桜吹雪の中の記憶

東屋猫人(元:附木)

桜吹雪の中の記憶

 ふわりと春の陽気を乗せて、風が吹き込んでくる。

窓際から二列目、後方の席で相田光也は吹き込んでくる桜吹雪を見つめていた。誰がしたのか、くしゅんというくしゃみの音が聞こえてくる。


ただただぼんやり、運動場の喧噪とうららかな陽気に包まれていた。


                  〇


「なあ、相田。勉強教えてくれよ。」


そう突然声をかけてきたのは菱崎康介だった。

ガタイがよくて愛想も良い。少し粗暴で、声がでかい。光也にとっては真逆の存在で、これほどまでに苦手な人間がいるだろうかというほどの意識を持たせるある意味ナンバーワンな存在だった。


「なんで、僕が。」

「だってお前頭良いから。他の奴に教えてる時も超わかりやすくて、いいな~って思ってたんだ。」


だから、なっ? と拝んでくる。

そんなことをした覚えがあるのはただの一度きりだった。隣の席にいる佐伯涼子に泣きつかれて教えた時。……ということは、随分前から目をつけられていたという事か。


確かに僕たちは高校三年という重要な年を迎えた。受験も控え、勉強の弱みを潰していかなければならない。

——しかし、こいつはそんなに頭が悪いわけではなかったと記憶しているのだが……。


「おうい、ほんと頼む、助けてくれえ! 」

「……仕方がない。ただ、僕も僕の勉強時間があるから週に一度が限度だけど、それでも良いか? 」


そう言ってやると、ぱあっと顔が明るくなる。相変わらずあからさまに顔に出る奴だ。


「さんきゅー! じゃあ、土曜日! お前んちいっていいか⁉ いいよな⁉ 」

「は? 何を勝手に」

「用事あるのか? 」

「……まあ、無いけど。」


別に用事もないし、両親は両親で買い出しに行っているから好きなように家は使える。

何も気にすることは無いのだが、なんだかこいつの思惑通りに物事が進むのが癪だった。それに、こんな性格不一致なやつに休日を持って行かれるなんて。


——まあ、自分の勉強にもなるか。佐伯に勉強を教えた時も思ったが、他人に教えるというのは恐らく、相当効率の良い勉強方法だ。丁度いいことに一から十まで説明しなければならないほどのものじゃない。きっと、自分の勉強にもなるだろう……。そう自分を納得させた。


                    〇


ピンポーン、


チャイムが鳴る。今日は土曜日の午後一時。昼食の時間が終わり、約束のお勉強タイムになったのだった。それにしても、意外だ。授業にはまま遅刻してくるというのに、こういう時は遅刻をしないんだな。……「友達想い」と言うやつか。


そう思って、何を馬鹿なことを、と笑う。向こうは勉強の足掛かりに使っているだけで、そんな風に光也を捉えてなどいない。そして僕も、そうだ。お互いにウィン・ウィンの関係なのに、そこに「友達想い」などという言葉はふさわしくない。そんなことをつらつらと考えつつ、妙に早い鼓動を感じながら扉を開けた。


その日は、数学と漢文を。どちらも苦手分野らしく、なかなか頓珍漢な事を言い出してきて困った。菱崎に、そんなに苦手な分野があったのか。極端な偏りがある事に何となく興味を覚えた。


うんうんと唸っている菱崎に、投げ餌をするようにヒントを与える。表情がころころと変わるから、そうしているだけで楽しかった。……なんだ、面倒くさい暑苦しいうるさいだけの奴かと思ったら、なかなか魅力のある人間じゃないか。その日一日共に過ごして、抱いた感想はシンプルなものだった。


夕暮れ、烏の鳴き声が聞こえてくる頃合い、午後五時。それがタイムリミットだった。

光也と康介は一時から四時間、休憩を挟みつつ数学と漢文をバランスよく履修し終えていったのだった。あの康介が集中を切らさずにやり遂げたことは素直に称賛でき、だからつい、


「菱崎、集中力凄いんだな。見直したよ。これならすぐ苦手も無くなるんじゃないか。」

と笑って言ったのだった。対して菱崎は、顔をぐいっと背けて


「ま、まだまだだから、来週もよろしく頼むな! 」

とあらぬ方向に向けて喋っていた。


「なんだ、どうした? そっちになにかあったっけか。」

「なななんでもない! それと、これ今回の礼! 少ないけど、すまん! これで頼む! 」


そう言って手渡されたのは五百円玉。困る、と返そうとしてもバイト代だと思ってくれ、少ないけど! と頑として受け取らない。そのまま、呆気にとられた光也を残し、


「じゃあ、明後日、学校でな! 」


と言い残し自転車で去っていった。随分夕日に照らされて顔が赤く染まっていたが、まぶしくないのだろうか。がしゃがしゃとがむしゃらに漕いでいる後姿が良く見える。

……あんなに必死に漕いで、事故らなければいいが。手のひらの五百円玉を握りしめて、部屋に戻った。


                〇


そうして土曜日の授業は毎週続いていった。

あるときは化学と世界史。あるときは古文と倫理、ある時は日本史と現代文……。菱崎はまだ進路を狭めていないようで、受験に必要になり得るあらゆる教科に対して授業を頼んできていた。


中には当然、光也にもわからないこともあり二人でうんうんと頭を捻って解答を導き出した時もある。思わずハイタッチしてしまったのはいい思い出になったと思う。


しかし、菱崎はそうやって不意に顔が近づくときに顔を背けるのだが、……もしかして、自分の口臭がきついとかあるのだろうか。そう思い始めるとなかなか気になってしまってどうしようもないので、飲み物を珈琲から紅茶へ変えてみたりなんかした。


そうしてついに第二十回を終えたその時。あらゆる教科、あらゆる問題を解き着くし、あとは個人で志望校に合わせた勉強をしよう、ということでお開きになった。

……なんだかんだ、楽しかった。しかし二十回ということは、合計、丁度一万円を菱崎に払わせてしまったことになる。それも申し訳ないので、まとめて返そうと思ったのだが


「いや、それは光也、お前にすでに渡した授業料だ。ちゃんと持っていってくれ。」


と断られてしまったのだ。仕方なく、使う当てもないので自らの財布へ大事にしまっておく。


春から二十週が過ぎたその頃には、とっくに秋口に差し掛かっていた。貴重な高校最後の夏休みの思い出は菱崎に奪われてしまったというわけだ。

しかし、そうも不快ではないのが不思議だった。寧ろなぜか大切な体験をしたとさえ思える。——何故だかはわからない、正体不明のもやもやとした感情が光也を覆っていた。


                  〇


そして季節は廻り、再び桜の舞う頃になった。

体育館の開け放たれた扉からは桜の花びらが舞い踊って入ってくる。しかしその場にいる全員、それを気にするような素振りは全くない。

——そう、卒業式だ。見事光也も康介も第一志望に合格し、無事にすっきりとした心持でこの日を迎えていた——はずだった。


なにを悔やむことがある。なにを気にするものがある。たしかに慣れ親しんだ環境からの逸脱はストレスのかかるものだ。そんなことわかりきっている。……でも、違う。何に焦っている?


光也は得体のしれぬ焦燥感に身を焦がされていた。無事に受験も終わり、無事にこの日を迎えた。涙を流して別れを惜しむような友人もいない。なにも、気にするものなど無いはずなのに。


その時脳裏に、あるものがちらついた。——あの二十週の、康介との勉強会だった。

……たしかに、あれはなかなか楽しかった。気軽にあれをできる人間を失うというのは——うん、なかなか痛手なのかもしれない。

そう思うと少しだけ焦燥感は薄れていった。……なんだ、菱崎が引っかかっていたのか。我ながらよくわからないことを気にしているな。そう思って笑おうとしたが雰囲気のせいだろうか。ただ歪な表情に顔が歪んだだけだった。


                  〇


卒業式も無事終わり、ホームルームでの「感動的」な別れの儀式も終わった。あとは誰が言いだしたか、タイムカプセルを埋めて解散するらしい。

それにしても、十年後の自分へのメッセージとは、なんてベタな。そう思うものの、十年後が想像もつかず、なかなか書けないでいる。うんうんと悩んでいると、


「よ。まだ書けてねぇの? 」

などと言って菱崎が近寄ってきた。


「ああ……何だか十年後と言われても、想像つかなくて。」

メッセージ用に渡された紙に桜の花弁がはらりと落ちる。それを軽く手で除けながら、菱崎を振り返って問う。


「ああ、そういえばお前は何を書い——……」


一瞬時が止まった。ああ、呼吸も止まった気がした。心臓だけがバクバクとうるさい。

鼻先が菱崎のそれにあたり、お互いの唇が掠めた。


暫く動けなかった。

暑さで立ち上がる匂いと、間近に迫った顔。触れ合った肩と胸板。舞い上がる桜吹雪。それらに意識を持って行かれて、身体は抜け殻のように動かなかった。


びゅう、と風が吹き、まるで魔法が解けたかのように二人して我に返って喋り出す。


「す、すすすまん近寄りすぎた! で、なんだっけ俺が書いた内容か——」

「うううううわわわあごめん、ごめん! びっくりしたよなごめん! 」


もう同時に喋っているから訳が分からない。なんだかさっきからの自分たちの慌て具合が面白くなってきて、二人で笑った。涙が出た。

ひーひー言ってひとしきり笑った後、ふと康介の第二ボタンが付きっぱなしであるのが目に入った。


「康介、第二ボタンくださいって言われなかったのか。」

「光也こそ。しっかり着いたまんまじゃねぇか。」

「じゃあ、格好つかないから交換でもするか? 」


つい口が滑った。そんなこと言うつもりじゃなかったのに、きっとまだ動転していたのだろう。言ってしまってから後悔したが、もう遅い。言葉はもう飛んで行ってしまった。


「お、おう! それ、いいな! するか! 」


康介はぎこちない笑顔と動作で第二ボタンをむしり取った。——片手で。

とんでもない爆弾発言をしてしまったな、と思いつつボタンを取ろうとする。しかし、案外しっかりついていて、外すのに手間取った。それをみた康介は、光也の分も取り、


「交換な」


と言って自らのボタンを差し出してきた。それに


「うん。」


とだけ答えて、ズボンのポッケにしまう。春一番が盛大に吹く。前髪に遮られて、きちんと康介の顔が見えない——。


                 〇


その後、しっかりと十年後の自分へのメッセージを書いて、タイムカプセルに託した。

何やら危うい「これ」は、ここに埋葬しよう。ここを、この自分のもやもやとした感情の墓場としよう。

じゃないときっと、これからも捕らわれて苦しい思いをすることになる。そう、直感で思ったのだった。




                 〇






相田光也は、東京は銀座の小洒落たパーティ会場に来ていた。年は二十六。

これからここで、高校の同窓会が開かれるのだ。正直高校の思い出はあまり覚えていない。記憶にあるのは三年次の一年分だけだった。二十週間の合同勉強に、受験勉強、やけに記憶に残った桜の花びら。そして、卒業式。


あの時は初心だった。ファーストキスも済ませていない時分だったから、変に緊張したのだろう。今日は、康介が来ているなら例のボタンを見せて昔話でもしようかと思いこっそりポケットに忍ばせてきた。ぶっちゃけよく顔も思い出せないのだが、まあ会えばわかるだろう。


「さーあやってまいりました! 実行委員、頑張りました! タイムカプセルの御登場ですー! 」


けたたましいアナウンスが流れる。中身を並べるから順に並んで取りに来い、とのことだった。……しかし、十年も前の記憶を頼りにせねばならないから自然と渋滞する。光也も群集の中何を入れたか思い出しながら覗き込んでいた。すると


がっし


そう擬音が聞こえた気がした。物凄い勢いでテーブルから引きはがされ、そのまま会場からも引きずり出されていく。


「ちょ、な、なんっ、誰だ⁉ 」

「俺だよ、菱崎康介! おまえ相田光也だろ⁉ 」

「こうっ……! 」


その先は言葉にならなかった。会場の入っているフロアを抜け、とうとう屋外庭園まで来てしまった。ぶるりと身震いしながら、十年ぶりに顔を合わせる。


「久しぶりだな、光也。」

「康介。あまりにも強引すぎる。関節が外れたらどうするつもりだったんだ。」

「ははっ、相変わらず硬いこというなぁ。」


変ってなくて本当安心したよ、という康介はなんだか複雑な顔をしているようにも見える。あちらこちらのライトアップに照らされて、そう見えるだけかもしれないが。


「……光也。」

「…………なに。」


らしくない。いつも阿呆みたく笑っていた顔が、ぐっと引き締まって、そう——男らしい顔をしている。笑い飛ばしたいところだったが、そうもできない雰囲気だった。

沈黙の間隙を、やけにロマンティックなBGMが流れていく。しばらく逡巡していた素振りの康介は、ゆっくりと口を開いた。


「……光也。」

「だから、なに。」

「……俺さ、ここへはケリつけようと思ってきたんだ。」

「ケリ……? なんの。」


なにか気にくわないことでもしていただろうか。——しかし、高校卒業後は全く会っていない、それなのにどうしてそんなことになるのか。光也にはさっぱりわからなかった。


「……卒業式。その後の、メッセージ書いたあの時、覚えてるか。」

「あ、ああ、覚えてるよ。あんまりにも寂しいからって、ボタンを交換したやつだろ。」

「ちがう、その前だ。」

「…………! 」

「……覚えてるか? 」

「……っ、覚えてるよ。全部、覚えてるよ。」


まっすぐに射貫いてくる康介の視線から逃れたくて、顔をそむける。何となく、沈殿していたものが揺すり返されているようで恐ろしい。このまま、そっとしておいてくれればいいのに。しかし康介は、それを許さない。


「あの時、鼻面付き合わせて、身体がくっついて、時間が止まったように感じた。」


やめろ


「俺は、あの時はまだ感情の整理がつかなかった。」


やめてくれ


「でも、もう向き合える。もうお前に伝えられる。」


もう


「……光也、あの勉強を教えてくれって言った時から、お前が好きだった。今でも尚、だ。」


もし、もしもOKなら、俺と付き合ってくれないか——


そう言って、大きなガタイを丸めて手の甲にキスを落とした。

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