第8話 ニシジマコウスケ3

 牧田がエントランスホールに飾られてある対の絵をどう思うかと聞いてきた。

 昼過ぎに目覚めて、ぼんやりした頭で昼食に出された料理を食べた。以前彼女に連れて行かれたインドネシア料理みたいでカレーっぽい物が数種類小鉢に分けられたワンプレートの料理は日本人には馴染みのない味だ。寝起きの胃袋には少し重い見た目だが、食べるとイメージを裏切りさっぱりして体の血の巡りまで良くなるような気がしてくる。そういえばわき腹の痛みも無いし昨日まで感じていただるさも消えていた。

 牧田に治ったのかと聞いたが完治したわけじゃないらしい。牧田曰く泣き喚く子供を眠らせたようなものらしい。要するに小さくして活動停止しているという事だ。

 100年は目覚めないでしょうとドヤ顔と上から目線を押し付けて牧田は鼻で笑う。なぜだ? 才能を無くして、凡人になった僕を軽んじているとしか思えない態度だが、あった時から変わらないことにすぐに気が付いてほっとする。そんなやり取りの後、のんびりしないでとせかされてエントランスホールに立つと唐突に絵の質問だ。

「どうと聞かれてもいい絵ですとしか答えようが……構図も申し分ないし色彩も」

「西島さん、今のあなたの意見などどうでもいいです。最初にここへ来た時の感想です。何か感じませんでしたか。記憶が消えたわけじゃないですよね」

 牧田がなぜこだわるのか解らないが彼女が何か焦っているのはわかる。僕は改めて対になる二つの絵、光と闇を見た。

「確かに今は、凄いとしか感じない。だけどここにはじめて来た時は違和感があった。どうしてこのすばらしいホールにあんな力の無い絵を飾るのだろう、そのせいで全てが台無しのような気がしたのは確かだし、このホールのバランスは辛うじて保たれているように思う」

 僕の感想に牧田の表情は曇り思いつめた感じで黙り込んだ。

「あの絵は何なんです?」

 牧田はまだ居たんですね的な視線を僕に浴びせた。

「西島さん、すいませんが一人で帰ってくれますか。私は今から調査しなければいけない事が出来ました」

 僕一人で帰れなんて言われてもバスとか出てないでしょうと言うと、「才能無くしてさらにチキン野郎に拍車がかかりましたね」と言い車のキーを渡された。高級車のマークの入った鍵をまじまじと見る。

「地下の駐車場でどの車か聞いてください。運転できますよね」

「車どうするの?取りに来てくれるのか?」

 そういうと牧田は笑って「車は差し上げますよ餞別代りです。それではごきげんよう」

 何を言っているんだ? 牧田が立ち去ってもしばらく考えがまとまらなかった。渋々一人で駐車場へ向かう。

「すいません、牧田さんにこちらで車の場所を聞けと言われたんですけど」

 警備室の職員が眠そうな顔でハイハイと現れた。中年の警備員はがっしりとした体格で威圧的だが、話すと気のいいおじさんだった、たぶん普通の人間だ。

「牧田さんね、ちょっと待ってね」

 おじさんはデスクトップのパソコンをみて、ああこれだねと言って僕を見た。

「西島さんですね、二十九番区画の七ね、案内するからついてきて」

 広い駐車場をおじさんの後ろにくっついて行く。何台あるんだ?ほとんど高級車と呼ばれるカテゴリーのモノで一般大衆車が見当たらない事に不安がつのる。

「これこれ、君の車、会社からの寄贈品」

 やはりドイツ製高級車……社長がおベンツ様を買うとき社員達が興味本位に覗いたウェブサイトにあったモデルだ。正直僕もいいなと思った屋根が開くやつ、しかし僕には維持できる自信も無ければ駐車場も無いしもらった所で喜べる事は無いのだ。あまりの似合わなさに完全に罰ゲームだ……そんな風に悲観しているとスマホが鳴った。

『いい忘れていました』

 牧田からで僕は車を返そうとしたがまったく取り合おうとしない。

『車のナビゲーションを(帰宅)に合わせて、それに従って指定されたマンションに向かってください。十二番の駐車場も借りてあります。部屋番号は402号です。西島さんの会社の近くですから便利ですよ』

「牧田さん何を言っているのかさっぱり解りません降参です」

 僕は眼が点になるとはこういう事だと認識した。視界が狭い。

『チキン野郎ですね、車とマンション、あなたのものです。それぐらい凄い才能だったんですよ、自覚してないでしょうけど、今後は普通に生きてちゃんと維持してください。税金問題はうまくやってありますのでご心配なく、まじめに働けば大丈夫ですよ。それと、才能は受け継がれました。ちゃんとどこかで咲きます。あなたはあなたの人生を楽しんでください。それでは事故には気をつけてください』

 マンションに車……ね、と言うか、そんな事言われても頭がまったく追いついてこないし、この景気の悪い低賃金の時代に一介のサラリーマンにこんな待遇意味がわからので諦めて流される事にした。

 そうだよな、せっかく生きるチャンスをもらったんだ。楽しまないと損だろう。

 マンションくれるなら家賃の心配も無いし外車ぐらい維持できる……かな?

 僕は不安を振り払い、ディーラーの営業さんみたいに車の説明をしてくれる警備員にありがとうと言って車に乗り込んだ。

 せっかくのオープンカーなのだから屋根を開けようとしたら警備のおじさんが外は雨だから街に入ってからあけなさいと言われたのでとりあえず屋根はクローズしたままで走り出した。

 エフエムからは定番な夏の終わりのナンバーが聞こえている。

 今日は車を駐車場に置いて、一度マンションの部屋を覗いてから元のボロアパートに帰る事にしよう。引越しとかイロイロ手続きもあるけど日曜は車をオープンにして海にでも行こうと思う。現金なもので、さっきまでの驚きはすっかり消えてこれから始まる生活に想いをはせていた。海岸通りをオープンカーで走るのが夢だったんだ。

 隣に彼女を乗せて……あっ!

 しばらく体の反射だけで山道を走る。思考がフリーズしてしまう一歩手前で踏みとどまって安全だけは維持していた。

 ミカが不倫している事を知ってしまった現実をすっかり忘れていたのだ。

 生き延びた喜びと思わぬ特典に浮かれてつい忘れていたが、普通の社会生活で今後僕はどうすればこの事態を乗り切れるのかまったく考えていなかった。

 明日は木曜、あさってにはミカが家に来てスタミナご飯を作るとか言っていたような……もう普通に接するなんて小心な僕には到底無理な話だ。だからと言って営業マンの僕が取引先のOLさんと揉めるのは仕事上よろしくない、ミカに対する気持ちはすっかり醒めている。好きだった事は認めるし、二人の思い出もそれなりにある。別れたら落ち込んで、立ち直るのに時間だってかかる……かもしれない。

 ミカだって一応は俺の事心配してくれたし。

 このまま僕が知らないふり……

 胸に何かが引っかかった。

 またいい人病でずるずる答えを出さずに揉め事を避けて生きていくのだろうかと情けなくなってきた。ミカが僕をふってくれたら楽なんだけど、あぁ僕ってほんと情けない男だ。

 そんなゴチャゴチャした思考で車を走らせてあっという間に風景が街並みに変わり程なく目的地に着いた。想像よりは地味なごく普通の八階建ての外観で、普通のサラリーマンが買えるくらいのマンション、それでも買おうと思ったらいったい何年ローンを払い続けるのか今の僕には検討がつかない。

 牧田の会社、名前なんだっけ?、そこに感謝しないといけないなと思いながら僕は駐車場に車を止めるとグローブボックスから部屋の鍵を取りだした。

 築年数はそれほど古くない、見た目きらびやかな安っぽい人造大理石のエントランスホールを抜けエレベーターに乗り込み四階のボタンを押す。

 エレベーターを降りて右側のすぐが402号室だ。

 部屋に入ってしばらく間取りチェックに励む。必要書類がキッチンに置いてあり手続きについての説明が書いてあった。2LDK、一人ではさすがに広すぎる。今までの生活レベルで過ごすと廊下と水廻りだけで生活できる。しかもリビングが今の部屋全部より広い、広い事に途方にくれるとはなんて小さい男だろうと思う。牧田の声が聞こえるようでなんともいえないなと笑い、掃き出しの窓を開ける。

 バルコニーに出て外を眺めると湿気を含んだ空気と共に車の音や、遠くの信号の音が聞こえてきた。裸足で出たせいで床のモルタルの感触がくすぐったい。下は見慣れた道路で通り一本向こうが自分の会社がある道だと気づく。

「めっちゃちけー、電車通勤しなくていいのか、スゲーな」

 田舎育ちの僕は都会ではどこに行くにも電車を使う生活なのだと思い知らされた。高校生でも自転車通学で電車通学が無かった僕は、都会生活での疲弊する原因から解放されたのだ。才能をなくした以外は何から何まで順調すぎて怖くなる。

 明日からでも住みたいがイロイロと片付ける事がある。ゆっくりと引っ越そうと思う。

 もう苦痛から解放されたんだとしみじみとする。あわてる事は何も無いと思うと自然に口角が緩んだ。


 金曜日を迎えて病気のときみたいに気持ちが落ち込んだ。

 週末は朝からどんよりとした空で、朝の占いもふたご座は九位、なんとも中途半端な順位で僕の一日が始まる。

 昨日は今すぐ必要無い物を新しいマンションに運んだのだが、ツーシーターの車の助手席に荷物を満載しても結局二往復でそれほど運べなかった。高価な荷物は無いけど、このアパートに来て六年分の荷物はそれなりだ。後は引越し業者に頼んだほうがいいだろうと結論に至ったのだ。今日は一日引越しの準備、ようは部屋の片付けに従事した。体はいたって健康に動く、食欲も戻った。そういえば病院はどうすればいいのかな、一度行ってみるか、それともこのままシカトするか迷う。

 セカンドオピニオンで癌じゃありませんでした!なんていったら工場長みたいなあの医者は眼を丸くするだろうか。少し気になる。そんなアホな考えが浮かんでくるが当分の課題だなと思う。

 小物をダンボールに入れるための仕分け作業をしながら夕方を待った。

 今日はミカと会う日。朝一で彼女からメールがあり『夕食楽しみにしていて』と気の重くなる文字に狼狽して朝食を食べるのを忘れ、昼前にひどい空腹に襲われた。が、そんな事は二の次でメールの返事を二時間も考えた。結局外で会おうよとメールするのがやっとな事にひどく落ち込む。主戦場を変更するしかないのは確定だ。

 この引越しの惨状を見られたくなかったし、料理を作ってもらうのも気がひける。作ってもらった料理をいただいた後にする和やかな会話とセックスだったら歓迎なのだが、そうなりそうも無い、都合よく妥協で付き合って来て、そのまま流れでリアルに結婚しようなんてするから裏切られるのだ。浮気されてもどこかでどうでもいいと思う自分にも腹が立つし、本気で生きる事をどこか諦めて過ごしてきた罰があたったのかもしれない。

 癌を患って才能を代償として失い生きるのもその一環だと思うと何だか凄い業を持ち合わせて生れ落ちたのかも知れないと身が引き締まる。いっそ仕事をやめて禅寺で修行と言うのもありだなと思う。

 僕は無性に自分の描いたであろう作品を見たくなった。それは生きるため繰り返される一種の修行のようで、己の失ったものの大きさを知る確認作業だ。

 このぼろアパートの唯一のとりえである浴室乾燥機なるモノをまだ乾く事のない作品のために使用中だ。

 メディウムは使わず絵の具の性質を保つためにシッカチフを使っているため乾燥には数日かかる。そのため研究施設でシャワーを浴びてきたのを最後に風呂に入ってない。

 この所の九月の雨とまだ高めの気温のせいで体臭はそろそろ限界だが調子の悪いエアコンの部屋よりはだいぶいい感じに乾くような気がした。

 ちなみにマンションのシャワーはライフラインの手続きがまだで使えない。

 浴室のドアを開ける。熱風が僕を襲う。中はカラカラに乾いているし何せ暑い、それでも僕の絵は異常な輝きをみせてそこにある。

 この狭い浴室では空間が歪んでしまいそうなほどこの絵は隆々とそこにある。

 僕は威圧されながらもただぼんやりとそれを眺めていたが気づくと涙が流れ出してきた。

 強烈な罪の意識が芽生え始めて僕の中で渦巻いている。

 この絵は光なのだ。影の無い光、それは美しく人を照らすが強烈過ぎて全てを拒んでいるように見えた。世界が引き裂かれているようで輝いていてもそこには悲しみだけで、支えあうものが無ければ成り立たない。もうこの絵が完成する事は無い、僕が死を受け入れられなかった事で、不幸にも対となるもう一つの絵が生まれなかった。

 この絵を描きあげたときは表現できた喜びで充実した気持ちになっただけで、全体が見えていなかったのだ。たぶんもう一日でもあれば霧のむこうに霞んで見える影を描く事が出来たはずである。それは自分の命と引き換えにする事を意味している。暑いのに体が震えだす。はっきりと死の恐怖を認識したからだ。

 もう見ることの出来ない作品を想いながら生きていくしかない。それに気づいていたら僕は今死ぬほどの苦痛と何物にも変えることの出来ない幸福に包まれていただろう。もう味わう事のない喜びを想像すると虚しくなった。生にしがみつく自分の愚かさを心の何処かに抱えながら憤りに削り殺される。その裏で生きる喜びを謳歌しようと言うのだからかなり滑稽だ。

 僕はカラカラに乾いた口に溢れ出しそうな余憤をため息と一緒に飲み込むと、被害者のいない殺人でも犯したような後悔を退け浴室を出た。


 僕が変化している数日で町の様子が変わるわけでもなく、いつもと同じ帰宅ラッシュが始まっていた。

 どことなく町の風景が暗いのは僕のせいかも知れない。

 待ち合わせの六時に間に合うように家を出たので自分と同じ属性の会社員とは逆のほうへ向かう、もっとも週末なので途中から飲み会に向かう人波に紛れ込んでしまった。

 足が重くなるのは、この数年でもっとも厳しい残暑が僕の行く手を阻むからだけじゃないのは明白だ。解決しなければいけない事象に気持ちが付いてこない。

 気持ちと足が重いまま待ち合わせ場所に着いた。しかもすんなりと予定時間より早い。

 僕の会社がある駅から二つはなれた駅ビルのカフェはパンケーキが評判の店だ。

 ミカと出会った頃からの待ち合わせ場所で、会社帰りはここを起点にデートする事が多かった。

 昔、ミカを待っている時一度だけパンケーキを食べたことをぼんやりと思い出して思わず注文してしまった。

 ミカの勤める会社からは4駅も離れているカフェ、最初の頃はミカの会社近くの最寄の駅で待ち合わせしようと言ったのだが不自然に拒まれたのを覚えている。

 今考えると上司とは当時から不倫関係にあったのかも知れない、ミカ的に何かと都合が悪いのだろう。不自然さに反応して気づくべき所を見ないでいたのだろうか、不都合なことは気にしないようにしていたのかもしれない。

 時計を見るとすでに待ち合わせの6時は過ぎている。駅ビルの地下にあるカフェはうす暗い閉鎖空間で、今日は何だか閉じ込められているみたいに思う。僕は生贄としてここにいるからか、いつもよりコーヒーが苦いような気もする。勢いで注文したパンケーキはぺろりと食べてしまった。健康っていいなと改めて思う。それでも閉鎖空間に留まる事しかできない囚われの身としては、何となく逃げ出したい衝動に駆られて会計をしている客をうらやましく見つめていた。

 暫くしてミカが入ってきて僕を探してきょろきょろと辺りを見回した。

 多少ぽっちゃりではあるが可愛いほうであるミカはいつもより気合の入ったファッションにばっちりとメイクがきまって見えるのは気のせいだろうか。

 僕を見つけて微笑む顔は何かを期待しているように見え、最近のデートの会話とか、よくウチでご飯を作ろうとする態度、勘違いじゃなければ流れはそういう方向に向かっているのだろう、僕にその流れに抗うだけの力があるのか疑問になるが、はっきりと言わないと今までと同じで、和を持って後悔を押し殺すだけの自分に戻ってしまうだろう。

 僕はもうそんな生き方で人生を無駄にしたくない。

「ゴメンね、遅くなっちゃった。部長が帰り際にコピー五十枚も頼んでくるんだもん、信じられないよね」

 きっと彼氏とデートするミカに、既婚者の部長からの心ばかりの嫌がらせだなとしなくてもいい推理をして嫌な気持ちになった。

「それで今日はどうしたの?浩介のアパートでよかったのに、何なら今からウチに来る?両親も喜ぶと思うし」

 実家暮らしのミカが嬉しそうにたずねてきたのに僕は苦笑いで答える。

 このまま誰も傷つかないでやり過ごせたらどんなにいいだろう、ミカに浮気の事を告げないで全部僕のせいにして別れるか、それとも事実に向き合って別れるか、何度も頭の中で考えが絡み合って今日は何も言わないで食事だけして帰ると言う選択肢まで浮かんできた。

 僕の中でいい人病がうずきだす。いや、いい人などではない、本音を殺して知らないふりをする卑怯者だ。人生は僕が我慢して丸く収まればそれでよし、なんてのは恥辱にまみれた人生の奴隷だ……

 そんな思いが強くなるにつれ世界がゆがんで視界がぼやけてきた。

 自分が空気みたいになって、生きている意味すら実感できない存在に変わってしまいそうになる。このまま結婚して誰かの添え物として意味の無い人生を送る事が気持ちイイとすら思えてきた。

 そこに本当の自分なんて必要ない、決定権を他人に譲渡して思考停止してしまえば楽に生きられる。きっと僕は幸せのフリをして十年位は上手く立ち回れるだろう。

 そしていつかばらばらに崩れる……

 ここで無かった事にすれば自分を捨てる事になる。それでいいのか? 

 向き合う事をやめたら死んでいるのと変わらない、崩壊した欠けらは元に戻るのには時間が必要だ。人間にはそんな悠長な時間は存在しない、もうよく分かったはずだ。

「今日は何か大事な話でもあるの?」

 僕は無意識にミカの瞳を強く見つめてから少し笑った。スッと感情が流れ込んできたような気がして可笑しかった。苦笑いではない、そういえばこの顔をよく見たことが無いと思った。僕はいつも何を見ていたんだろう。ミカの表情の裏にある悩みとか僕に対する気持ちなど、生きるうえで関係ない事と思っていたのだろう。気づいてみればそれは酷く残酷で目を背けたくなる事実だ。だが同時に心がつながる感じがする。本当の絆とか愛がリアルにしみこんで僕を傷つけた。僕は人でミカも人でそれが今はこんなにわかる。

 才能を無くして気づかされるなんて皮肉だな、今だったらもっといい絵が描けるかもしれない。もちろん社会的評価は得られないだろうけど。

「あのさ、本当の話をしよう、ミカが一緒にいたいのは僕じゃないよね」

 急にミカの瞳が所在なさげに泳いで顔が引きつる。

 いつも元気で明るいミカが押し黙って美しい影が見えた。

「どうしたの、私のこと嫌いになった?何でそんな事言うの?」

 弱々しく伺うような物の言い方をするミカを見るのは初めてだった。弱点を隠し全てを疑う気持ちと偽善を装う事に必死に生きてきたミカの表情、僕は意外にもそれが美しいと思い、ある種の欲情を掻きたてられた。病的な思考から開放されて性欲をうずかせたのかもしれないが、抑えようとしてもそれはどうしようもなく僕の中にあふれてくる。それは今すぐセックスしたいとかそういうことではない、端的に言えば〈殺したい〉が正解のような気がする。

 鋭利な金属で、この場の空気ごとミカのノド元を引き裂く事がこの場に幸福をもたらす唯一の方法、僕の犯した罪から生起した、生きるという矛盾を根こそぎ洗浄してくれる唯一の手段かもしれないと思った。

「ミカの浮気……いや本気は別の人だよね、その人とは結婚できないから僕と付き合った」

 鋭い金属を探す右手を左で押さえ、理性を逸脱した衝動を何とか押さえ込み、できるだけゆっくりと語りかけた。

 僕は他人の愛の形を否定するつもりは無い、ミカが勝手なのは世間的に見たら当然なのかもしれない、でもそれは僕に逃げ場所を求めていただけでそれを悪だと決めるのは違う。

 殺人衝動に縛られて僕はおかしくなったのかも知れない、もともとある自分の基準というのがずれ始めるのを感じている。以前なら考えもしなかっただろう。そもそもミカを見ていなかった。

 ミカは全力で否定した。他に好きな人なんか居ないと二十分ほど言っていたのに、僕が何かを知っていると悟った後は人目も憚らずに泣き出して、その人とは魔が差しただけだと言い訳が始まった。見かねた店員が他のお客様の迷惑になりますのでとお引取りを促して、僕はミカをつれて店を出た。

 行き場所を失って近くの公園に辿り着き池の前のベンチに腰掛けた。

 日が暮れて、漆黒の絵具で塗りつぶされたような暗い夜に覆われる。

「浩介は相手が誰か知っているんだよね」

 僕は小さく頷いた。

「何か、私バカみたいだね、全部ばれてんのに今日は浩介がプロポーズしてくれるんじゃないかと勝手に思って、新しいお洋服着て、化粧もいつもより念入りにしたし、自業自得だよね」

 もう諦めたのか物腰が柔らかくなったミカは膝の上でぎゅっと握った自分の手の甲を見つめている。

「やさしかったんだ、新人で何もわからない私にアドバイスしてくれたり、失敗して落ち込んでいると慰めてくれたの、なんだか不倫に落ちる定番な感じで今考えると笑えるけど、離れられなかった。奥さんもいるし、よくないって思った。別れようともした。浩介と付き合いだした時は一度別れたんだよ、ほんとに」

 僕は黙って告白を聞く事が苦痛になってきた。ミカはまだ帰る気が無いみたいで僕にすがり付こうとするのがわかる。僕もつい許してしまいそうになるのが嫌で、なるべく遠くを見ていた。それでも集中力が途切れそうになると、虫の声が僕の気持ちにトドメを刺そうとして一斉に狂い鳴く。

「やり直せないかな、もう会社も辞めて彼とも別れるから、私やっぱり浩介のことが大事だ、これからも一緒にいたい、身勝手なのはわかってる、でも別れたくないよ」

 また泣き出したミカにちょっとだけ意地悪く「会社辞めてどうするの」と聞いた。

「別の仕事探して、それから……そうだ!一緒に住む、浩介のために毎日ご飯作るから」

 僕はどうでもよくなり笑って見せた。

「毎日スタミナご飯ですか、凄いな」

「ねっ、いいでしょ、私はもう浩介のためだけに生きるから」

 ミカは許されたようにパッと明るい顔をして僕のほうをみた。

「簡単に人のために生きるとか言うなよ」

 僕は笑うのをやめ口元を引き締めた。察したミカも笑うのを止める。

「僕はもう君と結婚する気は無い、君も会社を辞める事なんてないよ、今時自分の気持ちにウソついてまで結婚なんてこだわる必要ないでしょ、好きな人と過ごせる時間を諦めるほど人生は長くない、そうだ、なんだったら形だけ結婚しようか、もちろん一緒には住まない、時々あってセックスするだけで別々に好きなように生きるってどぉ?」

 僕は出来るだけ嫌味で軽薄に聞こえるように笑った。ミカの肩が小刻みに震えてぶつぶつと何か言い出した。

「……馬鹿にしないで……本当はあんたなんかと結婚したくなかった、彼とずっと一緒にいたい、でも自分を惨めにしないためにあんたなんかと寝るのがどれだけ苦痛かわからないでしょ、好きでもない男に感じたフリして耐えていた私の気持ちわかる……」

 ミカは立ち上がると持っていたハンドバックをスイングさせて僕を殴った。

怒りに満ちたミカはやはり殺したいほど美しい。走ることなくゆっくりと歩いて帰っていくミカの後姿が気骨に見えた。たぶん好きじゃないと言ったのはウソだろう。こんな僕でもそれはわかる。でもミカはもっと正直に生きたほうが幸せになれると僕の中にある空白に塗りつぶされた部分が言っているような気がした。

 僕はしばらくベンチに座ったまま、サヨナラとハンドバックの直撃の余韻を感じていた。

 休日の海には行けそうにない、少なくとも土曜と日曜日を脱力してすごす程度には傷ついている。胸の痛みが溢れてくる。病気の痛みではない、心の痛みだ。人を傷つける言葉は自分の心も傷つけることを知る。いい人病はこの傷の防御壁だったのかもしれない。

 感じられる胸の痛みが僕を日常へと戻していく。

 きっと消えそうだった自分の再生が始まっているのだと思う。


 まさかのやけ食いで土日を乗り切って一週間ぶりの出社である。

 営業チームの同僚に迷惑をかけた。大変心苦しい所だが、今週からの売り上げ強化週間に結果を出す事を宣言して朝のミーティングを終えた。

「おーい、西島、ちょっといいか」

 課長が少し浮かない顔で僕を呼んだ。あの顔は何かトラブルの時に出る表情で課長の最大の不機嫌をあらわしている。後輩の後藤が先輩ガンバと言って励ますが初日からこのいやな流れに正直気が揉めた。

「西島、今日はミナト産業を回るのか?」

「ハイ、回ろうと思っていますが、何かありました?」

 ミナト産業とはミカの勤める会社でウチの取引先だ。

「お前何かした?朝一でむこうの部長から連絡あってさ、こっちの担当を替えてくれって言ってきたんだよ、こっち、お前だろ、お前先週休んでいるし、理由聞いても教えてくれないんだよ。しょうがないから後藤に引き継いでくれ」

 すぐにあーそうかと思う。

 まあ、予想通りの展開だろう。たぶんミカが僕と別れたと言ったので、部長さんが別れた理由を勘ぐって、それで僕を外してきた。噂が広がるのが早い業界らしいから、不倫がばれたら困るのだろうと納得してみる。世の中そんなもんだ、けど売り上げ強化週間にはかなりの痛手になるなと覚悟を決めた。

 後藤にミナト産業の対応と注意点を伝え、とりあえず会社を出た。

 新製品の資料とサンプルがずっしりと重い、いつもの数倍に感じられる。きっと今の気持ちとリンクしているんだろうとため息をついた。

 売り上げ強化週間から数日、営業マンとしては最低で正直休みたい。出社拒否したくなる事態に困惑している。

 一度挟んだ土日も有効な回復手段とはならなかった。

 売り上げ強化週間も終盤に来て思うような結果が出ないまま今日も会社を出る。

 やはりミナト産業を外されたのが痛い。失ったツキは他のクライアントにも伝染したみたいで、忙しいと面会を断られる所もあった。新規の顧客も空振りが続く、受注達成の棒グラフは後藤より下にあるがそれでも何とか気持ちが折れないのは健康だからだろう。

 もう一度踏ん張るかと気持ちを奮い立たせ歩き出す。

 それにしても今日はいつもより空気が淀んでいる気がする。牧田に連れて行かれた研究所のある方角の空が不気味な予感に満ちた真っ黒な雲で覆われている事が気になった。

 朝の天気予想では今週は雨の予報などどこにも無かった。

「天気予報なんて当たらないよな」

 通り過ぎる人波から会話が聞こえ僕も同調する。重い商品サンプルを抱え、いやな雰囲を気引きずりながら移動を開始して十分と経たないうちにスマホの着信音で足を止められた。今時メールの着信、液晶の画面に写された名前に時間は急激に巻き戻される。街並みはあっという間に流れ去り自分の記憶にある懐かしい時代に変わった。もちろんイメージだけの感覚で、実際は何も変わらない。

「美由紀……」

 立ち止まってしまった僕を後ろから歩いて来た人が舌打ちをして迷惑そうにかわしていく。

 液晶画面をタップしようとして指先が躊躇う。

 震えている自分に気づく。

 昔別れた彼女に、勢いだけで出したメールの返事なんて望んでいなかったのかもしれない。いまさら返事が来てうろたえる自分があまりにも滑稽で、喜んでメールを読む気分にはなれなかった。

 例えばあの絵を見て、才能の開花に気づいた彼女が僕とよりを戻そうともちかけて来たとしたら、また才能を無くした僕を見て失望させるんじゃないかと身勝手な想像をする。

 まあ、僕の知っている美由紀に限って言えばそんな事で心がぶれる人間ではないだろう。

 ミーハーな思考とは無縁な事は明白で、そうじゃないとすると、僕の前から消えた理由が明らかになる内容なのかな……

 僕は画面を開くのをやめスマホをポケットに入れ歩き出した。

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