結婚記念日
ぬいぐるみと戯れる子猫、眠っている子猫、こちらを見て泣いている子猫。
ペットショップのガラス越しに見える猫達の様子に夢中になっている乃亜の背中をみちかは見守っている。
犬よりもやっぱり猫が良いらしく、さっきからずっと猫の前から離れようとしなかった。
最後の体操教室は、簡単な体操やゲームで楽しく過ごしたようだった。
百瀬はいつも通りニコニコしていたし、乃亜の手紙も喜んで「大切に読むね。」と丁寧に受け取ってくれた。
自分と同じ様に受験を無事に終えた他の生徒やその保護者らが感謝の気持ちを次々と百瀬に伝えていった為、みちかが百瀬と話せたのはほんの僅かの時間だった。
仕方がない、自分は特別でも何でもないし大勢居る生徒の保護者のうちの1人なのだから当たり前なのだとみちかは思う。
ただ、思い出があまりにも多くて彼を好きな気持ちを忘れるまでには時間がかかるだろうと思う。
これからゆっくり気持ちの整理をしていくしかない。
みちかは自分に言い聞かせていた。
乃亜のためにやるべきことが沢山ある、これからが始まりなのだから。
「ママ、見て!この子、欠伸してるよ。大きなお口…。」
振り向いた乃亜が目をキラキラさせている。
一緒に覗き込むと、クリーム色のマンチカンの子猫が両手をグッと前に出し小さな伸びをしている所だった。
「あら本当ね。気持ちよさそうに眠ってる。」
「ね、可愛いね。この子がいいなぁ…。」
乃亜がポツリと呟き微笑みながら子猫の寝姿を見つめている。
こんな表情をするようになったなんて、随分と成長したなぁとその横顔を見ながらみちかは思った。
元々引っ込み思案で遠慮がちだった乃亜。
年中までは、受験は無理なんじゃないかと何度も思ったりもした。
それなのに今では先生やお友達にも、とても素直に自分の意見を言えるようになった。
間違いなく、それは百瀬のお陰なのだと思う。
「この子、今日連れて帰ろうか?」
みちかの言葉に乃亜が振り向き目を丸くした。
「本当に?いいの?」
「うん。可愛いから、パパと来る時には居なくなっちゃってるかもしれないもの。」
「嬉しい!!」
乃亜がギュッとみちかに抱きついた。
みちかは乃亜の頭を優しく撫でた。
「家族になるのだから、ちゃんと大事に面倒を見てね。」
乃亜が嬉しそうに頷いて見せた。
乃亜のネコなのだから彼女が面倒を見るのは当たり前だと思う。
でもきっとペットを飼うことで忙しくなるのは自分だ。
自分の仕事が増えるのは確かだと思う。
その煩わしさが、早く欲しいとみちかは思った。
1つでも忙しい事が増えて、なんとか気を紛らわせたい。
百瀬の事を忘れられるなら何でもやろうとみちかは思った。
店員に声をかけるため、乃亜の手を引いてみちかは歩き出した。
その猫に、乃亜は『モモ』と名前を付けた。
由来は百瀬に顔が似ているからだと言う。
やんわりみちかは反対したものの乃亜に押し切られモモに決まってしまった。
猫のお世話で忙しくはなったけれど、名前を呼ぶ度に百瀬を思い出してしまうので、忘れるどころではなかった。
その上、モモが来て数日経ったある日、みちかはある事に気づいてしまったのだ。
ルツ女の過去問題集や説明会資料など処分しようと整理をしていたら、以前、百瀬が貸してくれた、ルツ女の文集が一緒に出てきた。
百瀬の姉の大切な文集なのに、返し忘れていたのだった。
すぐに返さなければと思う半面、百瀬に会う事には躊躇いがあった。
もう二度と会えないから忘れようと思えたのに、また会えるかもしれないと思うと忘れようと思う気持ちは揺らいでしまう。
それどころか会えるかもしれない期待で気持ちが高ぶる。
怖いと思った。
百瀬の顔を見たら今度こそ、気持ちが溢れてしまうかもしれない。
悩んだ末に、手紙を添えてサンライズ体操教室へ送る事に決めた。
辛い選択だけれどそれしかない。
今さえ我慢して乗り切ればきっと忘れられる、そう思った。
その夜、みちかは百瀬に手紙を書いた。
文集を返し忘れてしまった事のお詫びと改めて、乃亜がお世話になった事のお礼。
書いていたら色んなことを思い出して、涙が出た。
こうやってちゃんと忘れようとしている自分は正しい。
手紙に封をしながら、百瀬への気持ちにも封をしたような気がした。
それはとても良い事だと思っていた。
その時までは。
既に時計は24時近いし、悟は今日も夕飯は食べないからもう寝よう、そう思って何となくモモが眠っているゲージを見た。
その中に何故かモモが居なかった。
リビングを見回しても見当たらない。
音もなくどこへ行ってしまったのだろう、みちかは立ち上がった。
悟が帰宅した時に開けたリビングのドアがそのままになっている事に気がついた。
ここから抜け出して、他の部屋に行ってしまったに違いない、そう思いながらリビングを出て家中を探した。
すると悟の部屋のドアが少しだけ開いていた。
覗くと暗闇でガサゴソと音がする。
部屋の電気をつけると案の定、モモがベッドの上に居て、自分の尻尾に戯れて暴れているところだった。
「モモちゃん、ここに来たらダメよ。」
みちかは近寄り暴れるモモを両手で持ち上げた。
爪が引っかかり、シーツが少し持ち上がる。
その瞬間、ベッドに無造作に置かれていた悟のスマートフォンがちょうど着信で震え、思わずみちかは画面を目にしてしまった。
『友利さん、先日は傘ありがとうございました。明日またお会いできるの楽しみにしてます。夜はホテルで二次会したいな』
画面には、南 可那という名前でメールの通知が表示されていた。
その文面と、最後に添えられたハートマークに思わずみちかの鼓動が早まる。
「痛い…。」
その時、抱っこしていたモモが小さな爪でみちかの手を軽く引っ掻いた。
慌ててリビングに戻りモモをゲージの中に離した。
ソファに腰を下ろすと、心臓がドキドキしているのが分かった。
悟はまだ、シャワーを浴びている。
南可那というメールの相手は、例のあの女の子に違いない。
悟が傘を貸したのもやっぱりあの子だったのだ。
明日の宿泊も一緒だなんて、その上ホテルで二次会をしようだなんて、なんて大胆な誘いなんだろう。
悟がどんな風に返信するのか考えると吐き気がした。
ホテルの部屋で2人きりで飲んだりするのだろうか。
明日は私たちの結婚記念日なのに。
みちかは悟と顔を合わせる前にリビングを出た。
そして乃亜の眠るベッドに向かった。
モモが引っ掻いた傷がしくしく痛んでいる事に気づいたけれど、手当てをする気になれなかった。
あぁ、きっと今夜も眠れない、そう思いながら寝息を立てる乃亜の隣にそっと潜り込んできつく目を閉じた。
温まったコテを毛先に巻きつけながら、みちかは鏡越しの自分の顔をじっと見つめる。
昨夜ほとんど眠れなかったせいで、頭がひどくぼんやりしていた。
また疲れた顔をしていると百瀬に思われないだろうか。
出かける前にもう一度、毛先を巻き直そうと鏡の前に立つと、色んな不安が襲ってきて、みちかの足を重くする。
昨夜の南可那のメールがあまりに強烈で、自分の中でずっと大事にしてきた色々なものがどれもこれも一晩で簡単に壊れそうになっていた。
きっと必死で守っても、その時が来たら全部壊されてしまう、それなら自分で壊してしまったほうがよっぽどいい。
夜中、そんな悪い考えがぐるぐると止まらずに押し寄せた。
百瀬を忘れようと人知れず苦しんで、我慢している事も、一体何のためなのかもうよく分からない。
あんなメールを受信しておきながら、悟は今朝もいつも通りだった。
朝食時、彼はダイニングテーブルに置いてあったルツ女の文集を手に取って「これ、どうしたの?」とみちかに呑気に尋ねてきた。
みちかが「乃亜の担当の先生にお借りしていたの。」とこたえると、「ふぅん。」と興味無さそうに返事した。
「聖セラフのお試験の日には、わざわざ駅まで来てくださったのよ。とっても良くしてくださった先生なの。」とみちかが言うと、「あの忙しい時期に?わざわざ乃亜のためだけに?」と、ただびっくりしていた。
思わずむきになり百瀬の事を話してしまう自分にみちかは驚いていた。
むしろまだ話し足りないくらいだった。
それでもいつも通りの涼しい顔で、泊まりの荷物を手に出勤して行く悟の姿を見ていたら、ふっと今日百瀬に会いに行こうと思いついたのだ。
文集を直接返してお礼を言おう、ただそれだけのことを躊躇っていたなんて、何だかおかしいしつまらない、そう思えてきたのだ。
平日の午前中のせいか、サンライズの事務室は職員がまばらだった。
「こんにちは。」
入り口手前のデスクに座る、顔見知りの女性スタッフに声をかけると彼女はすぐに立ち上がった。
「友利さん!こんにちは。」
親しげな笑みを浮かべながら彼女はこちらへ歩み寄って来てくれた。
「どうされましたか?」
「あの、娘が大変お世話になりました。今日、百瀬先生はいらっしゃいますか?」
事務室には見た感じ百瀬の姿は見当たらなかった。
もしかしたら今日は居ないのかもしれない…。
残念なような、ホッとしたようなよく分からないような気持ちになる。
「百瀬ですか?」
そう彼女が言った時、後ろから聞き慣れた声がした。
彼女が振り向き、みちかも声の方を見た。
そこには関崎が勢いよくこちらへ歩いて来る姿があった。
「友利さん、お久しぶりです。この度は乃亜ちゃん、おめでとうございます。」
よく通る元気な声で話しながら、笑顔で関崎はこちらへ歩いくる。
「こちらこそお世話になりありがとうございました。ご挨拶が出来ず申し訳ありませんでした。」
「いえいえ、とんでもないです。それより、すごいですよ、聞きました?乃亜ちゃんが受けた聖セラフの2日目、倍率5倍超えていたそうです。頑張りましたね、素晴らしいですよ!」
「え…、そうだったんですか?」
生き生きと表情豊かに話す関崎にみちかは圧倒されていた。
まさにパワーがみなぎりオーラが大きい、そんな感じで、今にも腐りそうになっている心根が見抜かれてしまいそうだった。
現実にしっかりと引き戻されていく、まるでそんな感じだった。
「はい!まさに乃亜ちゃんと友利さんの日頃のご努力あっての結果でした。」
みちかは「いえいえ…。」と謙遜し、深々と頭を下げた。
「あの、百瀬先生にご用事があるそうなんです。今日お休みでしたっけ?」
そこで始めに話した女性スタッフが関崎にタイミングよく声をかけた。
すると関崎の表情は一気に曇り、申し訳なさそうな顔になった。
「あー…、百瀬ですよね。今日はお休みいただいているんですよ。」
あぁ、やっぱり居ないのか、とみちかは内心がっかりした。
それでも関崎に会えてなんだか目が覚めたような気がしたし、これで良かったのかもしれない、そう思った。
「そうでしたか。あの…、実は百瀬先生にお返ししたいものがありまして、お渡し頂いてよろしいでしょうか。」
封筒に入れた文集を、みちかはバッグから取り出す。
すると関崎は、「えっとー…。」と言って、戸惑った顔をすると、両手の平をこちらへ押しやるように向けて言った。
「ちょっと、えーと。お待ち頂いてもよろしいですか?あの…、良かったらそちらへおかけになっていて下さい!どうぞ!」
それだけ言って、関崎は事務室の奥へと行ってしまった。
急用でも思い出したのだろうか、不思議に思いながらみちかは関崎に言われた通り背後に並ぶソファに浅く腰掛ける。
そして壁に貼られた沢山の合格者の名前をぼんやり眺めながら関崎を待っていた。
5分ほど経った頃、戻ってきた関崎はみちかのそばまで駆け寄ると小声で言ったのだ。
「百瀬が今からこちらへ来ます。よろしかったらすぐそこの東口公園で待って頂けませんか?百瀬はそこを通りますので。」
その公園は、サンライズのビルから駅へ向かう途中にある公園で、お教室の後に何度か乃亜と立ち寄った事もあり、みちかはよく知っていた。
関崎の思惑がいまいちよく分からなかったのだが、小声で言われると何となく素直にその通りにしなくてはいけないような気持ちにさせられる。
言われた通りその小さな公園に着くと、どこで百瀬を待てば良いのか分からずみちかは何となく居場所を探していた。
百瀬はこの近くに住んでいるのだろうか。
冷たい風がプリーツのロングスカートを揺らす。
さっきから急に雲行きが怪しくて、傘を持って来なかった事を後悔していた。
一目会うだけなのだから、降ってくる前にはきっと家に着いてるだろう、そんな事を考えながら気持ちを落ち着かせようとする。
みちかはいつもより緊張していた。
手持ち無沙汰に手元を見ると、一昨日塗ったネールがほんの少し剥がれている。
がっかりしながら薄いピンク色を指でなぞり、ふと顔を上げると百瀬がこちらへ歩いてくる所だった。
毎日のように思い返していた淡い面影が実物となってくっきりと目の前に現れる嬉しさ。
百瀬のそのいつも通りの笑顔に、みちかは肩の力が抜けていった。
目が合うと自然と口元がほころんでしまう。
自分はただ理屈抜きで彼の事が好きなのだ。
「友利さん、わざわざすみません。」
「こちらこそ、お休みされていたのに、返って申し訳ありません。あの…お借りしていたルツ女の文集を、私うっかりしまい込んでしまっていたようで。大切な物なのに本当にごめんなさい。とっても素晴らしい内容でした。ありがとうございました。」
みちかがルツ女の文集を封筒から出して見せると、百瀬は思い出したように「あぁ。」と小さく叫んだ。
「これでしたか、すっかり忘れてました。ご丁寧にありがとうございます。」
百瀬が両手で丁寧に文集を受け取り頭を下げる。
スモーキーブルーのニットをさらっとラフに着ただけの百瀬は、なんだかいつもより無防備でみちかはドキドキした。
「今年の聖セラフの倍率は、ルツ女と変わらなかったそうです。ルツ女に受かっても聖セラフが残念だった子も居たくらいです。B日程は特に狭き門でした。乃亜ちゃん、本当に頑張りましたね。」
「先ほど関崎先生もそう言ってくださいました。乃亜は、運が良かったんです。百瀬先生に出会えて、聖セラフに出会えて、ご縁があって。幸せ者ですね。」
みちかの言葉に、百瀬が嬉しそうに照れ笑いをして見せた。
「こんな事、生徒のお母様に言うとひいきになっちゃうので良くないのですが…。乃亜ちゃん今まで教えた子の中で一番可愛く感じていたんです。素直だし…話しもしっかり聞けるし、それ以上に愛らしいというか。だからどうしても受かって欲しかったんです。ご両親のご希望通りにルツ女に決まって欲しい気持ちももちろんありましたし指導もしていましたが…、本心は聖セラフに行って欲しかったので。だから聖セラフに決まって、本当に嬉しかったんです。」
みちかは頷いた。
大好きな百瀬の声を、いつまでも聞いていたい。
「先生、私…。」
声が震えてしまいそうで口籠る。
百瀬の大好きな垂れ目がじっと優しくこちらを見つめているのを感じた。
これだけは伝えたいし、今しかない、とみちかは思った。
「正直とっても寂しいです。毎週、百瀬先生にお会いできるのが嬉しくて…いつだって先生のお顔が見れると幸せだったので。乃亜は先生の事が大好きでしたが、それは乃亜だけじゃなくて…、私もずっと先生に夢中でした。こんな気持ちを口にしちゃいけないのは分かってるんです。先生と最後にこうして、お会いできて良かった…。」
百瀬は辛そうな表情で聞いていた。
最後の最後まで、甘えてしまったんだなぁとなんだか申し訳ない気持ちになる。
でもこれで本当に最後だし、なるべく爽やかに終わりにしよう、とみちかは思った。
「ごめんなさい、どうしてもお伝えしたかっただけなんです。これからますますお忙しくなると思いますが…。先生のご活躍、陰ながら応援しています。」
これで帰らなくちゃ、と思った。
百瀬の気を煩わせたくない、そう思ってみちかは笑顔でさようならを言いかけた。
雨が降り出したのは、ちょうどその時だった。
それはあっという間に大粒に変わっていった。
すると百瀬が当たり前のようにみちかの手を握りしめ、そのまま走りだした。
そして公園の脇にある扉にふいにキーをかざした。
自動に開いたその扉の中へ、みちかの手を引き百瀬は足早にどんどん進んで行く。
そこは駐輪場だった。
屋根はあるものの雨風を完全にしのげるわけでもなくて、百瀬は小走りにその奥の建物の中へとみちかを無言で連れて走った。
その建物は大きなマンションだった。
雨に濡れない所まで来ても、繋いだ手を百瀬は離さなかった。
その手がとても優しくて、今にもみちかは涙が出そうだった。
もうお別れだと思っているのに、こんな風にされたら余計に忘れられない。
何も言わないで黙って雨を見ている百瀬と、並んでみちかも同じように雨を見ていた。
そして雨が一層強くなりどしゃ降りになった頃、百瀬が言った。
「あの、ここだと濡れてしまうので…。良かったら雨宿りして行きませんか?僕の家、この上なんです。」
「え…?」
雨は強く横殴りに降ってくる。
「とりあえず、行きましょうか。」
百瀬が建物の奥へと歩き出す。
その手はほんの少しだけ強引だった。
手を引かれいくつものドアの前を通り過ぎ歩いていくうちに、みちかは自分が小さな子どもになっていくような複雑な感覚に落ちていった。
エレベーターが3台並ぶホールで立ち止まると百瀬は戸惑う事なく上階へ向かうボタンを押した。
このまま行ったらものすごく後悔する事になるかもしれない、酔いが冷めていくように頭はそう理解し始めているのに、繋いだ手を離したくなくて扉が開いたエレベーターにみちかは乗り込んでいた。
百瀬が14階のボタンを押すと、ゆっくりと扉が閉じて上昇を始める。
狭くて音の無い空間に2人きりになると、ふいに百瀬は繋いだ手の指を滑らせ、みちかの指の間に指を絡ませた。
百瀬を見上げると百瀬もみちかを見つめていた。
彼の表情に強引な雰囲気は全然無かった。
ただ一緒に居たい、そうゆう子供同士のようなものさえ含んでいた。
だけどしっかり身体は大人でちゃんとその先も求めているのは分かっていて、どうにもならないから、こうして恋人繋ぎをしてエレベーターに乗ってる、でも無理やりな感じは全然無かった。
みちかは少しだけホッとして口を開いた。
「先生はこちらにお一人で?」
「はい。ここ、元実家なんです。1人で住むにはちょっと広いんですけどね。」
「そうだったんですね。教室のお近くにお住まいだったなんてびっくり。」
ふふ、と、みちかが笑うと百瀬も笑った。
「近いですよね。マンションから会社が見えるのでたまに嫌になります。」
エレベーターが止まり、扉が開く。
「あ、小雨になってる…。」
手を繋ぎ百瀬の後を歩きながら、みちかは呟いた。
雨が大分弱まり、ちょうど雨雲が過ぎ去っていく所だった。
突き当たりの玄関ポーチのある部屋の前で百瀬が足を止めた。
「晴れてきちゃいましたね。」
照れたようにみちかを見て百瀬が笑った。
その表情は、とってもあどけなくて、あぁもう、塾の講師とお客さんではないのだ、とみちかは気づいた。
ひとまわり年下の可愛い男性と人妻の自分がこんな風に手を繋いでいるなんて気恥ずかしい。
握りしめたままの手で強引に連れ込むわけでもなく、百瀬は無邪気に笑顔で佇んでいた。
そうかぁ、全てこちらに委ねられているんだなぁ、とみちかは思った。
雨が止み、空は晴れ間さえ出てきてほんの少し暖かく感じる。
百瀬の部屋はとっても日当たりが良さそうだ、とみちかは思った。
「雨も止んだので、乃亜のお迎えに行かないと…。」
みちかは笑顔で言った。
とってもとっても残念だけど私にはそれしかない。
「そうですね…。念のため、傘、お持ちになりますか?」
百瀬が残念そうな顔をして言った。
「ありがとうございます。でも、お借りしたらきっとまたお会いしたくなってしまうから、遠慮させてください。」
みちかはそっと、繋いでいた手を離した。
「こちらで失礼します。先生、ありがとうございました。お元気で。」
頭を下げて、百瀬に背を向けみちかはエレベーターへ向かった。
前を向いて振り向かず、元来た道を戻った。
静かなリビングに冷蔵庫のモーター音が小さく聞こえている。
読んでいた本を中断して、ダイニングテーブルからみちかは吸い寄せられるように冷蔵庫へ向かった。
冷気の中、ビールに伸ばした手をふっと止めて代わりに赤いエキスの入った瓶と炭酸水を取り出した。
何かあればいつだってお酒に頼ってしまう自分が本当は嫌だった。
一度に飲む量も確実に増えてきているせいか、身体が辛い日も多い。
悪いお酒はもうやめよう、と思った。
もうすぐ22時だし、柘榴ジュースを飲んで眠ろう。
悟は今ごろ、あの女の子とホテルにいるのかもしれない。
心がざわざわしないと言ったら嘘になる、でもきっと考えてもきりがないのだ。
私にはもう、どうすることもできない、好きにすればいいと思った。
百瀬の手の感触を思い出すだけで、胸が暖かくなって嫌な気持ちを忘れさせてくれる、そんな気がした。
明日の朝は、乃亜の大好きなハンバーグを作ってお弁当に入れてあげよう。
残り数ヶ月の幼稚園の毎日を、楽しく過ごしてほしい、それだけを考えて過ごそうとみちかは思っていた。
その時、勢いよく玄関のドアの閉まる音がしてみちかは顔を上げた。
気のせいだろうか、そう思って振り向くとリビングのドアが開いて悟が入ってきた。
「悟さん、どうしたの?」
立ち上がったみちかに悟は歩み寄りながら言った。
「やっぱり帰ってきたよ。今日、記念日でしょ。君の欲しいもの聞き忘れてたから勝手に選んじゃった、ごめん。」
そして手に持っていた小さな紙袋をみちかに差し出した。
有名ブランドのショッピングバッグの中には指輪のケースが入っていた。
取り出し開けると、プラチナにブルーダイヤが埋められコロンとした指輪がはまっている。
「結婚指輪よりもワンサイズ大きくしてもらったから。ちょうどいいはずだよ。」
みちかはルツ女の面接を思い出す。
結婚指輪をしていこうと話し合って決めたのだけれど、当日、久し振りにはめてみたらきつくて入らなかったのだ。
そのせいでひどくガッカリしていた事を悟も知っていた。
みちかの手の中にある指輪ケースから、悟は指輪を摘み上げた。
そしてみちかの左手を取ると、あっという間に薬指にそれを入れた。
言われた通り指にぴったりだった。
「…ありがとう…。」
「それ、外さないで。」
「え?」
「ずっとしてて。」
みちかは悟を見上げた。
何が言いたいのか、よく分からない。
長い前髪に隠れそうな目は、笑ってもいないし、むしろ怒っているように見える。
怒りたいのはこっちなのに…なんて勝手なんだろうとみちかは思った。
戸惑っていると、ぐいっと腕を引っ張られ、そのまま抱き締められた。
「今日は飲んでないよね?お酒。」
「飲んでない。悟さんは、随分酔っているのね。」
悟の香水の香りを吸い込んで、みちかはため息をついた。
今日は仕方なく、私にこうしているのかしらと思わず捻くれる自分が可笑しかった。
だっていつもこうしてこの香りを嗅いでいるのはあの子なんでしょう?
そう言いたい気持ちをなんとか我慢する。
しばらくの間、そうやって悟に抱きすくめられていた。
悟の身体をこんなに近くに感じたのはものすごく久し振りだった。
あんなにずっと求めて毎日泣いていたのに、誰かのものみたいで何もする気になれない。
「みちか。」
「なに?」
見上げると、キスをされた。
それは長くて、こんなに長いキスは今までした事がなくて、悟はこんな風にする人だったっけ…と、ぼんやりと疑いながらみちかは彼の背中に腕を回した。
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