第3話
肩に手が置かれた。
気のせいでも、何かと間違えているわけでもない。
ジャージ越しにではあるが、指の形まで分かってしまうのは、気味の悪さしかない。
ひく、喉から変な音が鳴った。
あまりに驚きが強いと、ここまで頭が真っ白になるものなのか。
叫ぶことも動くことも出来ず、立ちすくんでいた。
その状態で、数分の時が過ぎる。
不思議なことに、肩にある手は何もしてこなかった。
危害を加えるつもりは、もしかして無いのか。
そう期待しかけたが、すぐに違うと感じた。
もしそうだとすれば、肩に手を置かれた意味が分からない。
何かをするつもりで、私の前に現れたのだ。
どういう目的であれ、覚悟を決めて、慎重に行動するしかない。
まだ何もしてこないのだから、考える時間は、まだまだある。
私の前に置かれた選択肢は、四つ。
一つ目は、手の正体を確かめるために振り向く。
二つ目は、後ろを振り向かず逃げる。
三つ目は、ポケットに入っているスマートフォンを取り出して、誰かに助けて求める。
四つ目は、このまま朝が来るまで膠着状態を続ける。
そのどれもが、上手くいくとは思えない。
どれを選択したとしても、最悪な結果が容易に想像出来た。
さて、どうしたものか。
私は考えに考えて、今までの人生の中で一番脳みそを回転させた。
そうしたおかげか、冷静になってくる。
固まっていた体も、いつも通りに動かせそうだ。
足を微かに動かして確認すると、次にするべき行動は決まった。
息を大きく吸い込んだ。
そして私は、勢いよく逃げ出した。
逃げるのを選択したはいいが、あまり走るのは得意ではない。
加齢と共に、体力の衰えも感じている。
それでも、逃げることを選んだ。
選択肢の中で、一番現実的で解決する可能性が高いと思った。
必死に足を動かして、誰もいない廊下を走る。
懐中電灯の明かりだけが頼りなので、もしも障害物があれば躓いてしまいそうだ。
しかし慎重に行こうとすれば、逃げている意味が無くなる。
目的地は仮眠室だ。
あそこまで辿り着ければ、きっと助かる。
根拠はなかったが、自信だけはあった。
あそこは明るくて暖かい。
そこならば、幽霊などの存在も近づけまい。
部屋の中で朝まで過ごせば、他の先生が来て何とかなるはずだ。
仮眠室までは、二階分下りて五十メートルほど行けば辿り着く。
背後から追いかけてくる気配もない。
もしかしたら、後ろには何もいない可能性もある。
確かめる気は、全く無いが。
階段を転がり落ちる勢いで、一段飛ばしで下りた。
何度も踏み外しそうになりながら、それでも速度を変えることは無かった。
あと少しで、階段が終わる。
その事実に、私は気が緩んでしまった。
やってしまった。
そう思った時には、もう遅い。
足を置いたところには何もなく、浮遊感と共に私の体は前へと飛んだ。
まるでスローモーションのように、落ちていくのを感じた。
階段の汚れ、その一つ一つが細部まで見える。
掃除が行き届いていないな。
そんな別のことを考えながら、私はゆっくりと落ちていった。
何段上から、落ちたのか。
床とぶつかった衝撃は、すさまじかった。
全身が痛くて、肺から空気が全て無くなる。
喉から、カエルが潰れたような声が出てしまう。
痛い、熱い、痛い。
骨が折れたとは思いたくないが、確実に打撲しているだろう。
床に仰向けで寝転がりながら、私は痛みに耐えていた。
起き上がりたいが、全く動かせない。
指の一本すらも。
浅い呼吸を重ねながら、回復に努めた。
落ちたせいで、懐中電灯はどこかにいってしまった。
暗闇の中、階段の上に何かの気配を感じた。
黒い靄のような、禍々しい何か。
それは私のことを、ただ見つめていた。
痛みに苦しんでいる私を、観察しているように思えた。
私がここで死ぬのを、待っているのだろうか。
ふと、そう思った。
今、この状況になっているのは、全て私自身のせいだ。
向こうは何もしていない。
私が勝手に逃げて、勝手に階段から落ちて、勝手に痛みに苦しんでいるだけ。
学校が、気に入った教師を呑み込む。
そんな怪談話に踊らされて、私は最悪の選択をしてしまった。
この状況も、自業自得だ。
ここで死んだとしても、仕方がない。
深呼吸をしても、痛みは全く和らいでくれない。
私は未だに動くことは出来なくて、見つめてくる存在を見つめ返していた。
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チャイムが鳴った。
伊藤は話を止めて、立ち上がる。
「時間になってしまったみたいですね。ここで一旦、終わりにしましょうか」
それで生徒達は、納得出来るわけが無かった。
この前も気になったまま、数日過ごしたのだ。
それをまた繰り返すのは、精神的に限界がある。
今日の授業で話が終わると思っていたから、何とか今まで耐えられていたのだ。
これ以上、待つなんて無理だった。
生徒達の顔は、鬼気迫るものになっている。
伊藤を睨む勢いで、見ている人もいた。
「あれ? どうしたのかな? とても怖い顔をしているね。もしかして、続きがきになるのかな?」
伊藤も、生徒達の様子に気が付いたみたいだ。
頬をかいて、何故か照れくさそうに笑った。
「そんなみなさんに朗報です。実は次の授業の先生が、急に出張に行くことになりまして。……次の授業も歴史です。そのため、話の続きをしようかと思っています」
伊藤が教室を出て行ったあと、生徒達は中心に集まった。
そして顔を突き合わせて、相談を始める。
「ねえ、今の話どう思う?」
「どうって……本当なんじゃないの? 先生が宿直をする仕事はあるって、聞いたことあるし。山口先生は、あんなになったでしょ?」
「やっぱり、そうなのかな」
話題は当たり前だが、伊藤の話のことだった。
真剣な顔で、重苦しい雰囲気で話をしている様子に、他のクラスの生徒は教室に入ることが出来なかった。
それぞれが自分の意見を言い合う中、理香が顔を青ざめさせて小さな悲鳴を上げた。
「どうしたの?」
ただならぬ様子に、全員が心配をする。
注目が集まった理香は、顔色が悪いまま、絞り出すように言葉を発した。
「あ、あのさ……伊藤先生、一度怪我をして学校を休んだ時……あったよね……?」
途端に、ざわめく。
生徒達の脳裏には、一つの記憶が呼び起こされていた。
理香の言う通り、伊藤は数か月前にけがをして、学校を休んだことがある。
復帰した時は、至るところに包帯やガーゼがあって、とても痛々しかった。
どうして怪我をしたのか聞いても、濁すだけで答えない。
そのせいで生徒達の間では、伊藤は親父狩りに遭ったという結論になった。
時間が経つにつれて傷は癒えたので、いつしか誰も気にしなくなってしまった。
その数か月前の記憶が、一気によみがえった。
「凄い怪我でさ、全身ガーゼだらけで酷かったよね」
「……もしかして、階段から落ちた怪我だったってこと?」
「その可能性ありえるよね」
「やっぱり……本当の話ってことなの……?」
生徒達の間で、冷たい空気が流れる。
誰もが無言になって、顔を見合わせていた。
そして誰も何も言わず、席へと戻っていく。
各々の頭の中は混乱しながら、どうすればいいのか分からなくなっていた。
そうしている間に、十分が経過したらしい。
チャイムの音と共に、伊藤が入ってきた。
その手には何かがあるが、生徒達には分からなかった。
「席に着いてください。チャイムは、もう鳴りましたよ」
まだ席に着いていない人達を見て、伊藤は眉を下げて困った顔をする。
その言葉に、立っていた人は、慌てて自分の席に座った。
「……それでは話の続きを。おそらく、この時間で終わると思います」
手に持ったものを教卓に置くと、伊藤は話を再開した。
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