終戦記念日にあたって、義烈空挺隊を追憶する。
昭和20年5月24日18時50分、日本陸軍第3独立飛行隊所属の12機の
97式重爆撃機が、熊本にあった健軍飛行場を飛び立ちました。
後の世で語り草となる、【義烈空挺隊】の出撃です。
この【義烈空挺隊】の目標は、アメリカ軍に占領された沖縄にある北(読谷)、
及び中飛行場に夜間強行着陸し、重爆に搭乗した空挺隊員が飛び出して、
飛行場にあるアメリカ軍機、並びにその施設を破壊する事でした。
敵の占領する飛行場に、夜間強行着陸を敢行して、
航空機や施設を破壊すると言うのですから、
当り前ですが、生還の見込は全くありません。
当時、この二つの飛行場から飛び立つアメリカ軍機の妨害により、
九州の基地を飛び立つ特攻隊が大きな被害を受けており、
これを援護する…すなわち、特攻の為の特攻と言える作戦だったのです。
重爆が飛行場で止まる前、まだ滑走している状態の飛行機から飛び出して、
暗夜の中、爆雷や手榴弾、銃器を使ってこの任務を遂行するのは、
簡単な事でありません、相当な練度が必要です。
実際この部隊は、元々サイパン島でB-29が展開する飛行場に
強行着陸して、これを破壊する事を目的に設立された部隊ですから、
前年より猛訓練を実施、その練度は陸軍内でも最高クラスでした。
全員が柔道、剣道有段者の猛者であり、
空挺隊員は暗夜の滑走路を合図の呼子だけで自由自在に進退し、
部隊の集合離散も速やかで、当時の日本軍では数少なかった
強力な100式機関短銃や89式重擲弾筒を含む各種小火器で重武装し、
手榴弾10~15発を詰めた弾帯や雑のう、破甲爆雷、2瓩柄付き爆薬などの
破壊機材も装備、重爆のパイロットはレーダーを避けるため、
羅針儀ひとつを頼りに暗夜、海上5mという超低空飛行を苦も無く行う、
極めて高度な操縦技術を誇っていました(重爆1機当たりの搭乗数は、
飛行隊隊員2~3名、空挺隊員11~12名から構成されていました)。
この最精鋭の部隊を持ってしても成功の確率は5分5分、ないしはそれ以下と
見られていましたが、空挺隊指揮官である奥山大尉と重爆指揮官諏訪部大尉以下、
総勢168名の隊員の士気は極めて高く、この日の出撃に備えていたのです。
出撃に先立ち、空挺隊隊長である奥山道郎大尉は、部下に訓辞します。
「出撃に当たり、隊長として最後の訓辞を与える。
待望の出撃の日は遂に到来をした。
平生、訓練の成果を発揮をして、敵アメリカの心胆を震駭し、
全軍決勝の先駆けとなるはまさに今日である」
大勢が涙を流し、帽子を振りながら見送る中、操縦席の風防を開け、
笑顔で破顔し、大きく手を振る奥山道郎大尉と諏訪部忠一大尉の写真が、
今日も残されています。
出撃した義烈空挺隊ですが、12機の97式重爆撃機の内、
4機が発動機などの不調により引き返し、沖縄に向かったのは8機になります。
行動秘匿のために義烈空挺隊からの通信は沖縄西方海上での変針時、沖縄本島到着、只今突入の3回と予め決められていました。
ただ、21:10の変針、22:00の沖縄本島への到着予定時刻にはいずれも連絡なく、
無線を聞いていた第六航空軍司令部は重苦しい雰囲気に包まれます。
しかし、22:11になって奥山隊長機から、
「オクオクオク オクオクオク ツイタツイタツイタ ツイタツイタツイタ」
と、待望の入電があり、義烈空挺隊が沖縄の飛行場に到達した事が判明、
そしてその無電が義烈空挺隊から発された最初で最後の無電となりました。
後のアメリカ軍の調査によると、
北(読谷)飛行場を目指した6機の内、1機は行方不明、
残り5機の内、4機は強行着陸前に対空砲火によって撃墜されています。
しかし残る1機は見事強行着陸に成功します
(尚、中飛行場を目指した2機に関する記録はなく、行方不明になっています)。
強行着陸に成功した1機からは、重爆が飛行場に止まる前から
8名の空挺隊員が飛び出し、彼らは持っていた武器を使って、
アメリカ軍の航空機や施設を、目に入る傍から破壊して行きました。
これらの破壊戦闘により、アメリカ軍機9機が破壊炎上
(F4U戦闘機3機、C-47輸送機4機、PB4Y-2爆撃機2機)、
29機が損傷(PB4Y-2爆撃機2機、F6F戦闘機3機、
F4U戦闘機22機、C-47輸送機2機)、
燃料集積所も破壊され、ドラム缶600本分に当たる、約70,000ガロンの
ガソリンが焼き払われ、アメリカ兵2名が戦死し18名が負傷しました。
また対空砲火で被弾した97式重爆撃機の内の1機が高射砲に体当たりし、
高射砲を担当していた海兵隊員8名が戦死しています。
この結果、北(読谷)飛行場は翌朝8時まで使用不能となりました。
僅か8名の空挺隊員でここまでの戦果を上げたのですから、
一騎当千とは、まさに彼らの為にある言葉でしょう。
戦闘が開始されて1時間後には海兵隊の増援部隊が到着、
生き残っていた義烈空挺隊員を掃討して行き、
北(読谷)飛行場の戦闘も次第に収まって行きました。
翌25日13:00頃、残る最後の1名が残波岬で射殺され、
突入した義烈空挺隊は全滅します。
2022年8月15日、戦後77年を迎えるにあたり、
必死の戦いに果然と出撃し、沖縄の地で散華された義烈空挺隊の戦いについて、
ここに記しました。この戦いを僅か1行ですら伝えない日本の教科書…。
こうした問題に関し、私はもっと議論する必要があると思います。
裏も取れない様な古代の話ではない。
国を救う為に一騎当千に相応しい奮戦をし、
そして散って逝った彼らの事をこそ、
こういう日に思い出して欲しいと思うのです。
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