第7話 ヨネタヒロキ3
窓から見える向かいのビルのカーテンウォールが青空を写し、俺は地上の建物に移されたのだろうと認識した。しばらくぼんやりと天井を眺めていたが不意に脳みそが熱く沸騰した感覚に襲われ気持ちが湧き上がるように体ごと起き上がった。
あわてるような気持ちを押さえ一度落着いて周りを見た。
ベッドの脇に置かれたデジタルの時計が午前10時を表示している。
随分と殺風景な部屋だ。ビジネスホテルの個室よりは清潔に見えるがインテリアの趣味は最悪で居心地が悪い。
深呼吸をして目を瞑りモノクロ映画みたいな記憶を整理しながら儀式は滞りなく済んだのか考え不安になる。
注射のあとの記憶はこのベッドの上なのだが、強く主張してくる空白は消されたのではなく俺と言う存在がこの世界にいなかった様にカラだった。そうだ、まるで生まれていない、もしくは死んだ後、そんな気分に体が馴染めずにいるのだ。
早く何かを創造しないと精神が維持されずに分裂しそうで怖くなる。何かに没頭したいと疼きだす。そうする事で生まれる一挙一動が新しい自分を形成して生きる意味が生じるように思う。
俺はゆっくりと伸びをした。
手足を意味なく動かして体の動作確認してみる。生まれたての赤ん坊みたいでカッコ悪いなと思いながらも、どうやら身体は普通に動くみたいでとりあえずホッとする。
「おはようございます。気分悪いとか無いですね」
無表情なままでさわやかな牧田が入ってくると俺の体調を決め付けた。どうせ俺は丈夫だけがとりえの男で……
「牧田さん、俺に才能は?……上手くいったのか?」
ウッカリ怯えた表情をしてしまった俺に牧田は冷笑してキスでもするぐらい顔を近づけて来ると、左目を覗き込んできた。
しばらく息を止めて固まってなすがままだ。
「後は米田さんしだいです。せいぜい励んでください」
そう言うと冷蔵庫から冷えすぎの缶ジュースを持ってきて渡された。黄色いだけでバーコードが貼られた缶に一瞬こめかみが痛む。なぜかはわからないが脳みそのとある部分の記憶がざわついた。このシンプルな缶に勝手に反応したのだ。それでも喉が渇いていたので缶ジュースを一気に飲み干した。
渋みの強い柑橘系の飲み物だが、すぐに渇きは消えすっきりとした気分になる。
「ひどい味でしょう。私達の世界では味など二の次、機能的なことだけが重要なのです」
牧田は悲しそうな顔で呟いた。
「この世界はいい、美が重要な構成要素の一つですから、チキン野郎でさえ才能があれば美しい物を生み出す事ができる」
俺は牧田が惨めに見えてきた。ひどく怯えた生き物に見える。芸術を愛しているようだが作り出すことができない、理由は知らないが、才能を欲しても牧田は手に入れることができないのだろう。愛するものを世界に産み出せない焦燥は何かでごまかして生きるしかないのだろう。
「チキン野郎にそんな目で見られるのは心外です。私を惨めに思ったようですがそれは違います。米田さんたちが美しい創作をしてくれる事が私達を満たす。覚えていてください才能を無駄にしたら死に際にお気に入りのヒールでその薄汚い尻を踏みつけます」
そう言って捕食でもしそうな目で笑った顔はやはりドS女の顔だった。
「それでは行きましょう」
俺は牧田の後をついていきエレベーターで中央ホールに出た。
最初にここを通った時は広いとしか思わなかったのに、ホールに出た瞬間胸が高鳴った。
高さと広さから見る空間のバランスが不思議な均衡を保ち訴えかけてくる。そこに天井からの光と影の演出が、磨きの石や造形物に反射して美しいメリハリを醸し出していた。
横にある滝がイオンを振りまいて空間の光をさらに引き立たせている。
「なんてすばらしい空間だ」
思わず呟いてから手のひらの中にカメラの感触を探す。
俺は早くカメラに触りたいと願った。ファインダーを覗き込む快楽でこの世の美を切り取る事に躊躇いは必要ない、全てを棄てても自分の感じる美を追及しないと気が狂いそうだった。
「牧田さん、このホールは名のある人の設計なのか?」
湧き上がる興奮を抑えつけながら聞いた。
牧田は口元だけニコリと笑い、「まずは合格点です」と呟くと、俺でもわかる世界的に有名な建築家の名前を言った。
俺はもう一度全体をじっくりと見わたす……んっ?
「なあ、何でこの素晴しいホールにあの絵なんだ?あの絵のせいで全てが台無しなんだが」
俺はインフォメーションの後ろの両脇にある対の絵を見て感じた事を言った。この空間を押さえ込んでいる何かの力が絵のバランスのせいで今にも崩れてしまいそうなのだ。急にここにいるのが怖くなる。
牧田の顔色が変わり俺をにらむ、サディストの蔑みではなく怒りに満ちた目。
「米田さん、調子に乗るのは辞めてくださいあの絵は、ある少年が描いた今世界にある絵の中でも最高のものです。あの絵があることでここは成り立っている」
本気で怒る牧田に周囲もざわついた。ここに来た時は何があろうと無関心だった連中があきらかに動揺している。俺は賞賛される事もなければ非難される事にも慣れてない。
「まっ、待ってくれ、俺はただ感じた事を言ったんだ」
俺の心の中、正確には空白の部分に取り残されて僅かな感情がうずきだした。
すでに自分の心とは一線を画す常識的な感情とでも表現すべきモノが新たに生まれた俺を非難しているようだ。
「わからんけどこの絵は凄くない……」
言葉は尻すぼみになってホールに飲まれてしまった。
牧田の白い肌がさらに色を無くす。周囲も相変わらず非難的な視線で俺を見ている。
そんな大事な絵とは知らなかった。才能とは時に空気を読む事をおろそかにするほど感情に走るのかと思ってもすでに口にしたことを消すことはできない。さっきまで差し込んでいた光がなくなり照明だけの暗い空間になった。遠くで雷の音が聞こえ牧田がハッとする。
「もういいです。その事はこれ以上言わないでください」
ムッとしたまま牧田は歩きだし、その後を覚束無い気持ちのまま付いていくしかなかった。完全なるアウェーに負けた気がした。
地下駐車場にでると、警備室のおっさんが外は雨が降っていますよと牧田に言った。
車に乗り込むと牧田がつぶやく。
「ここは雨など降らない、雨は不吉だ」
俺には何の事かわからずに聞き流した。答える返事も見つからないまま気持ちはさらに落ち込んだ。地下駐車場から出ると激しく降る雨に憂鬱な気持ちになる。あの美しいホールに立つことはない、もうくる事のないだろう建物を一度振り返ると雨で解けてしまいそうな躯体が鈍く輝いていた。遠くの空はすでに群青にもどりつつある。
山道から街に出ても牧田と俺は一言も口を聞か無かった。
気まずい空気が車の中に充満して逃げ出したいのを我慢していたら体が硬直して家に着いたときには変な筋肉痛になった。
家の前で蹴り下ろされるかと覚悟していたが、牧田はわざわざ車から降りて後部座席のドアを開けてくれた。俺が降りた後、徐にトランクから荷物を出すと立ち尽くす俺に見覚えの無いバックを手渡した。
「これからの人生へ餞別です。詳しくはないのでお気に召すかわかりませんが」
渡されたバックをあけると俺の小遣いじゃとても買えないデジタル一眼のカメラが三脚などアクセサリーと一緒に入っていた。
「これは?」
信じられないと言う顔をする俺に無表情で経費ですと言って頷いた。
「さっきは悪かったな。大事な絵なんて知らなかったから」
別れの雰囲気に流され詫びの言葉を口にする俺は才能ある常識人なのかもしれない。
「そんな事はいいです。米田さんはあの絵が変だと思ったのですよね」
牧田の言葉に苦笑いしながら頭を掻いた。
「確かに何か変な事になっている様に思えます」
そう言って牧田は相変わらず余韻も残さず去っていった。
山で降っていた雨はとうに止んで日差しが戻っていた。街中は雨の気配など微塵もないので止んだというのは正確ではないな。
牧田には申し訳ないが今の自分には絵画などはどうでもよかった。
これからのことを考えると胸が高鳴った。希望とか勇気とか冒険とか青臭い言葉が沸いて出て歯がゆくて照れた。
おっさんが何を考えてんだと自分に突っ込みを入れてみるが高揚した気分は治まりそうにないので、自分の頬を一度強く叩いた。近所のおばさんが不思議そうに俺を見ていたことに気づいて作り笑顔でごまかし玄関扉を開ける。
「お帰り、どうだった?写真上手く撮れた?写真の仕事できそう?」
玄関を入ると待っていましたとばかりに妻が出迎えた。
キラキラと学生の時みたいに話す妻にただいまを言ってカメラを見せた。
「もらったんだ、新品だよ、仕事は一応気に入ってくれたけど続く仕事じゃないから当分はこのままかな」
それでも嬉しいといってくれる妻をそっと抱きしめた。
「今から出かけないか?どこでもいいんだ、写真を撮りに行きたい」
何でもいいから動きたかった。譲渡された才能は確かに感じる事ができた。今までの感覚とは明らかに違う、なんだか狂ってしまったように世の中の色彩やコントラスト、形状や質感が俺に訴えかけてくる。そこに秘められた作り手のメッセージまで手に取るようにわかるのだ。
これを俺がどう表現するか、できればカメラで表現したい。気持ちが焦るのを押さえるのにこんなに体力が必要とは思わなかった。遠足前日の子供みたいにはしゃいでいる自分が可笑しくて笑い出しそうになる。
早く行こうと急かす俺は子供みたいで、呆れる妻は準備するからちょっと待ってねと言い洗面所に行ってしまった。
俺はカメラを出して感触を確かめる。人の才能をもらい、今まで避けていた気持ちと向き合うのはずるい事じゃない、正直はじめは罪悪感みたいなものが心のどこかにあって才能を差し出すしかなかった人に負い目があった。でもそれは間違いだ。この才能でいいものを作り出すのが俺の責任で仕事なのだ。
「お待たせ、それじゃあ行こうか」
笑顔で近づいてくる妻に今まで気づかなかった違和感を覚える。
服装の色合いがピンと来ない、メイクもどうかと思う。俺は黙りこんでおもわず視線を逸らしてしまい妻が心配そうに大丈夫かと覗き込む。
「うん、なんでもないから行こうか」
明らかに動揺した態度をごまかしながら表に出た。やはり感覚が鋭敏になるとネガティブな面も見えてくるのだろう。少しは我慢も必要らしい。だいたいプロのモデルでもない妻に何を期待しているのだろう。若くないとはいえ俺なんかには十分すぎる妻、スマンと反省しようと思う。
「ごめんな、急に黙って、明日の会社の事考えちゃった。情けないよな」
笑ってごまかした。
「大丈夫、会社にはお義母さんが倒れた事にしたから、明日は心配しないで行って、美味しいお弁当作るから」
妻は慰めるみたいに俺の肩をポンポンと叩き、ふたりで並んで歩いた。
新しいカメラのファインダーを覗く。
晴れわたった空を背景にポーズを決める妻にシャッターを切る。
なかなか小気味よい音が俺の気持ちを十歳ほど若返らせた。
それでも河川敷の公園がいまひとつしっくりとしないのはなぜだろう。俺は何度かファインダーを覗きイメージの設定をしなおしたがうまくいかなかった。
「場所、変えようか」
気持ちとは裏腹に構図を決めても何か引っかかるのは場所のせいだろうか?それともモデルがダメなのか、もともと若い頃も妻を撮るのはただの趣味、風景や建物に重点を置いていたので人物はあくまでも背景の一つにすぎない、賑わいや色合いなど画面上のバランスを取るものである。なんて言い訳でしかないか。
「この辺がいいんじゃない」
妻が立ち止まったのはさっきの川原から少し上流にある橋を渡りきったアーケードのある商店街だった。
「日常の風景みたいに普通に撮るの、ポーズとか決めないで、そのほうが得意でしょ」
妻は学生時代に俺が得意だと言った事を憶えているらしい、街にある何気ないものに惹かれる俺の撮った写真をあきもせずに見ていたころを思い出した。昔住んでいたボロアパートの押入れで簡易な暗室を作って現像しては手作りの写真集を作っていたころの妻はまだ妻ではなく彼女だった。当時はパソコンなどまだまだ普及して無くてプリントするのも苦労した。
現像液の鼻を突くすっぱい匂いの中で俺をささえてくれて、開花するはずの無い才能を待ちわびていたのかもしれないと思うと切なくなって思わず鼻をすする。
「ゴメンな才能なくて、苦労ばっかりさせて」
妻はキョトンとして俺を見る。
「そんなこと無い、私ヒロの撮る写真、大好きだよ」
久しぶりに俺の事をヒロと呼んだ妻がカッと赤くなった。昔に戻った錯覚なのだろう。
「ありがとう、これからも時々撮影会をしよう。またモデルになってくれ」
そう言って家具屋の前でカメラを構える。
構図に入り込んだ木製の椅子の前で妻が微笑むのを写す。
店員が迷惑そうにこちらを見るが気にしないで撮影する俺たちはいい歳したバカップルで迷惑な客だろう。
逆光気味のソファーに座る妻。
靴屋の椅子に座って靴を試す妻。
ふざけてパチンコ屋の中に入ってスツールでクルリと振り向いた妻を撮る。
暫く夢中でシャッターを切りまくっていた。妻が疲れたと言って近くの駅ビルのカフェに入った。
「パンケーキおいしそう」
妻の一言でちょっと贅沢なパンケーキを注文した、きれいにデコレーションされたパンケーキにレンズを向けた。
少し落ち着いてから、カメラを手にした最初の興奮が醒めてくるとあることに気付いた。
俺はシャッターを切るごとに苦痛を感じ始めているようだ。昔感じたはずのファインダー越しの生活感や息づかい、生々しさが感じられないのだ。いや、感じたというのは思い込みで、どこかの写真家の受け売り、才能のない俺が無知と若さのせいで錯覚していただけで、そうしないとすべてを認めなければならないからだ。時間を止め、風景を切り取り、それを一つの絵とする作業にまどろっこしささえ感じる始末で怖気づいた。結局俺にとってのカメラは正しい武器ではなかったということになる。
物体を直接触りたい。既にそこにある物をオブジェクトとして芸術にするのではなく、何もない所から想像する。触れられる生活自体を昇華させる事ができれば俺の中の何かは満たされるだろう。その感触こそ自分に必要な芸術的動機なのかもしれないと気づく。
急に黙り込んだ俺に妻が心配そうにどうかした?と聞いてきた。
妻と二人で撮った写真を確認していく。黙ったままカメラの液晶に写りこむ被写体を次々に変えすべて見終わった。
パンケーキをとっくに食べ終えた妻が嬉しそうに俺を見る。
「いい写真撮れてるね、やっぱり昔より良くなってるよ」
確かにプロとして写真を撮るには十分なレベルだと思う。
どの写真も生き生きとしてそつが無い。
ただそれだけの写真でチラシ広告用のスチールだ。
そこには情熱が感じられずフォトグラファーな自分は想像できない。なぜか自分がこれ以上撮りたいと思う気持ちが湧いてこなかった。
さっきまでは、興奮状態で気付かなかったが、撮ればとるほどカメラが好きじゃない事を思い知らされた。
小学生の時に見たカメラ雑誌がかっこよくて写真部に入り、才能があるみたいな気分になって専門学校まで行ったのは自分を否定するのが怖かったのと普通のサラリーマンになりたくない事への言い訳に過ぎなかったのかもしれない。
中学生の時に見た一枚の写真、ビロードのカーテンの前にソファーがあり、座る女の写真が美しくて選んだカメラマンへの道、あれは間違った物の見方だった。俺は写真に感動したんじゃない。あの構図の中で際立つ存在感を放つソファーに見せられたのだ。あのディテールに興奮したのだ。無意識に家具工場に勤めた訳ではない、作りたかったのだ。あの艶かしく滑らかで光沢のある椅子やソファー、生活の中に溶け込んだ手で触れる物を芸術まで高める作業を狂おしいほど望んでいた。
今この瞬間にも湧き上がるイメージは光だしている。
写真を撮りながら気付かないうちにそればかり見ていた。
研ぎ澄まされた才能が俺の奥から放たれた電波を捕まえたのだ。
柔らかさと硬さの融合と、直線と曲線の色気、そんな家具のデザインが俺の中にあふれ出して描きとめる作業が必要だと気持ちが焦りだした。
「かえろう、いますぐに」
急いで会計を済ませる俺に妻は状況が飲み込めずにいたが、俺はよほど深刻な顔をしているのだろう。黙って従ってくれた。俺は途中の文具店でスケッチブック3冊とやわらかめの鉛筆を買って帰った。
会社には朝一番に出社した。
昨日は何かに憑かれたみたいにほとんど寝ないで浮かんでくる椅子やソファーの形をラフ画に起こして買ってきたスケッチブック一冊を使い切った。
正直俺に絵心があるとは知らなかった。描いているうちにパースペクティブな感覚がうまく出せるようになりリアルな透視図が出来たのだ。
妻は夕飯にオニギリを用意してくれたが食べるのを忘れて深夜の食事になってしまった。寝食を忘れた俺を咎めもせずに朝方まで作業を見守っていた。
咎めないのは気がふれたと思ったからなのかも知れない。あとで事情を話そうと思うが上手く話せる自信はない。
描き上げたスケッチブックは会社のデザイン企画室に持って行くつもりだ。
そこは工場の敷地内にはあるが別の建物で、元来組立工は足を踏み入れる事の無い場所である。この家具メーカーの低価格量産品と大手家具販売店のプライベートブランドをデザインする中枢だ。
今まで会社の作る家具やブランドを気にする事はなかったが、いざ自分がこんな事になると情報は次々に頭に入る。湧き出たデザインをどうしたら形に出来るか考えた単純な結論、安易なのは百も承知だ。
俺の勤務する工場はASAMIYAと言うブランドで公共施設からアウトレット、雑貨店まで幅広く扱う老舗の家具メーカー、その中で量産品を扱うアサミヤスタンダードがこの工場とデザイン企画室である。ここのデザイン室長はアサミヤ本社のデザイン室出身だと聞いたことがある。アサミヤ本社のデザイン室は高級家具部門でモルゲンと言うシリーズ専門の企画、デザインをする。ホテルや病院、公官庁の施設を中心にインテリアをトータルデザインするのでも有名らしい。俺は今までそんな仕組みも知らないで過ごしてきた。
このご時勢仕事があるだけラッキーで、真面目に家具を組み立てれば給料もらえる程度の諦めと雇われ思考で働いていたのだろう。自分から何かを作り出し発信しようなんて事自体思いつかなかった。
次々社員が出社してくる駐車場を横切り、ガラス張りの別棟へ向かう。
いつも遠目に見て思うのだが、こちらの駐車場は軽自動車が少ない。ヨーロッパの小型車が目立つ、組立工じゃ買おうとも思わない車種が目立つ。キラキラ輝く建物と駐車場の車は別世界か蜃気楼程度にしか感じていなかった。
同じ会社なのだと頭では思っていたのに、やはり工場勤務の人間とは世界が違うようだ。
「デザイン企画室はどこ?」
受付の女が不思議そうに俺を見た。それにつられ奥の連中もこちらを見た。
工場の人間が珍しいのか?こっちは珍獣じゃネーよ。
心の中で言ってみたものの自分だってこの中に入るのは初めてで場違いなのは百も承知だ。挙動不審にならないように注意しているが作業服はどうにもならないほど浮いているのだろう。刺さる視線に耐え入館カードをもらい、教えられた通り非常階段は無視してエレベーターで3階に行き静かでいい匂いのするオフィスに入った。
「すいません、室長はいらっしゃいますか?」
返事が無い、フロアの半分ほどを占めるこの部屋で見えるところに人の姿は無かった。
もうすぐ始業時間なのに人がいないとはおかしいな?受付の態度から見て本日休業というわけでもなさそうだ。もう一度、今度はこのフロア全部に聞こえるような声で言った。
「すみませーん!シツチョーいませんかー」
シンとしたフロアの奥の扉が開く。
「うるさいな、そんなでかい声で騒ぐな、何か用があるのか?」
ヒステリックな顔の背の低い男が出てきた。
「あの、室長は?」
「俺だ、ここに書いてあるだろ、バカかお前は」
確かに奥過ぎて見えにくいが室長部屋と書いてある。しらねーよとは言わないで歩み寄ると室長らしい男は結構若かった。明らかに俺より年下、素人目にも質のいいスーツを纏って今時のおしゃれな髪形で決めている。おしゃれな髪形と思ったのは、数日前に見たテレビで似たような髪形を紹介していたのを覚えていたからだ。もちろん似合うとか似合わないとかは言うまでもない。室長さんは……知らなかったらきっと昔風のおっさんヘアスタイルとしか思わなかっただろう。
「すいませんお忙しいところ、他の方は今日お休みなんですか」
暇だったのかすんなり室長部屋に入れてくれて、偉そうな椅子に座り俺を見る。
机の上に〈室長 高倉昭雄〉と偉そうな名札が付いている。偉そうにしているが見るからに貧相な男に吹き出しそうになるのをこらえた。
「あのね、デザイン室は九時半から、八時から仕事する工場とは違うの」
高そうな腕時計を顔の前でトントンと示しながら俺を睨む高倉に、なんであんたはいるのか説明頼むと突っ込むのはやめ苦笑いする。
「それで、工場の人間がこのデザイン室に何の用だ?」
高倉は高級オフィスチェアでのけぞり左右にゆれている。
俺はなるべく低姿勢に家具のデザインを見て欲しいと言った。
「はっ?今何て言った、よく聞こえないんだが」
小指で耳の穴をほじりながら、人を小ばかにした物言いと嘲笑が著しい効果を上げて俺をイラつかせた。
「俺の考えたイメージを形にしたいんだ」
スケッチブックを机に置いた。
「俺の耳おかしいのか、何言っての?……あっ、あんた怖いもの知らず、と言うか世間知らずか」
そう言って大声で笑うとスケッチブックを付き返して、いいから工場に帰れと右手でシッシッとあしらわれ、あくまで拒否の姿勢だ。
「そんな事言わずにお願いします。見るだけでも」
「だいたい君は何歳?見たところそんなに若くないよね、今までデザインのお勉強はしてきたの?『思いつきました。描きました。見てください』そんなこと言われても素性のわからないものは時間の無駄だしね、その歳でいきなりデザイナーに転身って、なんか無理ないか。まあ工場もいつリストラされるかわからないから焦るのもわかるけどさ」
俺は高倉室長が開こうともしないスケッチブックを自分で開き机の上にたたきつけた。
「おいっ、とにかく見るだけでもいいと頼んでんだ!」
年上の俺が大きな声を出した。その強引さに明らかに年下の高倉室長が一瞬ひるんで形勢が逆転した。工場の人間はそれほどガラのいい連中じゃないみたいなイメージでも持っていたのか、顔色が悪くなって貧相さが際立った。
「まっ、まあ、怒るな、落着いてくれ、大丈夫、見てもいいんだ。時間ならあるし」
ええと、と所在なさげにスケッチブックをパラパラとめくり高倉室長は固まった。
そのまま数秒の沈黙。
「これ、君が考えたの、全部……」
高倉室長の視線が何度も俺の顔とスケッチブックを往復して不自然に丸い目をしている。
「どうですか?」
今度は穏健な感じになるべくおびえさせないように聞いた。
しばらく考え込んでいた高倉室長は何かを思いついたような顔をしてパタンとスケッチブックを閉じて俺を見た。
「まあまあだね、このくらいのイメージ画描く奴はここのデザイン室にもいるよ。どうしても君がデザインしたいならこれは預かる。デザイン室に入れるよう本社に掛け合ってやるから」
さっきの上々な驚きの顔はどこかへ消えてまた偉そうに椅子に踏ん反り返る。
俺はよろしくお願いしますと言って工場に戻ろうとした。
「君、名前なんていうの?」
米田弘樹ですと答えると、かっこつけて「覚えておこう」と言った。
高倉室長の顔はなぜか悪意に満ちて見えた。
一週間が過ぎ、相変わらず工場であくせくと作業に没頭していた。
高倉から連絡はなくスケッチブックは預けたままで、こんなことなら携帯番号聞いておけばよかったと後悔している。
そんな時、アサミヤモルゲンシリーズの新作が発表されたことを知る。
休憩時間にパートの女の子が話しているのが耳に入った。普段気にする事のなかった社内報を見て高倉室長をしきりに褒めているのを聞いて少し不快になった。
「この新作、スタンダード室の高倉室長が手がけたんですって」
「あの本社から左遷できた人、すごいよね、いいセンスしてるよ」
「それで室長は本社デザインに返り咲いたらしいよ」
俺は女の子に社内報を借りて載っていたイメージCGを見て絶句した。
やられた……
明らかに俺の描いたスケッチを基にしたデザインで、それが忠実にCG画に変わっていた。ご丁寧に色まで入って、しかも色のバリエーションが6色も添えられている。色はなかなかいいじゃないか……って、褒めるところじゃねーし。
横のコメントに〈僕が次のアサミヤをデザインする。新しいデザインを世界に発信します〉とヒステリックな顔の写真つきだが今日は品のない齧歯類のように見える。
なぜあんな奴を信用したのだろう。
人は見た目で判断できると思わせるあの表情そのままの行動に、あきれるのを通り越してもはや笑うしかない、才能は手に入れたかもしれないが世の中はそんな甘くは無いのだ。
この才能をくれた奴だって死ぬ直前までそれに気づかなかった。うまく扱わないとほんとに無駄になってしまう。二十年分の元は取らないと関わった人が報われないだろう。
俺はとりあえず高倉に文句の一つでも言ってやろうと大切な昼休みを無駄にしてデザイン企画室に向かった。
まったく愛妻弁当食っている時間なくなるじゃねえか。
工場棟を出ると惨めな俺を阻むみたいに土砂降りで、デザイン室のある別館が霞んで見える。きっとこの雨も不吉な雨だなと牧田を思い出し尻をピンヒールで踏みつけられている気持ちになる。嫌な想像ではない……なんて。
町外れの工業団地にある工場用地は、雨が降ると造成の仕方が甘いのか水はけが悪く、やたらと大きい水溜りが出現して駐車場が池みたいになる。
まったくついてない、それでも高倉の首根っこ捕まえてこの水溜りを泳がせるぐらいしないと気持ちが収まらなかった。
結局、別館に着いた時には俺が水溜りを泳いだみたいで、ひどい有様になりはて受付の女の子に笑われた。顔や服から水を滴らせたまま、もうどうにでもなれと思い階段を駆け上がりデザイン企画室に入る。今日は皆さん仕事でいらっしゃるようで昼休みにもかかわらずパソコンの前で作業中らしい。近くのデスクに座っていた神経質そうな黒縁メガネ男が濡れ鼠みたいな俺を煙たそうに見上げる。
「何か御用スッカ?」
工場作業員を馬鹿にした目つきの男は早く帰れと言わんばかりに迷惑そうにパソコンのマウスを何度も左右に揺らす。
「用があるから来てんだよ、高倉よんでこい」
「はっ?」
メガネ男は高倉と名前だけ聞いて認識できなかったようだ。
「高倉だ、タ・カ・ク・ラ、室長だよ、わかんねーのか」
少し声を張ったらフロアの全員がこちらを見た。メガネ男は唖然として目を泳がせ答えを見つけられないでもじもじと気持ち悪い。奥のデスクにいたツンとした女がこちらに気づいたように近寄ってきて俺を睨む。
「高倉室長なら本社勤務に変わりましたが、御用なら私がお聞きしますが」
俺はポケットから出したハンカチでぬれた髪と顔を拭きながら女を見る。
女はたぶんここのリーダーなのだろう、全員がこの女の後ろに隠れるような態度を見せ、なるべく俺に関わらないよう無関心を決め込んでいる。
「あんたは?」
「私は室長代理です。あなたは工場のカタ……ですよね」
工場のカタと言うフレーズに周りの無視していた連中が小さく笑い出した。こちらに聞こえるように喋る奴もいる。
「工場ってまだ人いたんだ、早く無人になってくれればいいのに」
「まだむりっしょ、二、三年はかかるって、わずらわしいよね」
窓際のテーブルで打ち合わせしていたピアスの気の強そうなおにいちゃんとスーツの男が笑っている。
室長代理がそいつらを睨んで黙らせた。このネエチャンが今のボスなのは間違いなさそうだ。
俺は大事な物を高倉に預けたままだと言うと女は俺の名前を聞き、わかりましたと言ってすぐ横のデスクにある電話から受話器を取った。
「あっ、高倉室長、お忙しい所すみません。スタンダードの鈴木です。今工場の、えーと……米田さんという方がいらして室長に預けてあるものを返してほしいと言っているのですが、はい、わかりました」
一度受話器を放して俺を見た室長代理が、「何のことか解らないと言っています」と告げて俺の返事を待った。
「何言ってんだ、ちょっと貸せ」
そう言って強引に受話器を奪い取って電話に出た。
「おいっ、高倉、やってくれるじゃねーか。人のアイディア盗みやがって、まあいいよスケッチブックだけ返せ、どうせ次のアイディアなんかねーだろうから」
室長代理の女が意味もわからず電話の横で伺っている。
『米田君ね、何の事だかさっぱりわからないんだけど、だいたい君とあった事ないし、悪いけど新作の打合せで忙しいのでこれで』
一方的に電話が切られた。
あの嘘つき野郎、今度見かけたらどうしてやろうと憤慨しておもいっきり受話器を置いた。
「あの、アイディアを盗んだとはどういうことでしょう」
室長代理が疑問と不審を滲ませた顔で聞いてきた。
俺はアイディアの詰まったスケッチブックを預けてあると言ってみたが、それを聞いた室長代理以下その他の連中は顔を見合わせこみ上げるモノを2、3秒我慢していたがとうとう耐え切れずに噴出した。そりゃ、まともな人間なら工場勤務の中年男が家具デザイナーのマネなんか出来るとは俺だって思わない、だが俺は二十年の寿命を人間じゃないものに差し出した実績がある。
「早く工場帰れ、バカか」
「言いがかりはよせっつーの、みっともない」
「あいつ何なの、リストラされそうでおかしくなったんじゃない」
そこかしこから聞こえる愚にも付かない嘲りだが悔しさがこみ上げる。自分の判断ミスとはいえこんな連中に言われるままとは。
俺は、横のメガネ男に紙と鉛筆をよこせといい、今度は何すんだと期待する連中を横目に新作のモルゲンチェアーのスケッチを描いた。
「おい、室長代理さんよ、この椅子、俺のスケッチブックにあったんだけど、これで完成形じゃないんだ、ここのアールをもう少しゆるくして、えーと、背板のデザインはこう」
室長代理に解りやすいように説明した。
「どうせ盗むならちゃんと作れと言っとけ」
そう言うと崩れた表情で室長代理が俺を見る。この中でこの椅子の芸術性に気づける奴がいるのだろうかと思いながらデザイン企画室を出ようとドアに向かう。
「ああそれと、もう一つ、貸しておいた美少女モノのDVD返してって伝えておいてくれ、ロリコンはほどほどにとも」
フロア全体どころか、この建物全部に聞こえるほどの声量で高倉のロリコン疑惑を植えつけた。ふふふふ。あっ、まて、貸した俺もロリコンになるじゃねーか!と思ったが後の祭りだった。どうでもいいけど。
背後ではなにやら室長代理が怒鳴っているのが聞こえる。しかしいい勉強になったなと思いながら階段を下りた。
「ちょっと君、米田弘樹君?」
受付の奥から俺を呼ぶ声、振り向くと気難しそうな年配の事務員が立って呼んでいる。
「米田ですけど何か?」
「丁度良かった。今工場に呼びに行こうと思っていたんだよ。君、明日から東部工業団地にあるアサミヤリサイクルに出向してもらうから」
事務員は俺に辞令書らしいものを手渡してから「いったい何をしたんだ」と言った。
「リサイクルはデザイン部の人間がされる島流しだぞ、工場のお前が行くなんて珍しい、上の人間の女にでも手出したのか?」
そういって笑うとご愁傷様と言って自分の席に戻った。
高倉の奴、やってくれるじゃねーか。
デザイン企画室に入ってやろうと思っていたのに最初から計画しなおさないと自分の作品創作スケジュールが大きく狂う。自分で起業して始めると時間がかかるだろうしノウハウも無いし資金だって幾ら掛かるかわからない、それも視野に入れていかないと時間などすぐに無くなってしまう。さあどうするか?
雨はすでに止んで日差しが戻ってきた。
俺は雨上がりで池みたいになった駐車場に写る青空を見る。
雲が次々と流れて次第に何も写らなくなった水たまりに、俺だけが写り込んで沈んでいくみたいに見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます