入試本番

玄関先で郵便局員に受け取った速達を手に、みちかは急いで部屋の中へと戻る。


テーブルの上に準備していたハサミを持つとその手が震えているのが分かった。

中身を切らないように、封筒の上を慎重に切り落として中の用紙を取り出す。

用紙が1枚、この時点でもう、それが何を意味するのかみちかは気づいていた。


聖ルツ女学園と書かれた空の封書をテーブルにそっと置き、深呼吸をする。

そしてそっとその3つ折りの紙を開いた。


『残念ながら不合格となりました』という文字が視界に入るなり、頬を生温かい涙がつたう。


2週間前に親子面接を終えて、昨日は筆記試験を受けたばかりだ。

乃亜はどちらもとても落ち着いて受けれたと思う。


どうして、一体何がいけなかったのだろう。

みちかの頬を次々と涙がつたっていく。


ずっと憧れて憧れて、一生懸命にやってきた。

この日を笑顔で迎えるため、努力を怠らずに頑張ってきたというのに。

思えば思うほど悲しくて、立っていられなかった。

気がつくと、床に手をつき泣き崩れていた。


小さな手で鉛筆を握りしめて何度も何度も繰り返しやっと解けるようになった過去問題、写真館のカメラマンに促され、小さいなりにぎこちない作り笑顔を浮かべた願書の写真、夏期講習に向かう時の不安そうな横顔、色々なことがみちかの頭を巡る。


合格のために辿ってきた今日までの長い道はもう戻る事は出来ない。

一生でたった一度だけのこの機会は、とうとう報われる事なく終わってしまったのだ。


力なく立ち上がると、みちかはソファに座りこみ、スマートフォンを手に取って画面を見つめた。

何度も何度も文章を書き換えて、『乃亜ちゃん、ルツ女残念でした。』とだけ悟にメールで送る。


時計を見上げると12時半、今ごろサンライズ体操教室では合格を報告する電話が立て続けに鳴っている事だろう。

乃亜の幼稚園のお迎えまでには、サンライズに電話をかけて我が家は残念だった事を報告しなくてはいけない。


一昨日、直前講習の終わりに百瀬は乃亜の前にしゃがみ込み、両頬をそっと優しく包んだ。

「頑張れるおまじないだよ。」と言った優しい声を、何度も何度も思い出し緊張を乗り越えてきた。

あの時にもう一度戻りたい、どんなに強くそう願っても二度と戻れない。

朝早く起きて朝食を作り、身支度を整え、乃亜の手を引きルツ女の門をくぐった昨日の朝は戻ってはきてくれない。

そして私たち親子が、あの正門をくぐることはもう二度とないのだ。



「さようなら。」


正門の前で園長先生にご挨拶をした乃亜の手を引いてみちかはひみつのこみちへ入った。


「ねぇ、今日ね、実咲ちゃんが体操の時間に跳び箱10段飛んだんだよ。」


「そうなの?10段、実咲ちゃんすごいね。」


乃亜はニコニコしながらみちかを見上げる。


「うん。ねぇ、ママ、今日はどうしてお迎えに来てくれたの?」


いつもと変わらない無邪気な乃亜の笑顔に、みちかは言葉を詰まらせる。

鼻の奥のツンとした痛みが去って行くのを待ってからみちかは言った。


「今日はね、乃亜ちゃんに早く会いたかったからよ。」


「へぇ、そうなんだ。乃亜ちゃんもママに会いたかったよ。ママありがとう。」


乃亜が笑い、みちかはほんの少しだけホッとする。

乃亜ちゃんにルツ女の合否の結果はまだ伝えないでください、と百瀬には言われていたが、伝えるまでもなく、乃亜は合否がある事自体を今は忘れてくれているようだった。


13時頃、サンライズ体操教室に電話をかけると電話に出たのは百瀬だった。

乃亜の不合格を伝えると、『そうですか…。』と、一瞬、黙り込んでしまった。

『なんとか気持ちを切り替えて明後日の聖セラフのお試験頑張りましょう。明日は、僕も出来る限りの事が出来たらと思います。お待ちしていますね。』

彼が本気で落胆したのは声のトーンでもよく伝わってきた。

それでも前向きな百瀬の言霊のお陰か、なんとか気持ちを切り替えようとみちかは思ったのだ。

そして1分でも長く乃亜との時間を作ろうと今日は園までお迎えに来た。

今、必要なのはおそらく勉強とか試験の対策じゃなくて乃亜と向き合う事のような気がする。

乃亜の顔を見てたくさん話しをしたい。

親子の時間が今の折れそうな心を支えてくれるような気がした。


ルツ女の試験の結果はショックだし気持ちは未だひたすら哀しいけれど、私達はやるだけの事をやってきた。

だから乃亜に必要な道は、開けるように出来ている、みちかはそう思う事にした。


けれども悟はそんな風に思えない様子だった。

いつも通り変わらず遅く帰ってきた悟はみちかの顔を見るなり「本当なの?」と詰め寄った。

「乃亜が落ちるなんて信じられない。一体何が悪かったの?ちゃんと対策してきたんだよね?」と、矢継ぎ早に責めるような口調の悟に、みちかは涙をこらえるのに必死で何も返せなかった。

「もう、中学受験でいいんじゃない?」と、冷たい一言を放ち、悟はバスルームのドアを荒々しく閉めた。


怒りと哀しみで綯い交ぜになった気持ちは、みちかの落ち着いた気持ちをあっという間にかき乱した。


こんな時に支え合えない私たちは、一体、何のために夫婦でいるのだろう。


夜の考えが悪戯に心を蝕むのは分かっている。

けれど、本当にもう悟と私は修復できない所まで来てしまったのかもしれない、指1本でも触れたら落ちてしまいそうなギリギリの所でなんとか立っているのかもしれない。


一体いつからなのだろう。

なぜ悟は、こんなに私を放っておくのだろう。


悟を責める気持ちが、煮えたつ様にグラグラと自分の中で熱くなる。


みちかはその夜も眠れなかった。




マジックミラー越しに、その乃亜と百瀬のやり取りをみちかは見守っていた。


いつもの行動観察対策に加えて、個別と呼ばれる先生との一対一の受け応えの練習。

自分の言葉で上手に説明が出来る事、目上の人にきちんとした対応が出来る事を意識し、そのやり取りの練習は行われる。

ハキハキとしたリーダーシップのある子を好む聖セラフに乃亜の性格はぴったりとは言い難い。

けれど百瀬の元、今日まで重ねてきた努力で乃亜は随分変わったと思う。

百瀬の質問に楽しそうに応える乃亜の表情を見ていたら、試験の結果を悔いる事を忘れている自分がいた。


その時、教室に女性の先生が入り百瀬とバトンタッチをした。

教室を出た百瀬の足音がこちらへ向かって来るのが分かり、みちかは思わず姿勢を正す。

今日の生徒は乃亜だけなので、今日、この保護者席に居るのはみちか1人だった。


「友利さん。」


みちかの目の前に、百瀬が現れる。

立ち上がり会釈すると、百瀬は綺麗に指を揃えた手をかざし、どうぞ座ってくださいと言うようにそっと頷いて見せた。

みちかがソファに腰を下ろすと、百瀬は隣に座った。

いつもよりも距離が近くてみちかはドキドキした。


「乃亜ちゃん今一度、個別対策を宮部が担当します。今日もとても落ち着いていますし、明日はきっと良い結果が出せると思いますよ。」


百瀬はそう言って、ニコリと笑った。

けれどもすぐにその表情は曇ってしまった。


「あの、友利さん。」


百瀬が苦しそうな表情で、じっとみちかを見つめてくる。

こんな表情を見たのは初めてだと、みちかは思う。


「先生、どうなさったのですか?」


首を傾け、その苦渋に満ちた百瀬の表情をじっとみちかは見つめた。


「あの、今回のルツ女の件は、本当に僕が至らなかった所が大きかったと…。本当に申し訳ありませんでした。」


そう言って、百瀬はうな垂れたように頭を下げた。


「そんな…先生の責任じゃありません。先生、どうかそんな顔なさらないで。」


思わずみちかは、百瀬の顔を覗き込む。

今にも泣き出しそうな百瀬の表情に胸が痛んだ。

悪いのは、先生じゃない。


「合格を頂けなかったのは、私と主人の責任です。私と主人の仲が悪いから…。それが面接で伝わってしまったのだと思います。先生のせいじゃないわ。」


百瀬が驚いたような顔をしてみちかを見つめる。

あぁ、思わずなんて事を言ってしまったのだろうと、恥ずかしくなりながらもみちかは続けた。


「乃亜も私も、百瀬先生が居てくださったからここまで頑張れました。私は先生に感謝しかないので…。どうかそんな風に思わないでください。」


静かにそう言って、みちかは百瀬に笑って見せた。


「ありがとうございます。」


百瀬の声が、いつもの甘い耳障りの良い声に戻りみちかはホッとする。


「それに、先生が聖セラフを乃亜にすすめてくださって本当に良かったと思っています。明日はこの悔しさをバネに頑張りますから。」


「なんだか、逆に励まされているみたいですみません。良かった…。」


百瀬の口元がそっとほころんだ。


きっと子供の頃から彼はこんな風に真っ直ぐだったに違いない、なんて可愛いらしいんだろう。

その素直な表情に、思わずみちかは見とれた。





その日の夕方、夕食を作っているみちかの元へ乃亜がスマートフォンを持ってきた。


「ママ、電話だよ。」


「あら、ありがとう。」


それは悟からの着信で、みちかは急いで電話に出た。


「もしもし?今ちょっといいかな。緊急事態なんだ。」


「え…、どうしたの?」


悟が勤務中、電話をしてくるなんて珍しかった。

緊急事態と発音する悟の声にはいつに無い緊張感が感じられて、ただ事では無いのが伝わってきた。


みちかは思わず、魚を焼いていたグリルのスイッチを切り換気扇を止めた。

シンとした部屋の中、電話の向こうの悟の声は鮮明に聞こえた。


「アデールの取引先が、急に倒産したんだ。うちのブランドも入ってる店だから、これからすぐ対応する事になった。明日も緊急会議に出なくちゃいけないんだ。」


「え…。」


目の前が暗くなるようだった。

聖セラフの試験は、面接も含めた全てが明日、行われる。

乃亜が筆記試験を受けている間に、悟と2人で両親面接に挑む予定だったのだ。


「明日の面接には行けなくなった。ごめん、でも聖セラフは必ずしも両親揃わなくてもいいような事を、学校説明会で教頭先生が言ってたよね?」


「それは…たしかに仰っていたけれど…。」


みちかは言葉を失った。

もう、何をどう言っても悟は明日来れないんだ、と思った。

状況もそうだし、悟の性格も。

けれどそれよりも何よりも受験に対する意気込みをもうこの人は失っている。


「明日は、申し訳ないけど君に任せるよ。今日も遅くなるから夕飯はいらない。」


「……分かったわ。」


低くて暗い自分の声に、みちかはうんざりした。


「乃亜には君から謝っておいてくれないかな?ごめん、急いでいるからもう切るけど。」


シンクの横で立ち尽くし、こちらを見ている心配そうな乃亜の顔を見つめながら「分かったわ。気をつけてね。」と言って、みちかは通話を終了させた。


「パパ?」


心配そうにこちらを見上げながら近寄る乃亜に、みちかは優しく微笑んだ。


「うん。パパね、お仕事が忙しくなっちゃって今日は遅くなるんですって。」


「パパ、大変だね。」


うんうんと頷く乃亜の肩にみちかはそっと触れた。


「そうなの、パパは大変なの。それでね、明日のお試験も一緒に行けなくなってしまったの。乃亜ちゃんごめんね、って、パパが言っていたわ。」


乃亜の顔の高さまでしゃがみ込み、なるべくゆっくりと乃亜に話す。

いつも百瀬がやっているように。


「そうなんだ。大丈夫だよ、乃亜ちゃんパパが居なくても明日頑張れるよ。」


「うん。乃亜ちゃん偉いね。ママと2人で頑張ろうね。」


みちかはゆっくりと頷いて見せた。




ナイトランプの小さな明かりの中、スマートフォンの液晶画面をじっとみちかは見つめていた。


乃亜を寝かしつけてからずっとスマートフォンを手に、既に30分が経過した。


明日の面接を自分一人で乗り切らなくてはならなくなってしまった不安は、時間が経てば経つほどに大きく膨らみ今にも緊張に押しつぶされそうだった。

悟が仕事でどうしようもないのは分かっている。

来れないのは仕方がない、ただ悟が同じ方向を向いてくれていない事が何より哀しく不安だった。

両親がこんな気持ちで乃亜が聖セラフに受け入れてもらえるとはとても思えない。


迷っていても前に進めない。

みちかは液晶画面にそっと指を触れる。


耳元で呼び出し音が鳴り響いた。

お困りのことがあったらいつでもかけてくださいね、そう言って教えてくれたプライベートの携帯番号に、自分が電話をかける日は来るわけがかい、そう思っていた。

忙しい百瀬を、煩わせたくはなかったのだ。


でも、今日だけは電話をかけてもいい、この不安を消せるのは百瀬しか居ない。


百瀬に甘えて、百瀬に魔法をかけてもらいたい。

いつも乃亜にしているように私だけに特別に。

それだけで自分は頑張れる、そんな気がした。


「はい、もしもし?」


もしかしたら出ないかもしれない、そう諦めかけた時、百瀬の声が耳元に飛び込んできた。

みちかは小さく息を吸い、出来る限り落ち着いた声で話そう、と気持ちを切り替える。


「友利乃亜の母です。百瀬先生ごめんなさい、こんな遅くに…。今、お電話大丈夫でしたか?ご自宅かしら。」


「あ、はい、大丈夫ですよ。今日はありがとうございました。どうされました?」


電話の向こうは静かだった。

自宅に居るのに申し訳ないのと、自宅に居る百瀬と話すなんてなんだか贅沢だなぁ、とみちかは妙な気持ちになる。


「あの、実は明日の聖セラフのお試験なんですが、主人が仕事を休めなくなってしまいまして…。面接が、私一人になってしまったんです。急なのでとても不安で…。思わず先生にお電話してしまいました。」


不思議な事に、話しながらもう気持ちが半分くらい楽になるような感覚だった。

百瀬の「えっ…。」とか「あぁ。」とか聞こえてくる相槌がとても優しくて、ちゃんと聞いてもらえているそんな安心感で包み込んで来るのだ。


「あぁ…、そうだったんですね。それは急で不安になりますよね。」


「そうなんです…。」


その明るいトーンの百瀬の声に、一気に力が抜けて行くようだった。


「あ、でも大丈夫です。僕の教えた生徒さんも何名か、お母様お一人の面接でちゃんと合格頂いていますから。聖セラフはそこはあまり心配なさらなくても大丈夫ですよ。そうゆう学校なんです。」


いつものように甘い声で、途中ほんの少し舌ったらずになりながら百瀬が説明する。

その可愛い癖に、みちかは自分の口元が緩むのが分かった。


「良かった…。それなら心配しなくて大丈夫そうですね。」


「はい、あ、そしたらご主人様に学校宛にお手紙を書いて頂いた方が断然いいです。伺えない理由と学校へ対するお気持ちを書いてそれを面接の際に学校長へ渡して頂くと安心です。ご主人様、お忙しいかな?良かったら僕、今、例文を作るので、友利さんにメールでお送りしましょうか?」


「そんな…、それは先生に申し訳ないです。なんとか主人に書いてもらいますので、ご心配なさらないで。ありがとうございます。」


百瀬の気持ちが嬉しくて、みちかは思わず泣きそうになる。


「そうですか?手紙は、ご無理のない範囲で大丈夫です。もし、難しそうだったら何時でもいいのでお電話してくださいね。」


「ありがとうございます。心強いわ。すっかり動揺してしまっていたので…。先生のお声が聞けて、それだけでもホッとしています。こんな前日にバタバタしてしまって、本当にごめんなさい。」


暗いベッドルームで独りよがりに固まっていた思考は、百瀬の魔法で解きほぐされて現実に引き戻される。

声が聞きたい、きっと本当はそれだけの理由で、それが叶えられた今は水を得たように心が生き生きとしていく。

大丈夫、きっと明日は大丈夫。


「いいんです、今度こそ乃亜ちゃんと友利さんに笑って欲しいので。どうかいつも通りの友利さんで挑んでくださいね。明日はうまく行くようにずっと祈ってます。」


スマートフォンを手にしたまま、百瀬の言葉にみちかは静かに頷いた。

通話を終えたみちかは、横で眠る乃亜を見つめる。

乃亜は幸せそうな表情で、小さな寝息をたてている。

その頭を優しく撫で、みちかはそっとベッドから起き上がった。




改札を出たみちかと乃亜は手を繋いで乗り換え駅へと向かいゆっくりと歩く。

美容室、駐車場、マンション、保育園、その間には畑があったりと駅前とは思えない長閑さだ。

自宅から聖セラフ学院小学校へ向かう途中には乗り換えが一度あって、そこは駅と駅が離れていて少しだけ歩く必要があった。

初めて行った時は不便に感じたけれど、朝の込みあった電車にずっと乗り続けるより、こうして途中で外の空気を吸う時間が取れるのは通学途中に乃亜の気分転換になるような気がする。


自宅最寄駅から乗り込んだ電車は流石に平日の朝なので乗車率は高めだったけれど、下り電車のせいかひしめき合う程でもなかった。


みちかと乃亜は小さなカラオケボックスの脇道から、横断歩道を渡った。

道の向こう側にあるこじんまりとした駅の改札、そこを入ればすぐ目の前がホームだった。

これなら単純で、小さな乃亜でも迷う事がなさそうだ。

間も無くホームに滑り込んできた電車に2人は乗り込んだ。


「乃亜ちゃん、1つ目の駅で降りればもう小学校だからね。あと少しよ。」


少しばかり混んではいるけれど聖セラフの最寄駅は近いのであとほんの少しの我慢だ。

乃亜は車内の液晶ディスプレイを見上げ、停車駅名を見つけたようで「本当だね。もうすぐだね。」と、落ち着いた様子で言った。


今日の乃亜はとてもしっかりと落ち着いていた。

昨夜から面接のやり取りをシュミレーションし続けて頭がいっぱいになっている自分よりもよほど、みちかは娘を頼もしくすら感じていた。


今日は聖セラフ学院小学校入試2日目のB日程、たった10名しか取らない狭き門ではあるけれど今日の乃亜はいい結果を出せるような気がする。

だからこそ母である自分が足を引っ張るわけにはいかないのだ。

みちかは、小さく深呼吸をした。


昨夜、百瀬との電話の後、悟に電話をかけてなんとか学校長へ手紙を書いて欲しいとお願いをした。

朝起きるとダイニングテーブルに悟の書いた手紙が置いてあった。

それを見てみちかはホッとしたけれど、一人で面接をこなす心配が和らぐことはなかった。


その時、車内アナウンスが聖セラフの最寄駅へ到着する事を告げる。


「ママ、着くね。」


手を繋いだまま、乃亜がみちかを見上げる。


「着いたね、降りようね。」


電車が遅れなくて良かった、ここまでくれば後は学校まで徒歩10分だ。

乃亜とみちかは電車を降りて、ホームをゆっくりと歩いた。

雨の多い10月なのでお天気が崩れないかヒヤヒヤしたけれど、清々しい程の秋晴れで空が抜けるように青い。


目の前に聖セラフ学院の駅看板が見える。

その下をくぐり抜ければもう改札だった。

乃亜を先に歩かせ、みちかが改札にICカードをかざす。


「あっ…。」


改札を抜けた乃亜が小さく声を上げた。

みちかも顔を上げる。

2人の視線は駅の出入り口に釘付けになる。

そこには、濃紺のスーツに身を包んだ、百瀬が立っていた。




みちかは信じられない思いで、乃亜の手を取り百瀬の元へと歩いて行った。


「おはようございます。」


明るいその声に、思わず笑顔になる。


「先生がいらっしゃるなんて…。」


「なんだか心配で、来ちゃいました。」


百瀬の形の良い大きな口元がキュッと上がって笑みを作る。


「そんな…、わざわざここまで…。ありがとうございます。」


緊張で固まっていた身体の力が抜けて行く。その瞬間、思わずみちかは泣きそうになった。

百瀬が慌てて広げた両の掌をこちらに向け申し訳なさそうな表情をする。


「わぁ、友利さん、泣かないでください。」


「ごめんなさい。でも、先生にお会いできて嬉しい…。」


みちかはほんの少し目がしらを抑える。

百瀬から照れ臭そうな笑い声が漏れる。

思わず口をついた素直な自分の言葉は、恥ずかしいというよりもなんだかとても心地よかった。


「良かったぁ。僕なんかでも居たら少しは心強いかなぁと思いまして。正門までご一緒させて頂いていいですか?」


みちかが頷くと、百瀬はホッとしたような顔をして、次に乃亜の前にしゃがみ込んだ。


「乃亜ちゃん、朝早くここまで電車で大変だったね。先生ね、乃亜ちゃんの応援に来たんだ。学校の前まで一緒に歩いて行ってもいいかな?」


「先生と一緒に行けるの?やった!」


乃亜が満面の笑みで、小さなガッツポーズを作る。


「じゃ、先生と手を繋いで行こっか。」


乃亜の手を優しく取り、立ち上がった百瀬はみちかを見つめる。


「参りましょうか。」


百瀬の垂れ目が優しく笑う。

駅を出て、乃亜を真ん中に3人で並んで歩く。

聖セラフの周辺は本当に長閑な地域で朝でも交通量は少なくとても静かだ。

少し前の方を同じように濃紺に身を包んだ家族が歩いている。

私たちも家族の様に見えているのだろうか、とみちかは不思議な気持ちで横に居る百瀬を見あげた。


「空、真っ青ですね。晴れて良かったぁ。」


嬉しそうに空を見上げながら百瀬が呟く。

そして真剣な顔でみちかを見た。


「ご主人様にお手紙、書いて頂けましたか?」


「はい。なんとか書いてもらえて…。少しホッとしました。」


「あ、それなら良かったです。」


ニッと口角を上げた状態で百瀬は口を閉じた。

そして前を向き、少しの間黙って歩いた。


みちかはそんな百瀬の姿を盗み見る。

彼が濃紺を着た姿をみちかは初めて見た。

品の良い、落ち着いた、黒に近い紺色。

それはとてもよく似合っていて、乃亜の若いお父さんの様に見えた。




「百瀬先生、なんだか今日はパパみたい。」


そんな風に言った乃亜に、百瀬がたまらなく甘い表情で笑いかける。


「本当?パパに見えて良かったぁ。1人怪しい奴にならないように思いっきり変装してきて成功かな?」


乃亜がうふふ、と笑いみちかも笑った。


「そうだ、乃亜ちゃん。聖セラフ学院小学校にもひみつのこみちがあるのは知ってる?」


百瀬がそう言って、ふっと立ち止まった。

その目の前には、細い路地が伸びている。


「ええ!?ひみつのこみち?知らないよ。ママ知ってる?」


乃亜が不思議そうにみちかを見上げた。

みちかも「さぁ、知らないわ。」と、首を横に振る。


みちかはここを左に曲がり、道路の脇道を通って学校へ行く方法しか知らない。

目の前の細道はまだ通ったことはなかった。


「もしかしてこの道が、学校へ続いているのですか?」


「そうなんですよ。ここ、車も通れないからめちゃくちゃ安心なんです。」


百瀬が「どうぞ。」と、小さな声で手をかざすので、みちかはそっとその小道に足を踏み入れた。


あまり舗装のされていない静かな路地裏に、3人の小石を踏む足音だけが聞こえる。

左右には住宅が並び、背の高い塀の向こう側に庭の木に咲く花や、色づきかけた葉がちらちらのぞく。

季節感を感じられる素敵な通学路だとみちかは思った。


「本当に、ひみつのこみちにそっくりですね。」


「そうなんです。幼稚園へ向かうみたいで、なんだかホッとしますよね。」


乃亜と百瀬は手を繋ぎ、楽しそうに歩いている。

そんな2人を見ていたら、みちかもすっかり明るい気持ちになった。

そっと乃亜の手を繋ぎ、3人で並んで学校の正門まで歩いた。


「先生のお陰でとてもリラックス出来ました。今日は、いつも通り頑張ります。」


聖セラフの正門の前で、みちかは百瀬に丁寧に頭を下げた。

丁寧に磨かれた百瀬の靴と、綺麗な手が視界に入る。

忙しいのに朝早くから私たちのために来てくれた。

一体、何時から駅で待っていてくれたのだろう、本当にありがたいと思った。

気持ちが舞い上がり、きちんと伝えられなかった言葉が次々とみちかの胸に染みてくる。


「友利さんのお力に少しでもなれたなら良かったです。頑張ってくださいね。」


そう言って、いつものように百瀬は乃亜の前にしゃがみ込んだ。

優しく乃亜の頭を撫でながらゆっくりと話しかける。


「乃亜ちゃん、落ち着いて、楽しくね。」


百瀬の表情は、乃亜の事を心から思ってくれている、いつだってそんな風に曇りない。


乃亜はキラキラした目で百瀬を見つめ、「先生、乃亜ちゃん頑張るね。」と言った。


みちかは目を細めた。

まるで本当に魔法にかかったかのようだった。

百瀬と別れ、乃亜とみちかは手を繋ぎ、聖セラフ学院小学校の校舎へと向かった。




順路通りに校舎から渡り廊下を通り、体育館に向かう。

入り口には、説明会などで数回お会いした教員や学校長の姿があり、「おはようございます。」と子供たちに声をかけていた。


「おはようございます。」


乃亜とみちかも立ち止まり、挨拶をする。

皆、笑顔で和やかな雰囲気を醸し出しあまり緊張感を感じさせない。

受付で名前を告げ、ゼッケンを受け取り体育館の中へ入ると、椅子が並び既に20組ほどの家族が座っていた。

椅子は受験票に記入されたアルファベット毎に区切られ並べられていて、乃亜とみちかは自分たちの場所を探し、並んで座った。

みちかは、ゼッケンを乃亜の肩に掛け、丁寧に結びつけた。

白い長袖シャツと濃紺のキュロットスカートを履いた乃亜の全身をチェックする。


「乃亜ちゃん、緊張する?」


「うぅん。大丈夫だよ。ママは?ママは面接1人で大丈夫?」


乃亜の言葉にみちかはゆっくり微笑んで見せた。


「大丈夫よ。心配してくれてありがとう。ママ頑張るから乃亜ちゃんも楽しんで、頑張ってきてね。」


ヒソヒソと小さな声で励まし合っていると、間も無くマイクを持った教頭が現れた。

試験の流れの説明の後、子供たちはそれぞれ割り振られたアルファベット毎に並ぶよう指示された。

みちかも乃亜の手を引き、列まで連れて行った。

そして他の親と同じように、子供と離れ、体育館の壁側で静かに見守った。


「それでは入学試験に行ってまいります。お父様お母様にご挨拶しましょう。」


先生の声のあと、それぞれ子供たちは手を振ったり会釈をしている。


みちかは静かに乃亜を見つめていた。

小さな身体にゼッケンをつけた乃亜は、みちかを見つめてニコリと微笑み少しだけ手を振った。

猫っ毛の髪で結わいた細い三つ編みが、心もとなく小さく揺れる。


生まれてからまだ5年の時間しか過ごしていない乃亜が、たった1人で試験を受けに行く。


みちかの目には、自然と涙が溢れた。


乃亜は他の子供たちと踵を返し、体育館を後にした。


取り残された保護者達は、見えなくなった子供たちの残像を見守るかのように静かにいつまでもその場に立ち尽くしていた。




翌日の朝、乃亜が幼稚園に行き、静まり返ったリビングでみちかはソファに浅く腰掛けスマートフォンを見つめていた。


あと数分で、聖セラフの合否が学院ホームページ上で発表される。

これで乃亜の受験は終わるのだ。

みちかは大きく深呼吸をして、ほんの少しの間瞳を閉じた。


ここで終わって、ここで始まる。


どんな結果であれ悔いる事はない、やるだけの事をやってきたからどんな結果でも受け入れよう。

みちかは目を開けた。

壁にかかった時計が10時ちょうどを指している。

みちかはホームページの合否確認画面に、考査番号とパスワードを入力した。

画面が切り替わる瞬間が、とてもとても長く感じた。


友利乃亜様 の氏名の下に並ぶ、その2つの文字を、みちかはしばらくの間食い入るように見つめていた。

それからサンライズ体操教室へ電話をかけた。

ほんの2回ほどの呼び出し音で、電話に出たのは百瀬だった。


「お世話になります。友利乃亜の母です。」


「友利さん、おはようございます。百瀬です。昨日はお疲れ様でした。どうでしたか?乃亜ちゃん…。」


柔らかく尋ねるその百瀬の声に、思わずみちかは涙ぐむ。


「聖セラフ、合格頂きました。」


「良かったぁ…。おめでとうございます!」


「ありがとう、ございます…。」


次から次へと涙が流れ、胸がいっぱいで言葉が詰まる。


「乃亜ちゃん、昨日は落ち着いて居ましたしね。友利さんも本当に努力されていらっしゃいましたから…僕は、合格以外は無いと思っていました。いやぁ…本当に良かった…。」


「そんな…。百瀬先生が来てくださったおかげです。昨日は先生が居てくださったから安心して挑めました。乃亜の手を引いてくださって、家族のように歩けて…。本当に嬉しかった。」


「僕も、乃亜ちゃんのパパになったみたいで昨日は嬉しかったです。」


百瀬が明るくそう言いながら、笑った。


遠回しに色んな言葉に包まれて次々と溢れてきてしまう本当の想いは、いつも百瀬が明るく変換して返してくれるからこそ安心して言えてしまうのかもしれない。


「ありがとうございます。本当に…百瀬先生には感謝しても、しきれないです。」


昨日言えなかったお礼をみちかは一通り伝えた。

最後に百瀬が 「それでは土曜日に。」と、言った。


「次が最後になりますね。乃亜ちゃんと会えなくなるの寂しいです。」


「え…。」


みちかは思わず部屋のカレンダーに視線を向ける。

今まで気づかなかったけれど、考えてみれば次の4週目の土曜日で体操教室は終わりだった。

百瀬に会えるのはあと1度きりとなる。


「そうなんですね。あと、1回でしたか…。」


「お待ちしていますね。今日はゆっくりなさってください。」


電話を切ると。みちかは何も出来ずただソファに座っていた。


どんなに自分を誤魔化そうとしても、寂しさとどうしようもない切ない感情が混ざり合い、喜びに勝ってしまっているのが分かった。


もう、本当に会えなくなってしまうのだ。

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