があるのか……」

 僕の眼識は基準が一般化してしまいイメージでしか自分の絵画がすごいことがわからなくなっていた。寂しさが沸いてくる。もう僕は作者として本当の意味や絵の持つ本質を感じる事が出来ないのだ。これからの人生で見ることにだけ専念して画商のような見る目を持ったとしてもそれはまったく別の感覚で、僕の中にあった才能を刺激していたものとは違うと思う。もうその世界からは、はじき出され蚊帳の外だ。生きているのに死んだみたいだと思った。寿命を手に入れてもそんな人生は惨めなだけで何の価値もないのかもしれない。随分と薄まったがまだ絵画に対する想いみたいなものは僕の胃を締め上げる。

「全てはこの絵のせいです。これから西島さんには責任を取ってもらうことになります」

 牧田がこの街を覆い始めた黒雲を見つめて言ったが、意味は理解できない。

 つられて見上げた空はすでに日差しがさえぎられ恐ろしく曇っている。

「いやな天気だな」

 僕は身震いして部屋の鍵をかけた。

「さあ、行きましょう時間がありません」

 牧田に促され車に乗り込んだ。

 絵をつんだ車はとっくに出発してもう見えなくなっていた。

「そろそろ聞かせてくれないか、何か起こっているんだろ、責任を取るとはどういう事かな、僕が絵をかいたせいで困った事になっているのか?僕には理解できないけど」

 牧田は空と同じ表情で僕を見た、いや睨んだ。

「私達があなた方人間と違う事は気づいていますよね」

 僕は曖昧に頷いた。はっきり認めてしまうと何かが崩れそうで怖かった。

「我々がどこから来たのか、簡単に言うと地球の未来とでも言いましょうか、ずっと先の時代と言うと語弊がありますが時間軸はあなた方と同じです。ただこの世界と同じ時間でありながらすでに宇宙の物理法則をすべて証明した世界が別の時空に存在しています。地上に初めて発生した種が何度かの危機を乗り越え最終進化を終えた稀な人類、それが我々の存在する世界です。すでに個人の肉体とか精神はネットワークとの融合によって失われ昇華しました。ただ共同体がネットワークの中で存在しているだけです。そんな世界があなた方の時間で300年ほど前から終焉を迎えようとしています。はっきりと追い詰められたネットワークに200年ほど前から新たな自我が芽生えました。この平和的融合無意識になって数千年の間経験した事のない事態に意識の塊りは生き延びるための計算を始めたんです。そこで導き出した答えが原始人類の寿命を物質として取り出し、ある植物と混合して特殊なエネルギーを作り世界を満たす。そうすれば枯渇した惑星の生命力がある程度維持される」

 僕はそんな技術があるならほかの惑星に行けばいいのではと何気ない疑問を思った。

「西島さんの原始人らしい疑問はもっともですが」

 何となく気づいていたが牧田は思考が読めるらしい。

「今、この宇宙には地球よりはるかに進んだ種族が存在しています。でもなぜ地球に来ないのかわかりますか?」僕は遠いからとふざけた口調で答えたが、牧田は僕に答えなど求めていないようで無視するみたいに話を進めた。

「あなた方人類もあと四、五世紀もすれば気づきますが、その惑星で発生した種族はそこを離れて生きる事は出来ないのですよ、惑星と生命はセットです。我々も昔は惑星移住に没頭した時代がありましたが、もって十年、惑星も生物と同じで異物に対して拒否反応があります。アレルゲンに対するある種の攻撃を仕掛けてくるのとおなじですぐに抗体たる生物が現れて駆逐されます。抗ってもその星が死ぬほどのダメージを受けて結局は居住不能の惑星を作るだけでした。母星から離れるほど人の生体エネルギーも弱くなる事も実証されています」

 なんか宇宙に対する夢も希望も失われる話だな。SFオタクとJAXAが聞いたらさぞがっかりするだろう。

「あらゆる銀河に探査機を飛ばして原始人類に似た種を探しましたが結局たどり着いたのが別の時空の地球、西島さんのいるこの世界です」

 牧田が、地球人類の成れの果てでこちらの世界に存在しているのは理解できるが、それと僕の描いた絵がどう関係しているのだろう。

「この世界と我々の世界をつなぐためには未来の技術をもってしても容易ではありませんでした。ちなみにこの世界はいくつもある中の一つです。ここにたどり着くまでに多くの失敗がありました。失敗するとその世界が崩壊します。ここへは6回目の接続でやっと安定的につながりました。そのときつながった場所が某国の国立美術館のフロアです。それで気づいたんです、空間を安定させるためには、ある種の要となるものが必要だと、しかし何なのかわかるまで時間とエネルギーを使いましたけど、それが絵画だったんです。

 名画の中にはある種の力を持ったものがあります。お札とか、結界を張る法具のような力、ただそれとは比べ物にならない強力な力です。規模の大きい空間接続ほど力のある絵画が必要で、さらに長期にわたる安定した接続にはその世界で最高の絵画が必要なんです。しかもそれを描ける人間は限られている。ゲートキーパーと我々は呼んでいます。

不思議な事にどんなに強力な空間維持絵画でもそれを越える物が現れると古いものはその効力を失う」

 車はもうすぐ施設に着く頃で辺りは大雪で視界が悪かった。牧田がこの雪も空間の安定がなくなったことによるものだと言った。

「私は西島さんの才能の見積を見誤った。あなたの絵の才能はすばらし物ですが、まさかあなたがゲートキープの能力者だとは気づきませんでした。多少の能力はお持ちでもまさかホールの絵を越えるほどのものとは思っていなかった。あの絵は百年に一度の物と信じられてきたんです。五十年前に、ゲートキープ力のある無名の少年が残した作品です。その才能と能力は死にかけの少年に45年の寿命を約束しました。類まれなる才能で描かれた絵は世界の中心となったあの空間を強力に維持しています」

 牧田は少年を知っているかのように遠い眼をしている。

「でも、どうしてそちらの種族は仲介業とか面倒な手段で寿命を集めるんだ?世界を壊してまで異界の接続をしているのに、力ずくで奪わないんだ?」

 牧田はクスクスと笑い「そうですね」と言ってカバンから透明の容器を取り出した。

中には虹色に輝く小さな球体が一つ浮いている。それは中に油性の液体でも入っているように流動的に見える。

「綺麗でしょ、これが我々の精製した寿命のカタマリ、惑星のためのエネルギーです。このカタマリは拒絶した寿命からは作れない、無理に作ると濁った不良品しか出来ないのです。穏やかに交渉して同意してくれた寿命からのみ精製される」

 穏やかな交渉って……そんなんじゃなかった様な……

 情けない事に僕はすかっり怖気ずいていた。これから自分に降りかかる運命がはっきりと見えたような気がしたからだ。

 たぶん僕は自分の才能の海に放り出され光の対となる絵を描かされることになるだろう。

 それはおそらくとてもリスクの高い事なんじゃないだろうか。自分の命と引き換えにするぐらいに。

「西島さんにはこれから絵を描いてもらいたいのです」

 牧田が真剣な顔で言った。やっぱりそうかと、当たりが出たのに全然うれしくない。

「で、でも僕にはもう才能が……」

 唇が変に震えるのがイヤで言葉を切った。

「今、才能を譲渡した人たちがスタンバイしています。彼らがあなたに協力することに同意しています。いわば才能の電池として手助けしてくれるという感じです」

 電池って?電池の着ぐるみを着た大人が僕にしがみついている絵が浮かんできた。

「西島さんふざけた想像はしなくてもいいですよ。ちゃんとした装置がありますから、あなたは施設の中で絵の制作に打ち込んでください」

 僕は何も言わずに車の窓にこびりついた雪を見つめた。

「ただ、非常に残念なのはこの作業によってがん細胞をブロックしていたシールドが崩れ西島さんは……確実に死ぬという事です」

 予想どおりの展開に腹の中にもやもやと漂っていた違和感は消え去りはっきりとした恐怖が僕を支配した。

「ちなみに、僕が断ったらどうなるんだ?」

 恐る恐る聞いてみた。

「断ってもかまいませんが、西島さんが死ぬ事に変わりありませんよ。このままいけば後半年ほどでこの世界は終わります。さっきも言ったように空間接続が不良となった場合一方の世界が崩壊します。我々の世界は空間修復技術によって守られますから心配は要りません」

 世界を一つ崩壊に導こうとしているのに罪悪感がまったく無い牧田の表情に鳩尾が引きつってはきそうになる。

「君らは悪魔なのか、その装置を使ってこちら側を助ける考えは無いのか?」

「それは無理です小さい亀裂ならどちらからでも修復可能ですが。ある程度広いものは膨大なエネルギーを必要とします。今現在の接続の修復にはだいたい太陽一個分です。つまり修復するにはこの空間の太陽を消滅させる事になります」

 かなりお人よしの僕でもだんだん腹が立ってきた。そもそも自分たちの都合でこちらに干渉してきたのに、自分たちを守るためにこちらを犠牲にすることに躊躇いもないらしい。

「西島さん、結局は弱肉強食ですあなたがどう思おうが我々だって滅びたくない、出来ればこのまま接続したままで両方の世界の安定を望みます」

 牧田の作り笑いが僕を覗き込む。世界を救うための自己犠牲というフレーズが頭の中で回りだしたが踏ん切りなんてつくはずもなく気分が落ちていくだけだった。

 逃げ出したい気持ちで一杯だ。命が助かって十日ほどしか経ってないのにまたしても死の宣告とは、つくづくついていない運の悪さにため息が出た。

「西島さん、(世界を救え)なんてセリフ私には言えませんが、こうは考えられませんか」

 牧田がかしこまって、僕の想像を覆す優しさあふれる表情をした。

「あなたは絵の完成形が見たいと考えている。完成させなかった事を後悔もしている。それができるかもしれない最後のチャンスです」

才能を買い取るときとはえらい違いだ優しさ押しでくるとは牧田には悪いが何の感慨も湧いてこない。

 才能を失うとは作品に対する情熱やこだわりまで削ぎとってしまうらしい。

 どこか気持ちが付いていかな思いが先行して何だかめんどうくさくなってきた。

 これがきっと凡人の限界なのだと思う。才能の無い人間はすぐに妥協できる。

 同時になぜ自分がこんな目に会わなければいけないのか不思議で仕方ない。

「少し考える時間あるかな」

 僕がそう告げたとき車が地下の駐車場に降りはじめた。

「部屋を用意します。待つのは六時間です。我々もこの規模の接続修復をするのは初めてですのでなるべく早くお願いします」

 そう言って牧田は車を降りた。


 上階の部屋へ案内され、他の関係者にはお待ちいただくことになったと牧田は言って部屋を出て行った。去り際に牧田が言った「ごゆっくり」に嫌味な感じが無かったのにほっとして窓際の椅子に腰掛けた。

 しばらく黙り込んで窓の外を見ていたが、スマホのバイブレーションが響く。

 さっきから何度かスマホが震えたのは会社からだろう。電源を切って無視しようとしてスマホを取ると大事な事を思い出した。美由紀からのメールを確認していない。もう躊躇う気持ちは無かったので、とっさに画面を開くと数件あるラインを無視して未開封のメールから懐かしいアドレスを選択してタップした。


(ご無沙汰しております。まずあなたの前から黙っていなくなった事をお許しください。こちらの事情でご挨拶が出来ませんでした。と言っても言い訳ですよね)

 相変わらず絵文字とかない文章でつづられた画面に懐かしさを感じる。ミカの絵文字だらけのラインとは対極にある。

(添付された絵を見ました。私の想像なんてかるく超えてしまいましたね。正直ビックリしています。もう絵を描かないのかと思い諦めていました。またあなたの絵を見ることが出来て嬉しいです。ほんとは直接見たいのですが、今はお会いできないので少し残念です。追伸、見せてもらった絵は2枚組みですよね、出来上がりを楽しみにしています)


 僕は返信を選択して(会いたい)と入力して思いとどまった。メールに僕への想いは綴られていない、いなくなった理由の一つも僕に教える事が出来ないのだろうか。

「何やってんだ?」

 そう呟いてからベッドにスマホを放り投げた。

 なんで黙って居なくなった。疑問と身勝手な憤りだけが僕を支配した。


 僕の中で眠っていた気持ちが巨大な泡みたいに暗闇からあふれてくる。消えてしまった彼女との時間が音もなく崩れていく、何年も心の中で熟成した想い出は一つのメールで形を変えてしまった。暗い部屋で眺めていた雪景色は涙でぼやけて鼻水まで垂れ流しだ。

 僕の独りよがりか。

 美由紀と過ごした時間が僕の人生で一番幸福を感じられていたのに、運命というのは何で僕からそれを取り上げたんだ。しかもどんなに抗っても、もう会う事は無いだろう。

 牧田に交換条件でも出して無理やりつれてきてもらってもそれは意味の無い事で不幸なだけだ。


 僕の人生に意味を持たせるためには絵を描くしかないのだろうか。問いに答えてくれる者も無く時間だけが過ぎていく。


 六時間ぴったりに部屋のドアがノックされた。

 僕はふてくされるようにベッドに転がって、答えにたどりつけずループする考えに溺れそうになっていた。

「お気持ちは決まりましたか?」

 牧田が優しく声をかけたのを無視して答えないまま起き上がった。もう考える余地は無いだろう。選択の結果が同じなら自分のできる事をすべきなのだ。

「美由紀さんに会いたいですか。こちらとしましてもできるだけの事はします」

 僕はその提案を強く拒否して部屋を出た。

「意外です。西島さんは無様に会いたがると思っていましたので、準備は進めておいたのですが、無駄になりましたね」

「いったい俺はどう見られていたんだよ、まったく」

 僕らは3階にある会議室に入った。

 部屋に入ると中年ちょっと前ぐらいの男女が待っていた。

「こちらが才能を譲渡した方たちです」

 僕は女性のほうを見て「あっ」と声を上げた。以前、期限ギリギリのクッキーをもらったコンビニの女店長だと気づいたのだ。最初こそ思い出せずにきょとんとしていた女店長だったが、病弱そうなサラリーマンを思い出して驚いていた。

もう一人の男が「何だ、知り合いなのか」と困惑している。

「提供者と受給者はかかわりがあることが普通ですよ、かかわった受給者がどれだけ才能にこだわっているかで譲渡先が決まるといっても過言ではありません。どんなに些細かは関係ありません。みなさんどこかですれ違っています。提供者はその時、何らかの思いを抱く、そして絆を作って適合がきまる」

 そうなのかと思って記憶をたどるが男のほうは全く思い出せなかった。

「思い出せないのは、非常に短いすれ違いだったんでしょう。ただし抱いた思いは強い殺意とかですね」牧田が無表情に言った。

 受給者の二人が僕を見るので思い切り否定した。


「それでは皆さんおそろいのようなので」

 そう言って牧田が一連の流れを説明した。僕に課された制作時間は八日間その間他の二人は電池としてある装置に入って眠り続け僕の才能器官として活動が出来ないらしい。

 それで絵が完成しなければ牧田たち未来人はお国に帰還してそれでおしまい。

 修復の準備が整った半年後にはめでたくこちらの世界は破滅するというなんとも簡単な流れだ。

 既に太陽エネルギー搾取用の無人宇宙船が水星あたりにいるらしい。

 ご丁寧な説明に、女店長の野瀬さんと米田と言う男は信じられないという顔をして牧田と僕を交互に見た。

「西島君、大丈夫なの?」

 不安顔な野瀬さんの質問に僕は笑顔でごまかしてみたが、まるっきり自信が無かった。

 才能が無いのでまったく描ける気がしなかった。

 大学の頃に培った技術のみで言うならそれなりに物の捉え方が出来るだろうと思う。しかし微妙な構図のバランスと僕の中にある表現すべきものを生み出すイメージはすがすがしいほどなにも無いのだ。

 電池式の才能器官なんてどこまで使えるのかすらわからない状況で、日にちを決められるのはプレッシャー以外の何ものでもない。

「俺たちは装置に入っている間どうなるんだ?」

 しばらく黙っていた米田という男が静かに語りかけた。柄の悪いシャツを着た男は見かけによらず小心者なのか少し表情が硬い。

「米田さんあいかわらずのチキン野郎ぶりに感服いたします。奥さんの事を気にしてらっしゃるのでしょうが、その辺はうまくやっています。あなたは今飛行機に乗って沖縄に向かっている事になっていますので大丈夫です。心置きなく昏睡してください、ギャラもすでに奥様にお届けしていますし、お土産のちんすこうとシーサーの置物は手配しておきますので」

 米田がほっとした表情でこちらを見た。

 こん睡状態になるのにこの人は奥さんの事だけが気になっていたらしい。仕事は大丈夫なのだろうか?

 そういえば僕だって仕事を投げ出してここにいる。もう戻る事は出来ないのに気持ちが落着かない、哀れな社会人癖が付き纏っていておかしくなりそうだ。

「皆さんこれからの事をご了承いただけるなら作業を進めたいのですが、よろしいですか?」

 僕らは顔を見合わせ頷いた。野瀬さんと米田は僕がこの仕事の後世界を救って(絵が描ければだけど)そして死んでいく事を知らないまま眠りに付く。何か僕だけ貧乏くじだなと思う。

 誰にも知られること無くひっそりといなくなる。僕は強く唇を引き締め拳を握る。負けそうな自分を鼓舞していないと立つこともかなわないと思う。


「誰かにお別れを言わなくてもいいですか」

 廊下を移動する途中で牧田が聞いてきた。

 そういわれて最初に思い浮かんだのがミカだった。不思議と美由紀の事は思わずに先日まで顔を思い出す手間すら惜しんでいた元カノを思い出すとは僕はおかしくなってしまったのだろうか。さっきまで美由紀との再会を望んでいた気持ちはなりを潜めた。ミカの本性と対峙した事でかえって僕の中での存在が大きくなっていたのかもしれない。殺したいほど綺麗な元カノの匂いを思い出しつつ僕は「別にいないと思う」と,お茶を濁した。

「そうですか、どうでもいいですが、ここでもスマホはつながりますので」

 そう言った牧田の顔を僕は無意識に覗き込んだ。

 牧田が一瞬驚いたように立ち止まる。僕もそれに合わせて立ち止まった時、牧田の瞳に吸い込まれるような感覚に襲われた。

 意識が全て乖離され深い真っ黒な空間へと投げ出され落ちてゆく……何も無い所……そう思ったと同時に意識は引きずり上げられハッとして我に返る。牧田が歪んだ表情で蒼白になり僕の胸ぐらを掴んできた。

「人の感情を覗くのは辞めてください、あなたいったい……まさか」

 そう告げると牧田は信じられないと言って僕を突き放した。息が荒い牧田に前を歩いていた野瀬さんと米田が気づいて不思議そうにこちらを伺う。突然の出来事に僕は立ち尽くし言葉が出ない。

「今はいいです。二度としないでください、終わるまで絵に集中してください」

 息を整えながら牧田が言った。いったい何が起こったかわからずに僕は困惑した。牧田の焦りは本物で僕は何かしてはいけない事をやってしまったらしい事はわかった。

 牧田が怯えるように早足になり僕らを促す。空気を読み取った僕は訳も聞けずに従うしかなかった。


 広い倉庫のような空間に通された。会議室と同じフロアにある部屋だが異様に広く取られた床面積に対して窓が少なかった。外側から見たこの建物は全面ガラス張りのように見えたがそうじゃないらしい。カーテンウォールの内側は一部壁で目隠しされた状態なのだろう。天井に半球状の照明が点在して、照らされた部屋の真ん中にはシングルベットぐらいの二つのカプセルが準備されている。電池みたいに直列に並び、球状のアンテナの様なものにつながれていた。

 その周りには医療機器のような機械があり計測用のモニターがよく分からない数値を示した画面を映し出していて、監視する3人のスタッフが忙しなく動いていた。

「野瀬さんと米田さんは着替えていただきます」

 牧田がそう言うとスタッフの一人が「こちらへどうぞ」と言って野瀬さんと米田を奥の隔て板で仕切られたスペースに連れて行った。

「西島さんにはこのクリームを全身に塗りこんで、この空間で作業してもらいます。この部屋の中ならどこで描いてもいいです。この部屋の中には二人の才能が充満して直接あなたに反応します」

 僕は体中にコードでも巻きつけられるんじゃないかと心配していたのでホッと胸をなでおろしボディークリームを受け取った。同時に先ほどの廊下での牧田が示した態度が気になり不安が増大する。

「さっきは何だった?僕が何か失礼な事でもしたのか」

 勇気を出して不安のきっかけになった牧田の態度の説明を求めた。

「お気になさらずに絵に集中してください」

 明らかに僕から視線をそらせこちらを見ようとしない牧田に苛立ったが、答えてはくれそうも無い。僕は諦めてスタッフの一人に頼んで、部屋の隅に制作スペースを作るよう指示を始めた。


 しばらくすると米田と野瀬さんが健康診断でもするような薄緑の病衣を着せられて戻ってきた。米田はこの前も病院でこんな格好をさせられたと言って裾をなるべく伸ばそうともがきながら不満を述べている。確かに脛の辺りが短すぎてバランスが変だ。しかも顔に似合わず脛毛の薄い綺麗な足で、僕は思わず笑ってしまい米田と目が合うと「こっち見んじゃねえ」と怒鳴られた。

「お二人とも準備はよろしいですね、それでは」

 スタッフの指示に従い二人はカプセルの中に仰向けで横になり透明の扉が閉められた。不安そうな表情で野瀬さんが僕のほうを見たが、カプセルが鈍く発光した後数秒で眠りに付いた。

 僕はクリームを全身に塗りたぐってから椅子に座り才能とやらが感じられるのを待った。

 昏睡している二人を監視する機器のノイズが聞こえる。一定の周期で波のあるノイズが聴覚を刺激して少しわずらわしい。さっきまで忙しなく動いていた監視スタッフはモニターを見つめたまま動く気配は無く人形なんじゃないかと錯覚した。

 牧田はカプセルで眠りに付いた二人を確認すると僕に内線用の携帯を預けてどこかへ行ってしまった。

 準備された制作スペースには僕の描いた絵が置かれてその隣には何も描かれていないキャンバスがイーゼルにセットしてある。待っていても手持ち無沙汰なので僕は用意されたスケッチブックを開きデッサンしてみる。

 何かしらの手ごたえを捕まえようと奮闘してみるが現れるのは頭でっかちで技術頼みな線の集合体、これでは表現とは言えない。僕は一度ペンを置きズボンのポケットからスマホを取り出しスクリーンをタッチした。

 明るくなる画面のロックを解除して連絡先をスクロールしてみるが誰に連絡するのかも迷いそれに見合う最後の別れの言葉も見つからずため息ばかりが出た。


 気持ちはもやもやとするばかりで晴れる気配は無く、スケッチブックとにらみ合って二日経つが才能が目を覚ます事が無かった。

 そろそろここの幕の内弁当にも飽きてきた。

「困りましたね」

 牧田が無表情のまま僕に言った。一度、何も考えずにキャンバスに絵の具を塗りつけたがすぐに筆が止まってしまい無意味な色彩が現れただけだった。絵を描きたいなんて気持ちが衝動的に体を動かすとか思ってみてもイメージ通りには行かない。

 それに2時間ほど前からやけに横腹あたりが疼く。思い出したくない物をはっきりと認識し始めた。この苦行をさっさと終わらせれば生き残れるかも、なんて思うと余計にインスピレーションが薄れていくし、頭と体が硬くなるのがわかる。

 いい加減諦めればいいのに、どうしても振り切れない自分がいる。

「少し機械を調整しますので休んでいてください」

 牧田が部屋の隅に用意してくれたベッドに促した。トイレとシャワー以外この部屋を出る事を禁じられた僕は言われたとおりに動くしかない。しばらくのあいだ牧田がスタッフとなにやら話していたが、方針が決まったのか冷たいまなざしで僕の所へ戻ってきた。

「どうかしたのか?」

 僕はわき腹をさすりながら聞いた。

「このままでは何も無いまま時間だけが過ぎそうなので、西島さんを少々追い詰めようと思います。」

「と言うと?」不安はすでに許容範囲をこえてあふれ出しているのでこれ以上は追い詰められそうも無い、それでも牧田の同情などしない視線を見るとさらなる覚悟をせざるおえないようだ。

「これを飲んでください」

 唐突にサイズの小さい缶を渡された。それは黒色でバーコードのシールだけが貼られたもので僕は缶コーヒーなのだろうと思った。

「今はコーヒーって気分じゃないな、どっちかって言うと紅茶かな」

 僕が缶を返そうとすると、あいかわらず表情を変えないまま牧田はそれを押し返した。

「コーヒータイムではありません、これを飲むと一枚目を描いたときと同じくらいの病状になります。痛み止めなしでは耐えられないほどの方が筆も進むんじゃないですか」

 今度は含み笑いを浮べたまま強引に押し付けてきた。

 今や僕の体なんて消耗品でしかないらしい、異世界のためにこの身をささげる生贄と化してしまったようだ。缶をもつ手が震えて落としそうになるのに耐える。牧田に同情されてもそれはそれで気持ち悪いけど、本当に追い詰められないと描けないのか?それって才能ある人間とはいえないのではないか。

 結局才能あっても開花できずに死んでいく人間は案外多いのだろうか。

「その通りですよ、人間なんてきっかけがなければ、あっという間に取り返しの付かない年齢になる。何も成さないまますぐに死ぬ。だから我々の仕事が成り立つのです」

 牧田が無表情に口角だけ上げた。何て憎たらしい表情。

 僕の思考を読んだのか、まったく……僕は勝手に人の頭を覗いた仕返しとばかりにじっと牧田を見つめてその体に対して考えられる限りのエロい想像をした。

 時間が止まりしばらく見つめ合うような凝り固まったイメージが僕らを包む。急に周りが暗くなり牧田が不思議に光りだす。

「やめてください!前にも言ったはずです。それに私をそんな風に……」

 牧田の怒鳴り声でハッとして我に帰る。

 牧田が引きつった顔で僕を睨んで少し赤くなっている。高潮したような赤みは男の本性に初めて触れてしまった少女のようだ。

「あなたホントの変態ですか、こんな感情を私に植え付けないでください、おかしくなってしまいます」

 そう言って牧田は両足をもぞもぞとしながら両手で押さえ込むしぐさをした。

 気になっていたことだが、僕はどこか変だ。才能を譲渡した日から何かが変わってしまったようだ。このまま見つめれば牧田を完全にコントロールできるような気がしたのだ。

「そんなに怒らなくてもいいだろ、そっちだって僕の頭の中を覗くから」

 エロい想像の言い訳みたいに口ごもってみたが牧田は赤いままで「そういう事を言っているんじゃないんです」そう言って黒缶だけ置いてさっさと行ってしまった。

 しばらく黒缶を眺めて考え込んだ。これを飲んだら間違いなくあの世行き、と言うかもう決まっている事実が早まるだけか、なんともはっきりとした未来だろう。

.

 黒缶を飲み干してから数時間が経つ、未だに感情的能力的変化はないが、わき腹の痛みだけは確実に増していた。さっき牧田が見慣れて痛み止めを持ってきた。病院でもらっていた物と同じだ。体はだるく起き上がるとめまいに襲われた。次に薬が切れると確実に死んだほうがましと思えるほどの痛みで僕の精神は崩壊しかけるだろう。どうせ死ぬならやっぱり人類滅亡でもよかったのではないかと思い始めた。

 少し眠ろう、そんなうつろな状態のほんのわずかな一瞬僕の脳裏に恐ろしく深い闇のイメージが写った。一度大きく目を見開いて一枚目の絵を凝視する。そこには脳みそが焼けるほど強烈な光が描かれていて明らかに僕が描いたものという確信にも似た満足感があふれ出した。

 横腹の痛みが地獄の象徴みたいに僕を闇へといざない、そこから見せられる光は神々しく輝いて僕を照らす。すぐに僕は目を閉じ暗闇を捕まえようと手を伸ばしたがその重みに耐え切れずに意識を失った。


 強烈な痛みで浅い睡眠から引きずり起こされる。朦朧としていたい意識が無神経な痛みのせいで僕にまどろみを与えてはくれない。それでも体は動こうとせずに二度三度と起き上がるリアルな夢を見せる。ぼくは何か悪い事したのかと神様に問いかけながらやっと本当に起き上がった。

 どうしてくれるんだ。これじゃあ絵を描くどころではない、一気に症状が進行したように感じるのは夢じゃないよな。

 僕は光の絵を睨んだ。きっと脳内物質の異常で描き上げてしまったに違いないと思いながら昨日から置いてあるペットボトルの水を飲み干した。飲み干したと同時に激しく咳き込んで飲んだ水を戻した。苦い味が口の中を支配するのがイヤでまた水を飲む。

「惨めな姿ですね。このままでは見込み薄いですね」

 牧田が頭上でささやいた。僕は這い蹲るような姿勢を建て直しベッドの横に座った。たった数十センチ移動しただけで酷い疲労感が体を包む。

「黒缶、症状が進みすぎなんだよ、これじゃまともに動く事もできないよ」

 牧田は痛み止めをくれ、僕はそれを飲んだ。

「残念なお知らせです。我々の撤退日がきまりました。五日後に元の世界に戻り修復準備にはいります。それまでに描いて頂かないとこの計画も終了します」

 機械的な牧田の宣言に何の感慨もないまま苦痛と対峙していた。

 すでに三日も経ったのにインスピレーションは未だに降りてはこなかった。どうやら電池使用の体では気持ちが付いていけないのか、簡単には絵は描けないらしいことにうすうす気づいていた。

 スマホが震えている。

 さっき薬を飲んだばかりでまだ体に力が入らない。それでも何とか腕を伸ばし、ベッドの脇のテーブルの上に置かれたスマホを掴んだ。

 画面には見慣れた写真と名前が表示されていて応答しようかどうかちょっと躊躇った。

別れたばかりの彼女からの電話の用件を想像できなかったし、あれだけ怒らせて別れたのにどうしてという疑問だけがおぼつかない頭の中で繰り返される。

 どうせもうすぐ死ぬ……最後に声ぐらい聞いておこうか。

「もしもし、浩介?大丈夫?今どこにいるの」

 以前のミカからは想像できないような弱々しい声だ。僕は体の苦痛を悟られないように勤めて明るい声を出した。声を出すたびに痛みが走り粘り気のある汗が湧いてくる。

「どうしたの、何か忘れ物とか……」

 忘れ物って何だよと自分に突っ込みをいれて次の言葉を待ちながら、どうしようもなく身構えてしまう僕は小心者なのだと痛感する。

「そうじゃなくて会社、無断欠勤しているでしょ、しかも連絡付かず行方不明、どういう事?後藤君が私に電話してきてどこか知らないかって、それでわたしアパートに行ったら、引越しの途中みたいな感じでビックリして」

「心配してくれるんだ」

 しばらく二人で黙り込んだ後同時に声を出した。

「あの」

 お互いに譲り合いながら僕が話し出す。

「もう会社は辞める。引っ越そうと思っていたんだけどイロイロばたばたしちゃって今ちょっと遠くにいるんだ」

 僕は情けない事に今更ではあるがミカに会いたいと思っていた。出来れば最後まで一緒にいたいなんて思うのは、やはり一人で死んでいくのが怖い。考えないようにしていたのに声を聞いた瞬間はっきりと意識してしまったのだ。

「僕は大丈夫だから心配しなくてもいいよ、それから、公園で最後に言った事、悪かった」

 僕は最後までいい人病のままいなくなるのだろう。それでいいいや、それがどうしようもなく自分で、人に気を使って自分が損してでも世界がうまく回ればそれでよしと思った。

 これじゃあ殻を破る前だな。

「あのね浩介、私も会社辞めたよ、あの後ね、彼が奥さんと別れるから結婚しようって言ってくれたんだけど、私ね、嬉しいはずなのに全然そんな気持ちになれなくて仕事していても浩介の事ばっかり考えている。だから会社も辞めて彼とも別れた……私たちがもうどうにもならない事はわかっているよ。でもね、やっぱり私は浩介が好きだよ」

 今すぐ会いたいなんてむしのいい事は僕からは言えない、それでもミカの気持ちは痛いほど僕の中に沁みてくる。

「ありがとう。うれしいよ、僕も君の事考えていた。でも、もう会えない、僕には許された時間がもうあまりないんだ……出来ればもう一度……」


 電話を切ってしばらくうなだれていた。今の電話で自分が死んでしまうという実感がとめどなくあふれ出して体を包み込んだ。何も成しえない、手に入ったものは消耗品だけで全てが消えてしまった。人生の選択を間違い続けた結果が今になって空白として僕の中で一番の領域を占めている。無くした物があまりにも大きすぎてイメージできなかった。

 今さら気づいたところでどうなるものではないか。こんな事では人類を救う絵なんて描けないだろう。情けない事に少しの絶望と引き換えに苦痛を取り除いてもらい数日の命を永らえるのもありだなと思えてきた。

 人類は戦う事さえなく別次元の未来人の生贄と化すのだ。そりゃ仕方ないさ、なんたって人類の救世主がこのザマだ。だいたい二枚組みの作品の一枚だけまぐれで描き上げるなんて間抜けにもほどがある。

 そこが僕の限界なのだとしたらなんと運のない人類なのだろう。

 僕はすでに人類を救う意味もわからなくなっていた。救ってどうなる?だって自分は死んで後に残された人間が幸せに暮らす。僕の幸福はどこにもなくこの世界から放り出される。天国なんて所詮人間の創造にすぎない、神が想像したはずの人間は神に助けられるはずもない、それは人間がいるから神が存在するんだよ、なんてひねた考えが持論と化した。

 もちろん生きてきた中で日本人として世界の宗教をあがめていたわけではないので神のことを考えるなんて生まれて初めてで想像もしていなかった。己がいざ自己犠牲というヒーローじみた行為の矢面に立たされると宗教にまで因縁をつけたくなった。

 イスラムの自爆テロの実行者は天国で70人の処女と快楽にふけるそうだが僕はイスラムでもないし、どちらかと言うと極端に信仰心の薄い仏教徒で死後の世界というのは天国の印象より子供の頃に見た地獄の絵本のイメージしかないのだ。困った事に僕はあの絵本が好きで怖がりながらも何度も見入ってしまった。

 こんな事なら見るんじゃなかったと思っても、もう遅い、僕の脳裏にしっかりと焼きついていて目を閉じればまぶたの裏はしっかりと地獄だ。

 なんてことだ、わずかばかりの絵を描くモチベーションがなくなってしまった。

 僕は絵を描く前に人類を救うための理由が必要なのだと思い知らされた。才能を無くすという事は才能に突き動かされていた衝動まで失うことだ。生きるために必要な物の順番が変化してしまったのだろう。才能を失う前だったら僕は間違いなく生きる事より作品を完成させる事を選んだに違いない。いくら電池式の才能があってもこの体では優先順位まで変えることは出来ないのかもしれない。


 牧田に僕の中の優先順位に対するこの感覚を話した。

 黙って聞いていた牧田がポツリと声を出す。

「地球を救う理由が必要なのですね」

 そう言うと「わかりました」と言って無表情のまま出て行った。取り残された僕に残された時間はあとどれくらいあるのだろう。床に置きっぱなしのスケッチブックをとりペンを走らせる。今の僕はモチベーションなど在りはしないが才能だけはあふれている。心の中を蔓の植物で満たすように線を連ねる。目に映るものを機械的にデッサンしているだけで落着こうとしていた。

 牧田はどうするつもりだろう。僕の両親でも連れてくるのかな、そんな事をしても無駄だろうと思った。両親もそんなに未来を必要としているわけでもなかろうに、こんな辛そうな息子を見たらきっと一緒に死んでくれるとか言いそうだなと思って、少し笑った。


 朝方管理スタッフから何かわからない注射をされると体がウソみたいに楽になった。未来の薬でも注射してくれたのだろうか。僕は気持ちよくもう一度眠りに付く……


 体がらくに目覚めるのは何日ぶりだろう。高く広い天井と円形の照明を見ながら病が癒えたような錯覚になる。駅ビルのパンケーキ食いたいな、ぼんやりと食欲が湧き上がる。

「あ、あの……」幼い子供の声がして天井への視線を外して横を見る。見覚えのない女の子がこちらを注意深く見つめているのに少し驚いてすぐに起き上がった。

「君は誰?」幼稚園ぐらいの女の子は僕の問いかけに答えていいのか躊躇して。後ろにいた牧田の方を見た。僕も釣られて牧田を見て、ああ牧田もいたんだなと思う。

 牧田が親切そうなお姉さんの笑顔で少女に頷いた。

「えーと、わたしは守屋美鈴、六歳です」

 そういうとニッコリと笑って僕を見た。この子が何だって言うのだろう。僕は助けを求めるように牧田に目配せした。

「こちら、守屋美由紀さん、旧姓倉下美由紀さんの娘さんです」

 牧田が見慣れた無表情のままで僕に告げる。美由紀の子供……六歳?

 僕はしばらく考えがまとまらずに牧田と美鈴ちゃんを交互に見た。僕との付き合いを捨てて実家に帰ってすぐに結婚して子供が出来た。としてもちょっと日にちが合わないような。僕と別れる前からすでに守屋という人物と交流があった。僕ははっきり捨てられたという事だろうか。情けない状況に気づかずに想像だけでずっと引きずっていた。

「西島さんあなたバカですね。美由紀さんがどういう人かわかっていなかったのですか?あなたのことだけを見て、あなたの事を考えていたのに気づきもしないで簡単に絵をやめて、自分の才能を無駄に生きてきた」

 美鈴ちゃんがきょとんとして牧田を見ている。その瞳は学生時代の美由紀の困ったときの目に似ていて僕はドキリとした。

「まだわからないのですか、あなた作品展の前に美由紀さんになんて言ったか覚えていないのですか?」

 僕は学生最後の作品展の制作風景を思い出してみた。なかなか梅雨の明けない夏だった。学生たちが作品を仕上げていた研究室でぼくは美由紀になんと言った。いなくなる前、美由紀が笑顔で僕のハッタリを聞いてくれている風景、僕は……「作品展で優秀賞を取って、とりあえず海外かな、俺の事なんて待たなくていいから」なんて言ってかっこつけていた事を思い出して血の気が引いた。若いとはいえ馬鹿な男だ。美由紀に甘えすぎだろ。

「西島さん、美由紀さんはあなたの邪魔をしたくなかった。子供が出来たなんて到底言えるわけもなく実家に戻って行った。あなたを捨てたわけじゃありません」

 全てを悟った僕は呆然と美鈴という女の子を見つめた。


 かなり反則なやり口で牧田が僕に父性を求めてきた。父親ならわが子を救うために困難に立ち向かわなければならないというロジックを有無をも言わさずに押し付けてきた。

だがいまひとつ合点がいかずに、僕は今、美鈴ちゃんとカフェレストランの出前のパンケーキを食べている。美鈴ちゃんのは小さなお子様用でフルーツとクリームがたっぷりのカラフルなもの、僕のはシロップだけのシンプルなパンケーキ、正直食欲なんてないが務めて楽しく食べた。


「お母さんはどうしているの?」

 僕は気遣いなどそっちのけで情報収集に走った。

「お母さんは今入院中だよ」

 入院という響きにこの前のメールの「今は会えない」が重なる。病気だからなのか今のダンナに気を使っての事なのかわからないが、どっちにしろ会えない現実は変わらないだろう。

 しかしよくこの子を連れてくることが出来たなと思うと同時に、牧田の奴、誘拐してきたんじゃないよなと不安になる。

「失礼な事思わないでください」

 牧田がどんよりとした顔で現れた。「美鈴ちゃん夕方にはお家に帰ろうね。今日はありがとう。こんなおじさんのお見舞いに来てくれて」そういって僕を見た。まるで何にも出来ない僕をげんなりしたような顔で見ている。


 僕の娘、守屋美鈴は自分の幼稚園の事や田舎の家の事を楽しそうにはなしてくれた。

 そして美由紀に似た瞳で僕を見て不意にスケッチブックを見たいと言い出した。

「練習用だから意味のないものだよ」そう言ってスケッチブックを手渡すと嬉しそうに中を見始めた。ここ何日かの無意味な線の羅列を楽しげに見る僕の娘らしい美鈴ちゃん。

 すごい、じょうずを連発しているその熱心な姿を見ていると不思議な気持ちになる。

「絵がすきなの?」

 美鈴ちゃんはまぶしすぎる笑顔で「ウン」と答えた。

 ぼくの知らない所で僕の遺伝子が育って今目の前にいる。生きている。もちろん美鈴は僕が本当の父親とは知らずにおじさんと呼んで笑うのが複雑な感じではあるが、いきなりパパなんて呼ばれても困るだけだろう。

「おじさん、これはママ?」

 キラキラした瞳で僕に話しかけた美鈴の横からスケッチブックを覗き込む。朦朧とした意識で描いただろう美由紀の肖像が微笑んでいる。それはまだ学生だった頃の美由紀でもう僕の記憶の中だけにいる遠い日の美由紀なのだ。

「おじさんはお母さんのおともだち?」

 僕が「昔ね」と言って頷くと少し首をかしげて何か納得いかないように「ママ、昔は元気だったんだね……もうずっと入院しているの」そういって黙り込んだ。

 入院しているらしい美由紀、僕はどうする事もできない、このまま地球が滅亡すれば全ての苦痛から開放されるのかな。

「みすずね、パパと一緒にママがよくなるように神様にお願いしているの」

 パパという言葉に一瞬たじろいで「ああ」と思う。僕の事ではなく今の美由紀の旦那さんのことで僕なんて1ミリも関係ない。関係ないのだがなぜか胸が痛んだ。

 この嫉妬にも似た感情は何だろう。

 僕は死ぬ前からすでに、全ての事から部外者だったのではないのか、ミカの事だって、会社の事だって結局僕は何もしてない。そんな男が幸せになれるはずもなくヒーローフラグが立ったとたん、その才能はなんの役にもたちそうもない。

 牧田が不意に真面目な顔をして僕を見た。「西島さん、あなたはしっかりと主人公ですよ、世界の終わりにこれほどしっくりとくる人はいない。臆病で何も出来なくて、助けられるはずの滅び行く人類を指をくわえてみているだけ」

 酷く毒のある言い方で僕を挑発してくる。

「いつも部外者であることを決めたのはあなた自身でしょ、美由紀さんがいなくなった時、なんで迎えに行かなかったのですか?元カノとの関係も会社の事も全てはあなたの問題で、全てに目を瞑って生きてきた」

 そう、それこそが僕の生き方で、健康によって生き方が阻害されたのだ。

 僕は守屋美鈴の手からスケッチブックをもらい美由紀の肖像画を見つめた。

「美鈴ちゃんお母さんはきっとよくなる。僕が保障する」


 美鈴はその日の夕方に帰っていった。

「牧田さん、美由紀を助けてくれ……それが僕の条件だ。あと3日で描く」

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