最新法医学から見た坂本龍馬の暗殺者…。

慶応3年11月15日(グレゴリオ暦1867年12月10日)は、

坂本龍馬さんが暗殺された日です。


坂本龍馬さんを暗殺したのは、当時京都所司代の管轄下にあった

見回組の隊士7名であった事は現在既に確定していますが、

では実際に龍馬さんを斬ったのは誰か?という事に関しては、

長く議論されているものの、今日でも判明していません。


では最新の法医学を使って、

当時の遺留品や建物の構造を調査検証するとどの様な結果になるのか、

今日はそれについて述べてみたいと思います。

法医学は、犯罪や事件現場を医学的に検証する学問ですね…。


この検証で使用する当時の遺留品は、

重要文化財 血染め掛け軸と、

同じく重要文化財 書画貼りまぜ屏風。

血染め掛け軸は龍馬さんの座っていたすぐ後ろの床の間に

掛けられ、書画貼りまぜ屏風は、龍馬さんと対面して

座っていた中岡慎太郎さんの右側、部屋の入口付近に

立てられていた事が、当時の証言から判明しています。

両方とも事件当日の血痕が残されており、重要な物証になります。


それと部屋の構造ですが、龍馬さんの襲われた近江屋は、

当時醤油屋だったのですが、今日既に取り壊され、存在していません。

幸いな事に、この近江屋と同じ構造で建てられた醤油屋のひとつ、

澤井醤油本店が京都市右京区で現在も営業しており、

龍馬さんの襲われた屋根裏部屋と同じ構造の部屋を、

今日でも見る事が出来ます。当時京都の醤油屋の建物は、

ある程度規格化されていた様で、

同じ構造の醤油屋が何軒もあったみたいですね。


現在残されている龍馬さんの襲われた近江屋の部屋の写真と、

澤井醤油本店の屋根裏部屋を見比べると、なるほど…殆ど同じだとわかります。


さて、ここで重要な物的証拠である血染め掛け軸から見て行きましょう。

この掛け軸の下の方に、龍馬さんの物と思われる血痕が30滴残っています。

この血痕の形や飛び散り方…これを法医学的な観点で分析すると、

まずこれは斬られた傷口から直接飛んだ血液ではないそうです。

傷口からではなく、刀の様な刃物に乗った血液が、刀を振り切る事で

飛散した…という事なのですね。


坂本龍馬さんは初太刀で額を鉢巻き上に撫で斬りにされているのですが、

この様な刀の刃に乗った血が飛び散る為には、一旦こめかみ付近で刃を止め、

ある程度刃に血が乗った後で、刀を振り切る様な斬り方をする必要があります。

こめかみ付近で一旦刃を止め、力を込めて横に薙ぎ切る…

この凄まじい斬り方から、刺客の殺意の強さが伺われます。

更に言うと、かなりの大量出血をしないと刀に血は乗りません。

こめかみの近辺には浅側頭動脈という動脈がありますから、

この初太刀で龍馬さんの浅側頭動脈が切断され、

大出血が起きた為に、刀に十分な量の血液が乗ったと思われます。

また、この掛け軸の血痕を良く見ると、飛んだ方向が違うものが

3種類あります。つまり龍馬さんは少なくとも3回斬られており、

初太刀で眉間、二の太刀で背中、三の太刀で頭部を斬られたという、

当時の証言と一致します。


それと、近江屋のこの屋根裏部屋は、天井が頂部から窓に向かって

傾斜する構造で、龍馬さんを斬った刀に乗った血が、

この掛け軸の所に飛ぶ条件を、龍馬さんの座った位置と、

この部屋の構造を元に法医学的に計算すると、

彼を斬ったのは刃渡り70㎝から80㎝の通常の日本刀ではなく、

刃渡り40㎝の小太刀でなければならない…。という事がわかるそうです。

通常の日本刀を使った場合、刀が窓の外に突き出る様な角度にならないと、

血液は掛け軸の方向には飛びません。物理的に無理があるのです。


部屋の天井は前述の通り、窓に向かって傾斜しており、

龍馬さんが座っていたと思われる窓際近辺の天井の高さは、

約150㎝しかありません。

現在の澤井醤油本店の部屋で実技確認したところ、

この様な部屋で通常の日本刀を使って太刀回りしようとすると、

刀が天井につっかえて、戦いにならないそうです…。

この事からわかるのは、刺客は部屋の構造を熟知しており、

事前に小太刀を用意した可能性が高い…という事です。


事件が起きたのは夜の9時を過ぎた頃ですので、

当時の薄暗く天井の低い10帖程の部屋の中で、初太刀で眉間に

正確な一撃を加える…これは相当な剣術の熟練者…手練れでないと

出来ない業です。つまり、龍馬さんを斬ったのは、手練れの

小太刀の使い手である…という事になります。


では、当日龍馬さんを襲った見回組7名の中で、

その様な人物像に最も当てはまるのは誰か…。

桂 早之助…。彼になるのですね。


当時27歳の桂 早之助さんは、

西岡是心流(にしおかぜしんりゅう)の使い手。

しかも当時から大変な手練れである事で知られていました。

西岡是心流は、右手で小太刀を使う特殊な二刀流…つまり彼は

小太刀の扱いになれています。それに彼は見回組以前は

京都所司代勤務でしたから、京都の家屋の構造、おそらく

近江屋の構造も知っていたはずです。


京都霊山にある博物館に、この桂 早之助さんが龍馬を斬ったと

伝わる刀が彼の子孫によって奉納されており、一般の方も見学出来ます。

それは激しく刃こぼれした…刃渡り40㎝の小太刀なのです。


桂 早之助さんが京都所司代の一員であった頃、

寺田屋事件が起き、龍馬さんを捕らえようとした所司代の仲間が、

龍馬さんにピストルで撃たれて亡くなっています。

彼にとって龍馬暗殺は、かつての仲間の敵討ち、

強い殺意も理解出来ます。


以上の事から、法医学的な検証から見ると、桂 早之助さんが

坂本龍馬を斬った確率は、極めて高いと言えるでしょう。


桂 早之助さんはそれから2カ月も経たない慶応4年1月3日に

起こった鳥羽伏見の戦いに出陣し、その翌日、

左股付近に銃弾を浴びて戦死します。享年27歳。

まるで坂本龍馬を斬る為に生まれて来たかの様な一生でした。


戦死した彼は、真田信繁(幸村)が築いた真田丸の跡地と

言われる場所に建立された「心眼寺」に埋葬されました。

戒名は「徳元院大誉忠愛義貫居士」。

徳川幕府への忠義と愛を貫き、それを誉とする

生き方をした、早之助さんに相応しい戒名が付けられていますね。

今日でも心眼寺境内でそのお墓を見る事が出来ます。


さて、もうひとつの遺留品、書画貼りまぜ屏風ですが、

この屏風には50数滴の血痕が残されています。

この血痕を法医学的に分析すると、この血液は殆どが真上から

垂直に落ちている…という事がわかるそうです。

そうでないとあの様な丸い血痕にはなりません。


これから推測されるのは、当時襲撃によってこの屏風は倒され、

この屏風の上に立っていた…おそらくは刺客のひとりが

負傷し、その出血が血痕として残ったという事です。

この血痕が、出血多量で死んだと思われる龍馬さんか中岡慎太郎さんの

ものだとすると、2人とも全身血だらけのはずですから、

手形や足跡などの血の跡が残るはずですが、そうではない…。


つまり倒れたこの屏風の上に立っていたのは刺客のひとりで、

彼は龍馬さんか慎太郎さんの反撃で負傷したと思われるのです。


以上が最新法医学で、坂本龍馬さん暗殺の実行者を検証した結果です。

なるほどと思われた方は自身でも調査してみると面白いかもしれませんね…。


12月…グレゴリオ暦だと龍馬さんの命日になる月なので、

ふとこんなお話を書いてみました…。

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