第6話 カタマリ?
僕は自分の現在位置を特定できないまま踏み出した。
風景は濃い霧に覆われていて瞼を閉じたみたいに視界が悪い。
霧が何かに汚染されたかのようにここに留まる事に危険を感じている。
無理にでも前に進まないといけないような気がして歩く、しばらく歩みを進めると真白い霧は次第に薄れて周りが見え始めると、あっという間に強い日差しに晒された。
日差しが強いというだけで不思議と暑さを感じない。どこかの公園にでもいるのだろうか?園路みたいな道で、道といっても道路ではない舗装されていない道、むき出しの土がなんだか忘れていた原風景の様で懐かしくなる。周りにはよく手入のされた樹木があり、それぞれが丸くカットされていてお団子のようだ。それに降りかけられた様に黄色い花が咲いていて、金木犀だろうと思う。
それは見える限りの風景にあり遠くの稜線まで続いている。稜線は丸い樹木がドットのようで独特の手法で描かれた黄色い点描画みたいだ。
放たれた芳香を大きく吸い込むが季節を感じる事は無かった。
しばらく歩いていると、金木犀独特のにおいに混じって、何処からか微かに大豆でも煮詰めるような香りが漂ってきた。その匂いを追ってさらに進むと何かの映画で見た様な明治時代の古い倉庫のような建物があり、大きな扉が丁度人が一人通れるぐらいに開いている。僕は何のことかさっぱり理解できないが頭の中で風景が勝手につながって、金木犀とか映画とか大豆や倉庫が浮かんでくる。仕方なく垂れ流しの情報に身を委ねるしかないと思いながら揺れるように歩いた。
金木犀と古い倉庫という脈絡の無さに違和感をおぼえ僕は言い知れぬ不安にさいなまれながらも扉の向こうに進むと言う選択をする。影が滲んだような倉庫の中は大きな樽がいくつも並んでいて醤油のような香で満たされていた。
樽は建物の奥まで続いていて先が見えない。たぶん歴史のある醤油の蔵元で昔ながらの製法を守っているのかも知れない。なぜか気持ち悪いほどの賑わいを感じるのに人の姿は見えないので、眼をしばたかせて見るが影のように何かが動き回るだけで何も存在しない、僕と言うモノの意識が集中出来ないみたいでコントロールのきかない夢のようだ。
「君はだれ?」
背後からの声に飛び上がりそうになり振り向くと、真っ黒な瞳の少女が無表情のまま僕を見てそこにいた。
やっと人を確認できた安心感が僕を支配する。
どこかで見た雪のような白い肌に美しく長い髪の毛が絡み付いて途中から不自然な刺青の様だ。髪の隙間から感情の読めない眼差しが不自然に光を反射する深海魚のように見えた。触れたら消えてしまいそうな儚さ、薄汚れた白いワンピースの裾が風も無いのになびいていて少女の周りだけ重力が無いように見える。この娘だけ別のレイヤーに存在しているかのように空間になじんでない。
「勝手に入ってすいません、僕も何でここにいるのかわからないんだ」
少女は不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。
「アニムスだね、いくつか集まっている。すごくキレイで大きいけど一つ死にかけている。もう長くない」
少女は表情を変えずに言った。
「僕はアニムスっていう名前じゃないけど、えーとなんだっけ」
なぜか自分の名前も出てこない、不安だけが唯一の確信で目的も思い出せないでいる。
少女は無表情のまま僕の話なんて聞いて無いようだ。ただ奥のほうを指差している。
この醤油蔵の奥に行けと言うことかなと理解して先に進むと少女も同じ方へ歩き出した。
案内してくれるのだろうか?
「ねえ、随分と歴史のある醤油の蔵だね、すごい量だし」
少女は立ち止まって樽を指差した。
「あれは金木犀の花を煮詰めて寿命の搾り汁と混ぜた物、醤油と言う物ではない、大地の薬になる。この村の仕事」
醤油では無いらしいが理解できない。しかも村の仕事って?ここは金木犀の村なのか。
さっきから本質に迫ろうとすると何かが絡み合って結論に辿り着けない、意志がまとまるのは前に進むという事だけでそれ以外は配線の間違った回路みたいに命令が行き届かない。僕は意思を持った機械なのだろうか。
「一つ聞いてもいい、アニムスって何」
少女は蔵の奥を見つめて黙々と歩きながら小さく笑った。
「救いを求めるカタマリ」
一言呟いて黙って歩き続けた。
蔵の奥に来るとあれほど強かった日の光が届かない、思っていたより大きな建物だ。外で暑さは感じないのにここはひどく寒い、いつの間にか辺りは暗闇に包まれ少女の姿もやっと確認できる程度しか見えない。時々虹色の光の玉が奥に向かって流れていくが、認識している錯覚かも知れない。まるで脳が認識を拒否しているみたいですべてが輪郭の曖昧な夢だ。頼るものもなく不安だけがこの僕をきつく縛り付けているようだ。
一歩一歩が頼りなく、いつか見えないものに躓いて転ぶと、もう二度と起き上がることが出来ないような恐怖でいっぱいになる。それは逃れようの無い変調と共に目的の思い出せない苦しみを増大させるには充分な効力を持つ。
少女の輪郭だけに集中して無言で歩く。
程なく一点の明かりが見えてきた。
それは弱く青い光で、見ていると気持ちが凍りつきそうな輝き、闇の中で見つけた光にしては希望とは隔たりがある。
そこに辿り着いて何の意味があるだろう、からだの中で意見が対立するのがわかる。
まるで自分が一人の人間でなく複数の独立した物体と小さな世界を共有しているような違和感。それは微妙なバランスの上に成り立ち、機械的で精巧な歯車で動いているようだ。
少しでも傷つけると壊れてしまいそうなガラスの膜で覆われている。
身体が重い。前に進みたくない自分と進もうとする自分のせめぎあいは光に包まれて意味を失った。一瞬眩しさに目が眩み視界を奪われる。数秒の間目をしばたかせ視界を捉えると、そこには大きな鳥居が現れた。背景が限りなく黒い空の前に真っ赤な鳥居は恐ろしく存在感がある。奥は拝殿まで続く石畳で僕と少女はそこに立っている。
横を等間隔で篝火が照らして僕を本殿に導いているようだ。僕らは何かの意思に従い石畳を歩いた。
どこからか雅楽の音が聞こえてくるが直接聞こえているわけではないたぶん心のイメージが増幅されて頭の中で響いている。心がさらけ出されるみたいな感覚はさっきから強く感じる事ができた。ここはそういうところなのだろう。
それにしても神社みたいに見えるのに宗教思想が憶えのある感覚とあってない、どことなく質感がなく全体をプラスチックで仕上げたハリボテのようでのっぺりとしている。安物のCGソフトで作り上げたみたいにモノの表面素材が嘘っぽい。それなのに少女がここに来て馴染んで見えるのはなぜだろうと思いながら歩く。
拝殿にたどり着くと酷くやせた男が立っていて僕を見定めている。
「よくきたね」と言って中へと誘われ数段の階段を上り板張りの空間へ通された。
派手な装飾や仏像などは無く中央でお焚き上げ見たいな火柱が上がっていて寒さは和らいだ。男はこの御社には似つかわしくない白い作業服のような格好をしている。まるで食品工場の作業員みたいにマスクをして顔は見えない。
さっきまで横にいた少女がその男の横にいる。何かを告げている。
男が頷いてこちらに来るがなぜか目がうまく開けられないのとやはりマスクで表情が見えない。
「不遇のアニムスよ、これを飲むがいい」
手渡されたのは小さな缶の飲料物、缶ジュース?よく見ると白い缶にバーコードのシールが貼られただけのモノ、さっきまでばらばらだった身体の中の意見が躊躇いで一致する。
得体の知れない物への恐怖心を煽る白い缶は冷えているのか握った手が痛む。
「一気に飲み干しなさい、君達は生まれ変わるよ」
生れ変るの言葉で一致していた意見の解離が始まる。
両手でしっかり缶を握る。
握った手がやけに色白で死体みたいだ。
血迷った意識がついに缶のプルタブを上げると飲み口が開かれた。
体が勝手に白い缶に集中して見たくもないのに飲み口を凝視してしまう。
香ばしい気体が僕の鼻腔にたどり着くとたちまち悪臭へと変化して怯んでしまう。
一瞬の躊躇いの後、缶が口元に押し付けられ僕の不安な部分を置き去りにして液体が体に流れ込む。
ひどい味だ、毒でも入っているのか?コーヒーに間違って大量の塩でも入れたような喉越しに空になった缶を落とし両手で首を締め上げるように押さえ込む。そうする事でひどい味が薄まる事はなく苦しいだけだが離すと耐えられそうもない。
ひざが折れて床板を捉え、体が奇妙に震えてコントロールできない。
それでも意識が遠のく事はなくかえってハッキリと冴えてくると身体の違和感が増す。
知らない間に体から汗じゃない液体が流れだし床に染みをつける。
お焚き上げの炎が勢いを増して視界がオレンジに変わったあとすべてが闇へと変わる。
闇の向うから微かな光の粒が近づいてきて流れに巻き込まれる。
今わかった。
この身体は身体じゃない、ただ人の形に保たれた何かの塊で、それを複数で共有しているのだろう。それが次第に分解されて一つ一つがさらに細かく分けられもう訳がわからない。記憶は情報として0と1に砕かれると少しずつパッケージされて色とりどりの球体に変わり再構成されている。そう見えるのはすでに僕という存在が身体の全体をただ観察するものに変わったからだろう。とり残された意識でその様子を鳥瞰的に見守っている。
すでに違和感も、共有していた体も何もなかった。時間の概念も無くなった。感情という言葉の感覚も思い出せない。あるのは様子を見ようとする自分の様なものだけ。そもそも自分って何だっけ?
ばらばらにされ振り分けられた構成物はキラキラと光りながら渦巻状に漂い次第にいくつかの塊へと変わり始める。その塊がまた集まって塊を造り、次第に3つの集合体へと変わった。
とても美しい……観察していた僕に感情が芽生えた途端全てのスイッチが切れた。
闇がどこまでも……
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