興味深い話しです。
確かに「本能寺の変」は、諸説あってなにが本当かよくわからないのでしょう。
こうやってわかりやすく現代用語に置き換えて説明してくださると、ぐっと歴史が身近に感じておもしろくなるのでしょうね。
作者からの返信
このお話は、家康がたどった道を実地で
調査した方の内容を元に書いています。
生駒山中の古道なんかの写真は実際に見ましたが、
非常に狭い山道で、こんな所を通って、
2日もかけずに190キロ移動するなんて、
何も知らなかったとは到底思えないですね…。
この話は当時から公になるとまずかった
でしょうから、記録は全て抹殺された事でしょう。
真事実が新たなる資料で日の目を見ると
良いと思います。
本能寺の変による伊賀越えで家康は死ぬ思いをした。
よって家康は本能寺の変とは無関係。
今までは以上のように思っていました。
しかし白狐姫さまの説によると、伊賀越えの手際がよすぎる、との事。
これはもしかするともしかするかもしれません。
作者からの返信
本能寺の変の1日前に船で堺に移動…
30人のチャーターによる船移動は、
当時は相当な費用がかかります。
しかも本能寺の変当日の朝…すなわち
変の起きたのとほぼ同時に脱兎の如く
滋賀方面に全力疾走…。
これはどう考えても黒でしょう。
何も知らなければ、堺でゆっくり商談する
とか何の問題もなかったはずです。
現在の調査では、光秀は本能寺の変の前に
上杉を含め、いくつかの密書を送っている
形跡があります。
事前に変後の同盟作りを画策して
いた様なのですね。
その中に家康も入っていたのでは
ないでしょうか?
本能寺の変は信長だけで語られがちですが、完全成功のためには織田家当主の信忠も殺さないといけなくて、そこまで形を整えるのは簡単ではないと思うんですよね。
個人的には陰謀説はありえなくて、たまたま両者共に殺せる状況が整ったので光秀個人が決意したのではないかと思っています。
とはいえ、光秀の意向なり何なりを知っていてあらかじめ準備していた可能性はありそうですし、逆に「ひょっとしたら信長に手打ちにされるかもしれないから」と警戒していて逃げる準備を整えていた可能性もあるのかもとは思いました。
作者からの返信
お読み頂き感謝です。
光秀は本能寺襲撃決行直後に、毛利、上杉、長曾我部、徳川等にこれが伝わるように事前に手配していた様です。少なくとも最近発見された古文書で、上杉に連絡を取っているのは間違いありません。突発的なのは間違いないと思いますが、周到に手を打っていますね。