第5話~不確かなもの

 30歳になる年に、恋人と別れた、そうなる気がしていたのは去年の夏の頃からだった。

 同棲を始めたのは4年前、それまでも週に2、3日は会ってはいたが、それはいつも私の部屋だった。


 いつの間にか転がり込んだ和哉、甘くもあり、苦しくもある日々が始まった。


 好きな人と一緒に暮らすのは楽しさだけではなく、たくさんの小さな違和感とも折り合わなければいけない、それが結婚だとしたら少しは違う物になっていたのかもしれないが、曖昧な関係の二人暮しは、お互いの心の隙間を埋めるには頼りない細い糸だったのだと思う。

 あの日同じ歳の和哉は苦しそうに別れを告げた。

 漠然と結婚に向かえることを望んでいたけれど、細い糸は容易たやく千切れた、その傷は私の生きる意味さえも透明な景色に変えてしまっていた。



『柊堂』の店主にもらった文庫本「アルケミスト」は遠い国でのおとぎ話のような不思議な物語だった。


*****

不思議なものごとはくさりのように一つずつつながって起こってくる

*****


 生きていると色んな人と出会う、それは、ひと夏の恋のように小さな喜びや悲しみも一緒に連れてくる。


 和哉との出会いさえ、そんな鎖の1部だったのかもしれない。

 ひとつ前の恋は会社の取引先の既婚者だった。

 許されない恋に振りまわされて、その頃の私は傷だらけだった。


 その傷だらけの私の心を救ってくれたのが和哉だった、それは愛と呼べるものではなかったけれど、いつしか抱き合う関係になっていた。


「奏を見てると苦しくなってくる、寂しさが服を着て歩いてるみたいだ」

 そんな言葉に小さく笑う私をいつもそっと抱きしめてくれた。


 それは薄っぺらい恋だったのかもしれないけれど、数年間の私に寄り添ってくれたのは確かだった。


 クリムとトムミム

 神が選ばれし者に授けるという占い石

 もし私が持っていたとしたら、2つの石は私の未来をどう占ってくれるのだろうとぼんやりと考えてみた。

 主人公のサンチャゴは、時折悩みながらも歩き続けていた、その強さはどこから来ているのだろうか?

 私にはそんな強さもないのだ。


 ~お前の心に耳を傾けるのだ。心はすべてを知っている。それが大いなる魂から来て、いつか、そこへ戻ってゆくものだからだ。~


 私の心に聞いてみる。

 何も見えないこの道の行くべき道を示してくれるのなら、その石が欲しいと思った。そんなものは手に入るわけなどないのだけれど。


「アルケミスト」を読み終えた私は、1週間ぶりに『柊堂』の古びた引き戸を開けた。


 私のかけた声に振り向いた店主は微笑みながら「どうでした?アルケミスト、読んでくれたんですよね」と聞いた。


 私は正直に感想を言った。

「はっきり言って、翻訳物はあまり読まないから、最初はなかなか物語に入り込めなくて……」

 私は物語を読む時に、その中の誰かに感情移入しながら読むことが多かった、それは主人公ではないことも多くて、小さなエピソードを自分なりに解釈していくのだ、この本には初めそんな人物は現れなかったから、物語を遠くから眺めていた感じがしていた。


 ━━━主人公のサンチャゴが愛したのは砂漠のオアシスに住むファティマという娘

 彼女は言った『その前兆があなたを私の所に連れて来てくれたのですもの、私はあなたの夢の一部よ。そしてあなたの言う運命の一部なの』━━━



「ファティマの言った言葉は少し羨ましいものでした、そして物語を理解するのには十分なものでした」


 その言葉を聞いた店主の顔はいつも見ている寂しげな表情を少し柔らかくして笑った。

 その笑顔が嬉しかった。

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