家康よ、お前もか!本能寺の変における家康の不可解な行動について検証する…。

戦国時代の一次資料として大変価値のある資料のひとつに、

「家忠日記」という当時の日記があります。

これは徳川家康に仕えた松平家忠が、天正5年(1577年)から、

文禄3年(1594年)まで書いていた日記で、日々の事実を淡々と

記載している事から、当時の一級資料として研究されているものですね。


さて、この家忠日記の天正10年、本能寺の変の近辺の内容を

詳しく読み込んでみると、家康の非常に不可解な行動が浮かび上がります。

今日はそれについて書いてみたいと思います。


本能寺の変の前後、家康は武田征伐の褒美として

信長から招待され、織田の領内を旅行しています。

家忠日記からこれをたどると、5月15日に穴山梅雪を伴って安土入り。

ここで5月18日には信長本人から直接丁重な接待を受けたのち

(信長自らお膳を運んだ上に、随行した家臣とその奥さん向けに

絹の御かたびら…くれない色のすずし…これは夏用の絹の単衣の

着物ですが、大変美しく高価なものです…を随行家臣ひとりあたり

2着、土産として賜ったと家忠日記にあります)、

5月22日に京都に入ります。


この後家康は5月29日まで京都に滞在しますが、

5月29日の早朝、堺に向け出発します。

この日の午後に信長が本能寺に入るのですが、

常識的に考えれば信長に挨拶してから出かけても良さそうなものです。

なにしろ京都で家康が泊まっていたのは、茶屋四郎次郎の屋敷なのですが、

この屋敷は本能寺のはす向かい、つまりは目の前にあったのです。

しかし、なぜか家康は信長と入れ違う様に早朝出発します。

尚、この天正10年5月は旧暦の小の月にあたるので、

5月は29日で終わり、その翌日が6月1日…つまり本能寺の変の前日ですね。


京都から船で淀川を下った家康一行は、翌6月1日に堺に到着します。

ここで一行は松井宗久、津田宗及、松井有閑らの接待を受けています。

家康が堺で何をしようとしていたのかは不明ですが、

堺の豪商達の接待を受けているあたり、何かの商談だったのでしょうか?

その日は妙国寺という堺のお寺に宿泊しています。


そして家康は非常に不可解な事に、その翌日早朝にまた京都に戻ると言って、

堺の妙国寺を出発します。京都からわざわざ船をチャーターして、遠路堺まで

来たのに、それをわずか1日で切り上げる…。そしてこの日の早朝こそ、

本能寺の変が起きた、まさにその時なのです。


京都に向かうと言った家康一行は、帰りは船を使わず、

陸路を進むのですが、当時彼らの辿ったルートを調べると、

堺からまっすぐ生駒山中の古道へ向かっています。

これは京都へ行く道ではありません…滋賀方面へと進む道です。

しかも山間を抜ける難所です。


その後家康一行は、6月3日には現在の滋賀県甲賀市、

多羅尾を経て、同日夜遅くに三重県の海岸にある白子に到着、

そこから船に乗り、翌6月4日の朝には現在の愛知県碧南市大浜に海路上陸します。

堺の妙国寺から滋賀の多羅尾を経由して三重の海岸白子まで、

およそ150キロの距離があるのですが、ここを実質2日もかけずに

移動した事になります。家忠日記では6月4日の朝に家康一行を大浜に

迎えに行ったと書いてありますから、これを何らかの手段で実現したのですね…。


家康の神君伊賀越えは、色々な歴史小説に登場しますが、

この事実だけを見ると、あまりに出来過ぎ…

秀吉の中国大返しどころの話ではありません。

堺から生駒山中の古道を通り、多羅尾を経て白子まで、

およそ150キロの距離を実質2日弱で移動するには、

事前に周到な準備がなければ、物理的に不可能だからです。

当り前ですが、徒歩なんかで行けるスピードではありません。

おそらく馬が事前に用意されていたはずです。

家康一行は30名前後居た様なので、

白子からの船も事前準備していたと思われます。


これらを実行するには、家康は本能寺の変が起こる事を事前に

知っていなくてはなりません。

通説では京都から茶屋四郎次郎が変を知らせたとされていますが、

本能寺の変がまさに起きた、6月2日の早朝に家康は堺を出発しているのですから、

電話もない当時、これは事実とは思えませんね。


仮に使者を飛ばしたとして、家康が何処にいるのかわからないはずだし、

どんなに急いでもその日の午後遅くでないと、距離的に使者の

到着は不可能です。ですがそんな悠長な事をしていたら、

6月4日の朝に愛知県碧南市の大浜には到着出来ません。


本能寺で信長が家康を殺そうとしていたという説…

これは家康が5月29日に京都を出発している事から、事実ではないとわかります。

家康を本能寺で殺すなら、この移動を阻止するはずだからです。


さて、家忠日記には、本能寺の変が起こる前に、

京都にいる家康から、近々西国に出陣するから、

準備をする様にとの指示があったと記載されています…

何故家康は西国に出陣する準備を命じているのでしょう?


あと、これほど急いで帰ってきたにも関わらず、岡崎に着いた家康は、

それから2週間も行動を起こさず、ぐずぐずしています。


当時の家康の行動記録を一級資料の家忠日記で見る限り、

その行動日程は不可解極まりないと言えますよね。

だって、本能寺の変が起きたまさにその時、

脱兎の如く堺から滋賀方面へ全力疾走しているのですよ?


ここからは私の想像ですが、おそらく家康は光秀から本能寺の変の決行を

事前に知らされており、それが成功した暁には、光秀に協力する旨の

話をしていたのではないでしょうか?


また堺まで家康と行動を共にしていた穴山梅雪は、

この道中家康と口論の挙句別行動を取り、

途中で盗賊に襲われて自害したとされていますが

(家忠日記には切腹したとある)、

これも胡散臭い話です。なぜなら彼の子孫と家系を家康は大変重んじ、

歴代徳川家もそれを継承しているからです。

家康を裏切った人物の子孫を大事にしたりするでしょうか?

そもそもこんな時に少人数で単独行動するなんて自殺行為ですよね…。

彼は家康にとって何か重要な働きをしたのではないでしょうか?


本能寺の変は謎が多く、大変興味深い事件なのですが、

それにしても家康さん、あなたってひとは…。

【家康よ!お前もか!】

今日は信長の地獄からの叫び声が聞こえて来そうなお話なのでした…。

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