第4話





 見つめ合ってから、どれぐらい経ったのだろうか。


 痛みに、少しは慣れたような気がする。

 気持ちの問題だから、怪我が良くなったということは、全く無いのだが。

 それでも、精神的には楽になった。


 私は全身の筋肉を動かして、ゆっくりと起き上がる。

 そして壁を背にして座り、真正面から対峙した。


「いつまで見つめ合っているつもりですか?」


 声をかけたのは、もう逃げるという考えが無くなったからだ。

 上手く走ることが出来ないのだから、逃げたところで捕まるのがオチだろう。


 それならば、何故追いかけて来たのか、知る権利は私にある。


「どうして私を追いかけてきたのですか? 私の何が良かったのでしょう……最後に教えてもらえませんか?」


 座ったからとはいえ、楽になってはいない。

 私は少し動くたびに痛みが走って、そのたびに顔をしかめた。


「いたた。あの、何もしないつもりなら、私は救急車を呼びたいです。このままだと、本当に辛くて。死にはしないでしょうけど、お願いしますよ」


 お腹の上に手を置けば、呼吸で上下する。


 その動きを感じながら、私は懇願し命乞いをした。

 命が助かるのならば、何でも出来ると思った。


「私、このまま死にたくないです。色々とやりたいことはありますし、生徒達を残していきたくないです」


 深呼吸をして、私は涙を流す。

 同情を誘っているわけではない。

 勝手に溢れ出てしまったのだ。


「あなたのこと、聞きました。私を呑み込むつもりなんでしょう。もう私の代わりはいるのですか? 明日には、代わっているのでしょうか」


 階段の上の存在が、ようやく動きを見せた。


 一段、一段、ゆっくりと階段を下りてくる。

 私を殺すつもりなのか、生かすつもりなのか、それとも呑み込んで消すつもりなのか。


 私の元に辿り着いた時に、それが分かるのだろう。

 私は瞬きすらも惜しく、目をそらすことなく待っていた。


 そして、黒い靄は目の前に立った。

 近くに来ても、正体が何か判別することは出来ない。

 判別できないが、私を傷つけるつもりが無いと思った。


 もやもやしたものが伸ばされて、私の頬に触れた。

 まるで氷かと錯覚するぐらいに冷たくて、鳥肌が立つ。

 触れられている部分から、体温を奪われていく気分になる。


 愛玩動物を相手にしているみたいに、頬を何度も何度も撫でられた。

 私は気持ち悪さを感じず、どこか懐かしい気持ちになった。



 このまま、私は助かる。



 そう思っていた矢先、動きが不穏なものに変わった。

 触れている位置が、どんどん下にずれていき、私の胸の辺りで止まる。

 そして包み込み、黒い靄で覆われてしまった。


 まさか性的な意味で、何かをしてくるわけではないよな。

 思いもよらなかった展開に、背筋が冷たくなる。

 さすがにそれは、ある意味殺されるよりも拒否したい。


 性的な意味で狙われているかもしれないと思ったら、恐怖心が再び戻ってくる。

 逃げようにも、前には黒い靄、後ろには壁。


 逃げ場なんて、どこにも無かった。


「い、いや」


 どうすればいいか迷っている間にも、触れてくる力が強くなる。

 自然と、私の口から悲鳴が出てしまった。


「やめて」


 私の言葉に、黒い靄は同情してくれるわけがない。


 ズズズ、そんな音を立てながら、服と皮膚を通り過ぎて胸の中に入ってきた。

 痛みはない。

 しかし、逆にそれがおかしかった。


 どうして痛くないのか。

 心臓に到達しているであるはずなのに。

 黒い靄は、好き勝手に私の中で暴れている。

 全く何も感じず、見ている私は気持ち悪くなってきた。


 一体、何を目的にしているのか。

 それは理解したくなくても、分かってしまった。


 心臓を取り出そうとしていて、そのために、色々と邪魔なものを取り除いているのだ。

 こうしている間にも、ズズズという音と共に黒い靄が引き抜かれていく。


 その中には、とても真っ赤で鼓動している心臓があった。

 心臓が無くなった時に、私はどうなってしまうのだろう。

 止めることは出来ず、完全に私の中から心臓が無くなった。



 それなのに、私は生きている。



 とても不思議な気分だ。

 自らの心臓が動いているのを、客観的に見るのは。

 生きている、そんな実感をした。



 私の心臓。私の大切な心臓。



 一瞬の間。それは、黒い靄の中に取り込まれた。

 大きな喪失感。私の存在が、私のものではなくなった。


「……は……」


 吐息が出た。

 しかし私の驚きは、まだ終わらない。


 心臓を取り込んだ黒い靄は、どんどん人の形に変わっていく。

 私よりも背が高く、男性の形に。

 まるで魔法みたいで、私は見とれてしまった。


「……ふう……」


 白衣姿、学生に間違うぐらいの童顔。


 私は、目の前にいる人を知っている。


「い、伊藤先生?」


 名前を呼んだ。

 そうすれば、自身の体を隅々と見ていた伊藤先生は、私を見る。


「ありがとうございます」


 何のお礼だろう。

 きっと、私にとっては良くないものだ。


 だって私の体の周りを、黒い靄が包み込み始めたのだから。


 伊藤先生は楽しそうに私の変化を眺めながら、助けてくれる気配はなかった。

 懐かしんでいるようにも見える。


「……あ、助けて……」


 無駄だと分かっていても、私は助けを求めて手を伸ばした。


「助けて、ですか。私が助けを求めても、存在すらも忘れていたのに。大丈夫ですよ。少ししたら、分かりますから」


 しかし助けてくれるはずもなく、優しく切り捨てられた。


 私は、全身を黒い靄で包み込まれる絶望を味わいながら、同時に別のことも考えていた。



 伊藤先生は、今までどこにいたのだろう。

 いなくなっていたのに、全く気が付かなかった。


 きっとそれが、私の罪なのだろう。



 ━━━━━━━━━━━━━━━



「……これで私の話は終わりです。何か質問があれば、時間がまだあるので受け付けますよ」


 話を終えた伊藤は、穏やかに生徒達を見回す。

 伊藤と視線の合った生徒達は、目をそらした。

 ほとんどが話に混乱して、質問を考える余裕が無かった。


 しかしその中で、いち早く冷静さを取り戻した生徒がいた。


「あの、今まで話の視点は伊藤先生だと思っていましたが、それは違いますよね。それじゃあ、誰視点だか分かりませんが、その人が考えていたことを伊藤先生が分かるわけありませんよね」


 理香だった。

 彼女の顔色は悪かったが、それでも凛として伊藤に立ち向かった。


「これは、伊藤先生の作り話ですよね」


 彼女が立ち向かったことで、他の生徒も回復した。


 そうだ。

 今までの話は、絶対に作り話だ。

 伊藤の話は矛盾だらけなのだから。


 そういった考えが取り巻いて、生徒達の表情に安堵が含まれる。

 教室内の空気も、和らいだものになった。


「__これは、私の話ですよ」


 しかし、それを伊藤が壊す。

 表情を変えないまま、もう一度強く言い切った。


「全て私が感じ、体験した話です。嘘偽りはありません」


 伊藤の表情は、嘘を言っているようには見えない。

 そして、自身の胸に手を当てる。


「私、私はここにいます。ここも含めて私です。私のものです」


 心臓の位置を撫でながら、伊藤は笑い続けた。


「……この学校はですね。気に入ったものを呑み込んだ後、呑み込んだものは学校の一部となるのです。誰にも気づかれず、さまようだけの存在にね」


 生徒達の顔を、再び見回す。

 その表情が変わらないからこそ、恐ろしさは増した。


「私は何度も呼びかけました。あなたにも、あなたにも、あなたにも、ここにいる全員にね。しかし、誰も気が付かなかった。その時の絶望を、分かってくれる人なんていないでしょうね」


 生徒の何人かを指さし、深くため息を吐く。そして、下を向いた。


「生贄を選んで、入れ替わった時は驚きました。誰も私がいなかった時のことなんて、覚えていなかったのですから。そういうものだと受け入れるまでは、違和感しかなかった。こうして先生を続けられているので、良かったと思いますが」


 伊藤は、ゆっくりと顔を上げた。

 その顔からは、表情はごっそりと抜け落ちていた。


「しかし、どうしても許せないことがあります」


 恨むように、憎むように、殺意を持っているように見える。


「何故、選ばれるのが先生だけなのか。おかしいでしょう? 別に、学校にいるのは先生だけではない。数で言えば、そっちの方が多い。選びたい放題じゃないですか。そう思うでしょう?」


 一人一人丁寧に、生徒達の顔を伊藤は見ていく。


「安心してください。この中の誰がいなくなったとしても、気にする人はいませんし、困ることもない。誰かを代わりにすれば、戻ってこられますから」


 ざわめく生徒達。

 どんどん声が大きくなっていき、騒がしいぐらいだった。


 伊藤が腕を振り上げた。

 そして手に持っていたものを、勢いよく叩きつける。


 大きな音が鳴り、後には静寂が訪れる。


「これは、みなさんにプレゼントです」


 注目をものともせず、伊藤は笑う。


「この中には、いない人が一人写っています。それを探せるものなら、探してください。きっと喜んでくれるはずですよ」


 それはアルバムだった。最新版のもの。


「まあ、きっと分かるはずがありませんけど。それが、これからあなた達のうちの誰かに、起こり得ることです」


 満面の笑みを浮かべた、その背後には、黒い靄が一瞬見えた気がした。





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