第5話 ニシジマコウスケ2

 課長からの電話で目が覚めてから一度は無視したもののやはり落ち着かない。

所詮庶民的サラリーマンの悲しいサガで、とりあえず休む事は連絡しておこうと会社に電話を入れた。

 牧田の言う事が本当で、もしもこのまま生き続ける事になれば、生活のために会社は大事な物の一つだ。現代社会において生活資金を得るための活動は何よりも優先されなければならない。西島家の新しい家訓としておこう。

「あ、もしもし西島です」

「あれ、西島さんどうしたんですか?課長怒り狂っていますよ」

 後輩の後藤が楽しそうに話す。課長はあまりお怒りでないらしい。少しホッとする。

 現状として倒れるまでは、まじめで営業成績もよい僕は課長に可愛がられていると自負している。

「課長に変わってくれるか」

「ヘーイおまちくださーい」

 こいつは居酒屋か? いつものやり取りがなんだか気持ちを落ち着かせた。

 電話の向こうから陽気な保留音が安穏な日常に僕を引き戻すように響き渡る。

 死と言うリアルを目前に見ると、会社での精神的苦痛でさえもまるで休日の昼寝のように穏やかだ。

 電話の向こう側全てがこの世にとどまる事を促すように僕にしみてくる。

 このまま牧田の申し出を拒否し、芸術にうなされながら滅んでいくのもありのような気もするが、大学卒業と同時にサラリーマンを選んだ自分を全否定するのもどうかと思う。

 芸術のために死ぬ事のできない臆病な自分を認めて仕事に勤しむのもいいだろう。

 死ぬのは怖い!と言うシンプルな表現で全てを解決するほど僕の才能は軽くないらしいが、結局才能は生きるための手段と思うと今までの自分と変わらないのだと思う。

 絵を描いて生きるか、会社勤めで給料を得るか。そんなところだ。なんとなく結論は出ている。

 それでもあと一押しと思う僕は未練たらしい男だ。

「ニシジマ~!無断欠勤とはやってくれるじゃネーか……なんてね、で、どうした?やっぱり体調不良?」

 いつも通りの課長の反応。

「すいません昨日も休んで病院行かせてもらって、胃潰瘍らしいです。家に帰っても腹痛治らなくて気付いたら今でした。それで申し訳ないんですが、今週は休ませてもらっていいですか、身体を万全に戻したいんで」

 そう言ってわざとらしく咳き込んだ。腹痛なのに。

「まあしょうがねーか、これまで無遅刻、無断欠勤なしのおまえが言うんだ、結構な病とみたのでしっかりと休め、お前が居なくても会社は何とかなるから心配するな、あっそうそう、来週からの、売り上げ強化週間期待してるよ、それじゃあおだいじにね」

 チャラっとした電話であっさりと休ませてもらった。

 だが引っかかるのは死と言う現実に晒されているからだろうか(お前が居なくても会社は何とかなる)という言葉がお決まりみたいに引っかかった。

 バブルなんて知らない僕は、サラリーマンは会社の部品、そんなよくある現実は当り前なので気にもせずに生きてきた。なのに取替えができるユニット部品みたいに社会に何の影響も与えられない事に少し苛立つ自分がいる。もちろん僕ごときでいちいち影響される世の中になど住みたくないが心情としては複雑だ。

 やはり宇宙へとどろく才能は魅力的なユニットということだろう。

 少し不満ではあるが休みは取れた。明日には牧田が来て契約を迫られるだろう、いったいどの程度延命できるのか聞いておけばよかった。

 絵を描く才能が失われても、別に絵が描けなくなるわけじゃない、普通の人間として趣味で絵を描いていけばいい、好きな気持ちは多分変わらないと安易な考えがある。大学の時もそうすればよかったと今更思うのは才能にこだわり過ぎていたからだろう。

 思えば子供の頃、折り込み広告の裏面に夢中で描いていた世界には自由があった。

 あんなに楽しかった僕の世界に、作品展で賞を取るとか他人に認められるとかノイズが混じり、自分自身を追い込んでいた事に気づくのが遅かった。

 何年かもらえたチャンスを無駄にしないように生きていこうと思う。僕は徹夜で描いた絵を見ながら処方された薬を飲む、咄嗟に「ん?」と思う。ほんの小さな違和感に心が引っかかった。何故か怖くなるがすぐに睡魔に襲われて横になった。


 つけっ放しのテレビから甲高い音楽とオープニング映像が意識に割り込んできて目が覚めた。6時のニュースが始まったのだろう。暗くなった部屋がテレビの光で不規則に点滅していて日が落ちたことを知ると何故か悲しくなった。

 空から茜色は消えてしまった。僕は今日の太陽の最後の姿を見られなかったことを酷く後悔して、眠ったせいで大事な時間が消えたのだと思った。また死に近づいたのか。死にかけの体が必死に呼吸して意識を保つ。僕はまだ生きている事を確認するため「あー」と声を出した。

 何度かバカみたいに声を出しているとスマホが鳴った。

 動きづらい体をひねりスマホを取り表示された画面を見ると彼女からだ。

 今年の春にTDLに行った時の写真が待ち受けに写し出されたのをしばらく眺めた。青い空に映えるお城の前で笑う彼女の顔、こんな感じだったかなと思い出す。

 彼女は取引先のOLで佐藤ミカ、うちの会社の製品を納品した時のちょっとしたトラブルで知り合った。取引先の人と付き合うのは営業マンとしては賢いとは言えないが、話している内に意気投合したのだから仕方が無い、出会いを大切にしないと最近の若者は普通に結婚できないらしい。

『もしもし、病院どうだった昨日からメールもくれないから心配してたよ』

 明るい声の背後が騒がしいのは飲み会だろう。ポッチャリ体系はビール好きの証なのかと思っているが口に出して言ったことは無い。

「いや、ちょっとガンだった」

 しばらく間をおいてから彼女が吹き出した。

『冗談辞めてよ、それで余命3ヶ月とか言うのなしだかんね、これから食事会なのにご飯が食べられなくなるじゃん』

 嘘じゃないんだけど、と心の中で呟きながらハハハと笑う。ついでに何があってもご飯はたべるだろうとも突っ込みたいがもちろん口には出さない。

「まあ心配ないよ、まだ体調悪いから今週は会社休むけど」

 そう言うと安心したように「良かった」と彼女が言った。ほんとに心配はしていたんだと思いうれしくなった。

『それじゃあ週末には浩介のためにスタミナご飯作りに行くから楽しみにしてね』

 要件だけのあっさりした会話で通話は終了した。

 スタミナご飯を想像するとムカムカと同時に腹が痛む、今日は食パン1枚とゆで卵しか食べて無いのに食欲が無いのは寝不足のせいじゃないよな、無理にでも何か食べないと夜の分の薬が飲めない、と言うか明日過ぎればもしかして薬飲まなくてもいいのかなと思う。

 それでも今は痛み止めが必要だ。黙って我慢するには辛すぎる。

 体を引きずるように立ち上がり、冷蔵庫からヨーグルトを取り出しふたを開けるとしばらく白いフラットな表面を眺めた。

 本当はヨーグルトなど好きじゃない、僕の中で拒否の気持ちが大きくなる。中学生の頃、健康にいいからと母親に進められて食べる習慣が付いているだけだ。

 こんな牛乳の腐った白い物体が身体にいいなんて最初に聞いた時はウソだろと思い信じなかった。けれど毎日食べさせられるうちに習慣になり実家から独立した今でも冷蔵庫には常備している。

 癌になった事と関係はないだろうが結局ヨーグルトによる健康維持はかなわなかった。

 僕はヨーグルトを躊躇いがちに流しに捨て、長年の呪縛から開放された。

 さあ何を食べようかな?

 僕はふと棚の上に置いた小さなクッキーの箱を見つけ手に取った。

 営業回りで立ち寄ったコンビニ店員にタダでもらったクッキー、コンビニの店長さんらしい女性からもらった物だ。その人は何を思ったのか、顔色の悪い僕にちゃんと食べているのかと聞いてきた。突然の質問に慌てた僕は「食欲が無いんです」と笑ってごまかした。

 昼過ぎの閑散としたコンビニで本当に食欲もなくおにぎり1個とコーヒーだけ買った僕は、よっぽど惨めに見えたのかこの期限ギリギリのクッキーをくれたのだ。

 その時言われた言葉が「仕事頑張りなさい、才能なんてなくても頑張れば私みたいに店長ぐらいにはなれるから」と言われて、何故か励まされる。

 店長といってもオーナーみたいで裕福そうだった、これから息子を習い事につれて行くと聞いたような、金持ちは才能など関係ないのだろう、僕はいただいたクッキーを口に放り込むとゆっくりと噛みしめた。

「うまいな……」

 バターの風味が口の中にひろがり意外と優しい味に思わず呟いた。

 生きていられたらあのコンビニの店長にお礼を言って、焼き肉弁当とから揚げとフランクフルトと、それとバニラのハーゲンダッツを買って食べよう。

 たかがクッキー数枚を感謝しながら食べ終えると処方された薬を飲んだ。


 朝方のチャイム、時計を見るとまだ午前四時、たぶん牧田女史だろう。眠い目をこすりながら直接玄関ドアをあける。

「おはようございます。お迎えに上がりました。さっさと着替えてください」

 牧田は涼しい顔で挨拶をしてくる。

「ちょっと待ってよ、まだ返事して無いし、それに見積もりとか言ってたよね」

 牧田は舌打ちしてにらんできた。

「まだそんな事言っているのですか?あなたは私とあった時点で、すでに答えを決めていましたよ、そんなチキン野郎な事言ってないで早くしてください皆さんお待ちですよ」

 見透かされているという事か、事実なので反論する気にもならなかった。何をじらしているんだという気分になり自分の決断力のなさに落ち込んでしまう。

「今着替えるから待っていてくれ」

 僕の煮え切らなさに痺れを切らしたような顔したが、すぐにフラットな牧田に戻り無表情のまま「下に車を止めていますから」と言って先に行ってしまった。

 顔を洗って、人に会うならと思いスーツを着たので会社に行くみたいになった。

痩せこけて、なんか幸薄そうな感じのサラリーマンがこちらを見ている。自分自身が見慣れないほど衰弱している事に驚いた。死相というのはこういう事なのだろうと思う。


 アパートの階段を下りるとそこには黒いメルセデスが止められていて後部座席が開くと牧田が手招きしてきた。なんだこのVIP待遇は?よくわからんが社長のおベンツ様より高そうな代物に少し尻込みしながら乗り込むと、僕みたいな貧乏人にもきわめて居心地のよい気持ちにしてくれるリアシートに身をゆだねる。

「チキン野郎には過ぎた車で居心地悪いでしょうがしばらく我慢してください」

 いちいち気に障る言い方は牧田の癖なのか知らないが、この人になら罵られてもいいかと思う僕は実は性的に正常では無いのかもしれない。

「鼻の下が伸びてますよ、これから説明する事をよく聞いてください、よろしいですね」

 僕は素直に頷いた。ここまで来てもう何を聞いても驚かないし僕の意見など言うだけ無駄だろう。

「それでは、今回の才能譲渡について、あなたの才能は寿命換算で四十三年です。はっきり言ってこのサイズの才能はめったに出ないです。私も久しぶりに見ました。標準的なもので十年、多くても十五,六年です。過去四十五年と言う記録がありますがその次ですね」

 何を言われても驚かないのかと思っていたが、牧田の感心する顔に驚いた。才能譲渡の標準とかわからないけど牧田の顔を見ればすごいと言う事だけはわかる。

「それで四十三年は普通の人には背負えないので怪異の者に当たったのですが」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ、怪異とは妖怪の事?」

 また驚いた僕を見て牧田は小声でチキン野郎と言った。

「いちいちうるさいですね、怪異といっても西島さんの思うものとは違うと思います。容姿も普通で人間として生きていますよ、皆さん少し特殊なだけで、社会に溶け込んでしっかりと生活なさっています。彼らは人より寿命が長いので希望者が居ると思ったのですが芸術系の才能に興味は無いようですね。彼らは長く生きるので多分名前を変える時に芸術才能は紛らわしいのだと思います皆さん金融系とか運動系とか好みますね、まあもともと芸術に疎い連中ですからしょうがないですけど」

 不人気才能なんだと落ち込んでいると牧田は大丈夫ですと胸をはった。

「ちゃんと普通の人間を探しておきました。特例ではありますが一人ではなく二人、その人たちに分け合ってもらいます、半分ずつ」

 もう驚かない、何でもありでいいと思えた。妖怪まで世界に潜んでいるからには宇宙人だって居るはずだ。こいつらだってこんな商売しているという事は人間では無いだろう。

 今頃思うのもなんだが牧田はいったい何者だ?天使とか悪魔とか、いや、待てよ、そんなオカルト的なことより宇宙人というのが妥当かと思い牧田を見ると、その薄ら笑はやはり悪魔か。

「それでご了承いただきたいのが、我々は二十パーセントの手数料をいただきます。もちろん寿命で、つまり四十三年なので八年ほどです。端数は切り捨てますので」

 手数料取られるのは意外だが確かに仲介業で(業)と付くからには当たり前か、それでも考えていたのよりだいぶ長生きできる。孫は無理でも子供は何とかなりそうだ。しかし寿命を手数料としてどうすんだと疑問に思った時、窓の外に見覚えのある人物が信号待ちをしているのをみつけた。仲良く寄り添う姿はまるで恋人同士で、しかもこの時間を考えると朝帰りだろう。

 僕は愕然としてその二人が並ぶ姿を凝視していた。

「どうかしましたか?」

 気付いた牧田が同じほうを見る。

「ああ、彼女さんですね、相手は上司、既婚者ですので完璧に不倫ですね」

 醒めた言葉を淡々と並べる牧田は何の関心もなさそうだった。

 僕に見られているとも知らずに、トドメのキスをしている二人。

「なんでお前が知っているんだ?この事も知っていたのか?」

「当然です、対象者の身辺に関する情報は何でも知っています。大学のときの事までね」

 牧田は薄笑いを浮かべて僕の方に視線を戻すと、「チキンと豚は似合わないですよ」と真顔で言った。

「あっ、家畜どうしで慰めあう、それもありですか」

 歪んでいく顔が美しすぎて反論する気になれなかった。

 僕は不倫中の彼女よりもなぜか大学時代のことが気になった。それはきっと流されて付き合いだしたミカがそれほど好きではないのだと思う。実際、ミカからの連絡は少ないような気がしたし、僕もそれほど気にはしなかった。その事について考えた事がないのは面倒からにげていただけなのか、後輩の後藤が彼女と同棲しているのが不思議で、そんなにいつも一緒で疲れないかと聞いた事がある。

「エッチする時だけ会うなんて、それじゃあただのセフレじゃないですか」と言われた時そんな事は無いと反論した僕のほうが間違っていたのだろう。まさにセフレ、ミカが結婚を望んでいると思ったのはただの勘違いかもしれない。

 溜息が出たのは自分に呆れたからだ。

「牧田さん、大学の時、何で美由紀が僕から離れたか知っていますか?」

 恥を忍んで聞いてみた。予想される答えは美由紀がいなくなった時に何度もシミュレーションしたが、ホントの答えには辿り着けないまま放置状態だ。美由紀が僕を捨てたという事実に向き合えないでいる。

「知っていますよ。でも教えません、個人情報保護法は我々にも適用されます。ご自分で確認されたらどうですか。携帯番号もアドレスもご存知なのですから」

 それができれば苦しまないよ、「んっ?」携帯番号もメールアドレスもって、昔と変わりないのか、それってやっぱり無視されていることになるのでは……聞かなきゃよかったよと思うと同時に今まで送って何かを期待していたメールにひどく後悔した。

 昨日も送ちゃったし、それもあんなに朝早く。ミカの不倫よりも打撃が大きい事に情けなくなる。牧田がこちらを見て言いそうな言葉を遮る。

「わかってる、皆まで言うな」


 坂道が続く住宅地を抜けてから峠の道に入る。

 普通の狭い山道で舗装こそされているがすれ違う車もない、どこに連れて行かれるのだろうと不安になる。しばらくすると脇道にCGSのロゴのあるゲートが見えて、そこをくぐると、なぜか空気の色が変わった様な気持ちになった。

 空気に色などあるはずもなく、俺の思い過ごしなのだが違和感がぬぐえないまま車は進んでいった。

 ゲートからしばらく意味の分からない3mぐらいのポールが等間隔で並んでいて、先端が少し発光しているように見えた。そこを過ぎるまで何度か重力を失ったような感覚に襲われるが、運転手も牧田も平気な顔でいるので気のせいだろうと思う。俺のすべての器官が少し乗り物酔いなのかもしれない。

 さっきまで晴れて薄く朝日が滲んでいた空は鉛色に変わってしまい雨が落ちてきた。山の天気は変わりやすいのだろう。

 牧田が暗い表情で「雨は不吉だ」と呟くが不吉の意味をはかりかねて僕は黙り続け、異様な沈黙だけが車内に充満する。静かな車内で運転手がワイパーを動かし2、3度左右に揺れて視界の雨を掻いた。雨が掻かれたあと車は大きく峰を回り込み徐々に視界が開けたと思うと忽然と近代的な建物が現れた。山中とは思えないほど広く、平らに整備された敷地にガラス張りで同じ形のビルが2棟建っている。

 そのツインタワーの間に低いエントランス棟がありそこに向かって車は進む。ここだけ雨は止んでしまったのかビルの壁面カーテンウォールがまぶしいほど輝いている。ツインタワーの壁面に飲み込まれるように入口に向かうと建物は途中から高くなっていき空がなくなった。気付かないうちに地下駐車場に降りるスロープに合流していたのだ。何度か緩く曲がり地下のエントランスに辿り着く。

 かなり広い地下施設、薄暗い照明のせいで駐車場の端が良く見えないし止まっている車は高級車ばかりで異様な空間に思えて怖くなった。

 車を降りると異様な空間は凄みを増して僕に降りかかってくる。感覚として静かな地下空間と思い込んでいたので野獣のようなうなり声と肌に感じる空気の流れで思わず耳をふさいだ。

「換気のための機械音です。ぶれないチキンっぷりに感服いたします」

 牧田の冷や水のような口ぶりにホッとして苦笑いする。それにしてもこれだけ大きい空調設備の音で、この空間が広大と言うことを思い知らされる。とんでもない所につれてこられたような気がして身震いしてから足早に入り口に逃げ込んだ。

 駐車場とは裏腹に風除室を抜けたエントランス内は、以前ネットで見かけた洗練されたヨーロッパの小さなホテルのように落ち着いた色調の壁や床に品のいい調度品で飾られていた。大きい音はすでに遮断され天井のスピーカーから耳障りにならないように音楽が流れていた。

 牧田にくっついて落着いた空間を歩く、施設規模の割にはこじんまりとしたロビーを抜けると長い廊下にでた。

 廊下の横にある小さな窓から警備員と思しき人が牧田を見て軽く会釈したのにつられ僕も頭を下げる。早足で歩く長い廊下はファブリックの床で足音が消され息をするのも憚られるように静かだ。さっきまで聞こえていた音楽は消え僕の鼓動だけが早くなる。

 ただ黙々と牧田についていく、落着いた色合いに飲み込まれてしまいそうになる。2度曲がって一度エレベーターでB5からB2に上がった。

 もうどのくらい歩いたのかわからないし牧田は一言も喋らない。

 思いのほか長い廊下に違和感を覚えはじめた時、両開きで木製のドアに突き当たる。

 重厚でスキのないデザインは、堅苦しい施設のようで開けるのがためらわれる。

 そんな僕の思いなど無視して、牧田は慣れた感じでノックもせずに無造作にあけた。

 屋外ですか?と思うほど自然光が差し込んできた。

ここは確か地下二階のはず、天然の光に少し眩しくて細めた瞳に映ったのは、部屋ではなく広い吹き抜けのあるホールだった。

 呆気にとられていると牧田が「少しお待ちください」と言ってどこかに行ってしまい隅のベンチに一人取り残される。見知らぬ空間で俺は情けないほど子供みたいに不安になるがこのホールに居ることですぐにそんな不安は忘れてしまう。

 それにしてもすごい所に連れてこられたものだと感心して、さっきの駐車場のエントランスと違いホールの芸術性に気が付いて胸が高鳴った。空間がここまで美しいと違う怖さがある。迫力に気圧されて自分の小ささに気づかされる。

 キチンと磨かれたホールの床は鏡のような黒御影で、輝いていて中央に大きく白と赤茶の石張りでサークルが表現されている。まるで魔法陣のように見えるそのデザインは各オブジェクトの配置を計算してぴったりと収められている。全体に天井から差し込んで反射する光が石の固さを柔らかに暈すのが神々しく、さらに直線的に柱や壁を写しこむ事で近代的な清閑さが漂う景色となり、それは嫌味になるギリギリで保たれ僕の感情を激しく揺さぶった。建築が行き着く芸術の極みだなと腕組みして頷いた。

 ふと考える。この感動は僕の才能による感じ方で、これが消えると何も感じない人間になってしまうのか?これが感じられないと言うのは生きるに値するのだろうか。

 感覚を失う恐怖が襲ってきた。それは視力や聴力を失う事と同等ではないのか?人としては五体満足で十分成立しているはずなのに、それを失うことにより人としての価値が恐ろしく下がってしまう事なのではないか?

 少し寒いな……「死ぬより怖いことはない」自分に言い訳して無理矢理落ち着いた。

 もう一度空間を見上げる。

 ここは地下にあるエントランスホールなのか上を見ると明らかに来るときに見たエントランス棟である。地上の低い建物はただの明り取りで、吹き抜けた空間を日光で満たすためのモノだ。ツインタワーの谷間でありながら、各棟のガラスの反射光がうまく取り入れられるように工夫されているのだろう。ここが地下であることを忘れさせる。

 ホール正面にはインフォメーションがありそこだけ色の違う壁が飛び出しその前に楕円のカウンターが取り付けられるたようなユニットになっている。そこに人間じゃないかもしれない黒いスーツ姿のモノが並んでいる。正面の壁は上に行くほど微妙に狭くなっていて視覚的に高く見えるようになっているみたいだ。その壁面には目線より高い位置に2枚の絵が掛けられていてカウンターを中心線にそれぞれ右端と左端にある。それは対になるモノに見える。僕の見立てでは光と影、いや違う、光と闇を表しているように見えた。

 すばらしい絵画だが僕が今までに見たことのない絵だった。それなのにこのホールに飾るには少し力が足りないように思えるのはなぜだろう。僕の才能がそれを凌駕しているのだろうか。それでも何とか空間を支えているようには見えた。

 左の壁には幾つかのドアがありひっきりなしにスーツ姿の人が出入りしている。

 右の壁面には彫刻や観葉植物がバランスよく置かれ中央に滝があり緩く水が落ちる。

 僕の想像では古い洋館とか、宗教じみた道場とかに連れて来られると勝手にイメージしていたのでこの近代的豪華さにちょっと拍子抜けだ。

 なんにせよこの不景気の時代にとにかく金のかかった施設である。

 ジーンズにパーカーで来なくて良かったと心から思った。

 僕はこんな洗練された空気に逆らう気力など無い、こんな所で浮いた存在になると言う事は窒息する事を意味する。以前商品のパッケージデザインの打ち合わせでデザイン会社の人間と大手の商社に出向いた時、デザイナーがジーンズにパーカーだった。超がつくほど洗練された空間であれは肩身が狭かった。冷や汗を掻かずにすんでほっとしているところに戻ってきた牧田が話しかけてきた。

「これから連れて行くところは研究施設ですが、あなたは実験動物では無いのでいちいちビビらないでください、それと他に2名、先ほど申し上げた譲渡される側の人間がいますが会話などは一切しないでください、トラブルの原因です。名前は番号で呼びます。西島さんはNO1です呼ばれても返事はいりません、黙って従ってください、部屋は薄暗いですから表情とか見えないと思いますのでよろしく、それではご案内します」

 そう言って歩き出した牧田の後ろについて滝の前に来る。

 なぜ滝の前?

 僕の疑問など置き去りにして立ち止まった牧田は横にある腰高くらいの石に据付けられたコントロールパネルに何かのカードをかざしたあとパネルにタッチした。

 パネル上のランプが赤から緑にかわる。

 数秒置いて微弱な振動と共に滝を受けとめていた床の一部がせり上がり、地下への階段が現れた。

「この仕掛け必要なのか」と思わず突っ込んだ。

 牧田はネットワークの癖ですからと表情を変えない。

 どこぞのゾンビゲームみたいな大げさな演出でホールの喧騒が引き裂かれ注目の的だなと思い周りを見ると、誰一人関心を示さない。それどころかせり上がった床の横にいたおじさんは微動だにせずタブレットを操作していた。

 やはりこの連中は人間じゃないな、一見普通のオフィスビルのホールだが、そこにいる人間モドキはプログラムで動かされているように無駄な動きはなかった。

 牧田に促され階段を下り廊下に出ると降りてきた階段は静かに壁に戻った。

 これで逃げる事はできない、別に命を救ってもらいに行くだけで恐れなど必要ないのに緊張感はその逆のイメージを浮かばせる。牧田は無言だ。チキン野郎といってもらいたくなる。喉がからからで息苦しいし、さっきのホールと違ってなんだか暑い、それにどこからか硫黄のような臭いがするのは研究施設だからだろうか。奥に進むにつれ無機質な廊下は心なしか照明の暖色が濃くなりすぎて赤に近くなった。

「こちらです」

 牧田の示すスチール製のシンプルなドアが音もなく開く。

「中央の椅子にお座りください」

 幅は無いがキャッチボールが出来そうなほど奥に長い部屋だ。そこに左の壁面を背に数メートル間隔で三つ並んだ椅子には両端に人が座っている。卵を斜めに半切りにしたみたいな椅子が人間を包んでいるみたいで奇妙な感じだ。ぎりぎりまで絞られた照明のため暗くて顔は見えないが左が女で右が男なのはわかる。

 かるくお辞儀をして中央の椅子に座った。

 座って正面を見ると小さな光の点が無数に映し出され宇宙を飛んでいるみたいに迫っては後ろに流れていく、意味はわからないが壁がパネルスクリーンになっているようだ。

 牧田は奥にあるモニタールームらしい小部屋に入った。ハメ殺しの大きな窓からこちらをうかがっているのが見える。後から何人かの白衣の連中も入っていった。

 数分の待機時間が過ぎた。

 部屋の中で三人押し黙って指示を待つ、緊張で変な汗が背中を湿らせる。スクリーンに映る流れる光はさっきより早くなった。

 それにより僕の動悸も早くなったように思う。

(キーーーーーン)

 急にスピーカーから聴覚を刺激するハウリング音がして体が反応して尻が浮いた。

「それではこれから才能器官の結合による才能の譲渡を行います。NO1の人は今から薬を持っていきますので飲んでください。NO2、3は待機」

 白衣の人が金属製の盆を持ってきた上には薬とペットボトルがのっている。薬を受け取るとそれはちょっと大きい錠剤で口に入れたあと飲み込めるのか不安になった。それでも大量の水で無理やりに流し込む。食道が痛いような気がしてさらに水を飲んだ。

 僕が薬を飲んでから白衣の人が横で時間を計って数分後、瞼を開かれライトで瞳孔をチェックされた。白衣の人が軽く合図するように手を挙げる。

「それではNO2と3の人はいまから精神結合薬の注射をしますのでお願いします」

 女性のほうが「エッ」と声を上げた。注射は予想外だったのだろう。それでも気持ちが決まっているのか素直に応じていた。針を刺す時のスタンド照明で女性の口元が見えた。きつく結んだ口元にその人の決意を感じ、どうか僕の才能を有効に使ってくださいと願う。


 薬のせいだろうか頭がぼんやりとしてきた。

スクリーンの光はさらに早くなる。動悸は光に慣れたのか平常で落着いていた。

 白衣の一人がモニタールームに向かいもう一度右手を挙げると「準備できました。大丈夫です」と言って椅子の上の方をいじってから部屋を出て行った。

 僕は牧田のいるモニタールームを見ようとしたが金縛りにでもあったみたいに体が動かない、視線は常に光を追っていた。

 急に睡魔が襲ってきて恐ろしく眠い、それなのに針金で引っかかったみたいに瞼が動かないので脳に変なストレスがかかる。

 閉じない瞳で見せられる光が速過ぎて僕の身体は実際に強く椅子の背に押し付けられたみたいだ。本当に飛んでいるのかもしれない。

 しばらくして光は点から線に、瞳は耐えきれず涙で溢れ、光は滲んで面になり部屋全体が一つの光源になった。

 まぶしすぎるのに動かない瞼のせいで強制的に終了してしまった視力が闇に落ちる。この意識はすでに夢なのか体が重さを失ったようにふわり浮いた気がした。

 僕は怖くて強く拳を握り締める。

「何があっても先に進んでください」という誰かの言葉を最後に耳が聞こえなくなる。

 意味がわからない。

 光のスピードに乗っていた部屋は突然全てが止まったみたいでまるで時間の外に飛び出したみたいに体に感じていた精神との距離が無くなった。

 空間に溶け込んでしまったように実体を感じることが出来なくなった。

 意識だけが僕だ。

 ただ僕は誰なのかという答えはとうに失われている。

 さっきまでしつこく鼻先を撫で回していた硫黄の匂いが消えて、どこからか金木犀の香が漂ってくると僕は重力に囚われ高所から落ちている感覚になる、いや底辺に吸い込まれていると言った方が正しい。

 底に行くにしたがって感覚器官が再生を始める。

 徐々に視力が戻る。

 どこまでも続く空。何度か白い雲を突き抜けて、僕は本当に落ちているんだと思う。

 不思議だ。怖くない、僕の中で恐怖の感情が消えてしまったみたいだ。

 地上に近づくほど僕の肢体にノイズが走り空気の成分まで感じることができた。

 感情や生活やすべての僕は僕を棄てまっさらな物質に変わる。いつしか心のほとんどの余計な部分がそぎ落とされ、こうしている意味すら思い出せなくなった。

 きっと純粋な存在になったのだと感じる。

 それでも薄れていく意識の中、「生きる」というワードが象徴のようにそこに在る。

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