6
そして、春の訪れを間近で感じるようになった三月がやって来た。わたしとステラは、初めて出会った川沿いの小道をゆっくりと歩いていた。すぐ近くに立っているソメイヨシノへと目を向けると、樹のあちらこちらにかわいらしいピンク色のつぼみがついており、そう遠くない未来に満開の花を咲かせることを予感させる。
昼下がりの春日の眩しさを避けるように、わたしは樹が張り巡らせた枝が作り出す薄い影の中を歩きながら、背中の羽でふわふわと浮遊するステラへと声をかける。
「そういえば、今日の帰りの会で先生が、明日の卒業式が終わったらみんなでタイムカプセルを埋めようって言い出してさ。十年後の自分に向けて手紙を出すんだって。そんな、来月から中学生になるって言うのに、最後の最後で照れくさいというか、何というか。ねえ、ステラ」
はにかみながらそこまで言ったところで、わたしはステラの顔を覗き込む。彼の表情はいつになく張り詰めていて、何か違うことを考えているように見えた。ステラの様子がおかしいのはここ最近から続いていたが、わたしがどうしたのかを尋ねても、何でもないの一点張りだった。わたしは、そんな彼の態度に半ば不満を感じながらも続ける。
「ところでさ、もうすぐステラと出会ってから一年になるんだよ。覚えてる? 去年の春に、この道にある桜の樹にステラが引っかかってて、わたしが助け出して。確か、どの樹だったかな……えーと」
「あのさ、ユーリ」
わたしが最初にステラと出会ったソメイヨシノの樹を探していると、ステラがふいに口を開いた。彼の発したいやに低い声に、わたしは身体を小さく震わせながらもステラへと向き直る。
「ど、どうしたのよ」
「ユーリ。突然だけど、ぼくとは今日でお別れだ。ぼくはこれから、この地球を発つ。それで、仲間と一緒に新しい星を探す旅に出る」
淡々と紡がれるステラの言葉に、わたしは思わずその場で立ち尽くした。
何よ、それ。冗談でしょ。そんな、いきなり。
さまざまな思いが、わたしの頭の中を駆け巡る。いろいろと言いたいことが浮かんだけれど、わたしはどうにか平静を振る舞いながら、声を震わせて応じる。
「そ、そんな。どうして」
わたしの問いかけに、ステラはわたしの方へと顔を向けた。神妙な顔つきのまま、彼は淡白な口調で語り始める。
「仲間からの通信で、自分たちが地球に住み続けるのは困難だということが分かったんだ。ユーリは聞いたことないかい? 『地球温暖化現象』という言葉を。このままそれが続けば、ぼくたちはとても地球で生きていくことはできない。だから、この星を出てまた新しい安住の星を探すことになったんだ。もう、決まったことなんだ。だから」
「ふざけないで!」
わたしは、後に続くステラの言葉をかき消すかのように叫んだ。そのまま、まぶたを思い切り強く閉じる。けれどそれも空しく、わずかな隙間を縫って涙がぽろぽろとわたしの頬を伝って流れ出ていく。そこから、まるで堰を切ったように思いのたけがこぼれ落ちる。
「どうして? 何で今なの? どうして、そんな大事なこと、わたしに相談してくれなかったの? 友達なのに。悲しいよ」
わたしは、すっかり上気した顔へと両手を伸ばす。両目をごしごしと擦っても、わたしの視界は未だ霞んだままだ。
それから、何度か瞬きを繰り返していくうちに、ステラが悲しそうな様子で頭を垂らしているのが分かった。ぼくだって――弱々しく響く彼の声は、とても儚げだったように感じた。
「ぼくだって、辛いさ。ほんとうは、この地球にずっと残っていたかった。仲間にも、毎日のように言い続けた。せめてぼくだけでも、この星にいさせてくれ、って。けれど、叶わなかった。自分の思いを貫き通すには、ぼくはあまりにも無力だったんだ……ユーリ」
ステラがわたしの名を呼ぶ。わたしは、あらためて手のひらで両目を擦り、ハムスターのような見かけをした親友の姿をはっきりと認識する。
「ごめんよ。ずっと前から、ちゃんときみに言わなきゃって思ってたんだ。何度も、何度も……だけど、結局ぼくは言えないままだった。悲しい顔をするユーリを見たくなかったんだ。地球にいられる今日最後のこの時まで、ぼくは自分のわがままを引っ張ってしまったんだ。ほんとうに、ごめん」
そう言って、ステラは自分の頭を深々と下げた。わたしは、彼の心から謝っている様子を前にしても、心ではまだ戸惑いを隠せないでいた。頭が冷静さを欠き、目の焦点がまた霞んでいく。
すると、遠い青空の彼方に、砂粒みたいに白い光の粒が現れた。光の粒は次第に二個、三個と増えていき、やがてそれらは一個の集合体を形成していく。思わず空を見上げたわたしは、夜中にひときわ眩い輝きを放つポラリスの如きそれを、呆然と見つめる。
「ぼくの仲間たちだ。ぼくを迎えに来たんだ」
ステラがぽつりと口にする。やがて、彼は背中にある羽をパタパタと羽ばたかせ、光の方向へと飛んでいく。
さようなら、ユーリ。
わたしの耳に、ステラの言葉が空しくこだまする。このまま、お別れ? いやだよ。
こんな。こんなのって――。
「ステラ!」
わたしは、空に向かって思い切り叫んだ。頬を流れていた涙はすっかり乾き、にわかに肌寒い風だけがわたしの髪を静かに撫でていく。
ステラはもう、空のだいぶ高いところまで上っていた。わたしの声がちゃんと届いたのかは、分からない。けれど、ステラは一瞬だけぴたりと動きを止めると、ゆっくりと振り返り、眼下にいるわたしへと向き直った。
ユーリ。ユーリ。
わたしの頭の中に、ステラの声がやわらかく響く。彼の声は、わたしを呼んでいた。それが、ステラの発したテレパシーによるものだったのかはよくは分からなかったけど、わたしは無我夢中でステラの名前を呼び返した。
「ステラ! ステラなのね?」
わたしは、空高くにいるステラを見上げる。彼の白い身体は、全体の形をどうにか把握できる程度に小さく見えた。わたしが肉眼でその姿を追いかけていると、再びステラの声がわたしの頭の中に流れ込む。それとともに、わたしとステラが一緒に過ごしたときのありとあらゆる記憶が、一気にフラッシュバックする。
ユーリ。この一年近くのあいだ、きみと一緒にいられて本当に良かった。
思えば、きみのすぐ目の前にある桜の樹にぼくが引っかかっていたのをユーリが助けてくれたのが、最初の出会いだったね。出会って間もないぼくを友達と言ってくれたのは、心から嬉しかったよ。
ユーリとの毎日は、ぼくにとってはとても楽しくて、彩りに満ちていた。毎日雨が降る中で他愛のない話をしたことも、はじめて一緒にきれいな花火を見たことも。きみが泣いているのを初めて目にして、どうにかぼくなりに励まそうとしたことも、雪が降った日に雪遊びをしたことも。
楽しかったことや、悲しかったこと。辛かったこと、嬉しかったこと。きみと過ごしたいろいろな出来事は、ぼくにとってはかけがえのない宝物だ。これからは離れ離れになってしまうけど、ぼくはずっと忘れない。
最後に、ぼくはこの自然に満ち溢れた地球が好きだ。けれど、それと同じぐらいに……いやそれ以上にユーリ、きみのことも大好きだ。これから毎日、ぼくはこの地球に向かって手を伸ばす。いつか、ユーリと再会できる日が来ることを信じてる。
その時が来るまで、どうか元気でね。今までありがとう。ユーリに出会えて、本当によかった。
そこまでわたしの頭の中に流れてきたところで、ステラの身体は白い光の中に吸い込まれていった。わたしは思わず、光の方角へと右手を伸ばす。光は一瞬、きらきらと短い瞬きをしたかと思えば、遠い遠い空の彼方へと飛び上がり、そのまま消えていった。
わたしはしばし、その場に立ち尽くしていた。あまりに唐突なステラとの別れを受け入れるには、時間が必要だった。少しずつ時間が経過し、その事実を自覚していくほど、わたしの心は再び悲しみに満たされていく。
わたしの目から、また涙がこぼれ落ちる。さっきも泣いて、涙はすっかり枯れてしまったと思ったのに。もしも今目の前に鏡があったら、わたしの顔はぐちゃぐちゃになっていることだろう。どうしようもない複雑な気持ちを抑えるために、わたしは右手で手早く涙を拭い、代わりにあるひとつの考えを頭の中へと、どうにかねじ込んでいく。
これから先、ステラが地球に帰って来るために、わたしに何ができるだろう?
漠然とした疑問を抱きながら、わたしは泣き疲れて荒れてしまった息を整えるため、ゆっくりと息を吸う。冷たい空気が、わたしの肺を満たしていく。そして、そのまま息をふうっと音を立てて吐き出した。
そこで、わたしはあることに考えが行き着く。先ほどステラは、地球温暖化が進んでいるために自分たち宇宙人が住めないことが分かった、と言っていた。
ならば、今の地球を守ることが一番の道なのではないか。
そのことに気づいたわたしは、確固たる思いを胸に抱きながら白い光が消えていった方向へと右手を伸ばす。わたしは、ステラが好きだったこの地球を守りたい。少しずつでも、わたしができることをやり遂げたい。そのために、どれほど長い年月がかかるかも分からない。
だが、たとえそれでも、わたしは諦めずに手を伸ばし続ける。
いつか再び、ステラと出会うために。わたしはそのまま、右腕を目一杯伸ばし、ぐっと握りこぶしを作った。そしてわたしは、ぐちゃぐちゃになったままの顔でせいいっぱいの笑顔を作り、彼に言えないままでいた言葉を口にする。
「こっちこそ。こんなわたしと出会ってくれて、本当にありがとう」
いつかまた、この言葉をちゃんと伝えたい。そう決心するわたしの身体を、春の暖かく柔らかな風が静かに包み込んでいった。
地球 -Terra- 天神大河 @tenjin_taiga
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